2:あなたの魂なんの味 夜道の悪霊
ぺたり、ぺたり、と。水気を含んだ足音が、ずっと後ろをついてきていた。
「……っ!」
意を決して振り返る。だがそこに人の姿はない。いつもと変わらぬ夜道、ぽつりぽつりと等間隔に並んだ電灯の下には何も居ない。
「なんなの……?」
ジジ、と機械的な音を立てたのはわたしのすぐ横に立つ電灯。不具合でも起きているのか、チカチカと点滅を繰り返す。橙色の灯りが道を照らしては、また暗闇へと戻される。その隙間に、何かが潜んでいるような気がした。
いつもの帰り道が急に怖くなる。居るはずのない何かから目を逸らして早足で家を目指す。足音は私の後をついてくる。わたしは早足で、それはゆっくりと進んでいるはずなのに、どうしてか距離はだんだんと縮まっているような気がした。
「なんなの、なんなの、なんなの」
暗い夜道。立ち並ぶ電灯。点滅を繰り返すオレンジの灯り。もうすぐコンビニが見えてくるはず。はずなのに、どうして、一向にコンビニの明かりが現れない。それどころか。
「さっきから、少しも進んでない……?」
進めば現れるはずのコンビニも、曲がり角も、十字路も、何一つ現れない。周囲を見渡せば同じ建物がずっと並んでる。意味がわからなかった。いつもの通学路に居るはずなのに、自分がどこに居るのかちっともわからない。
ぺた、と。
背後に聞こえていた足音が、唐突に途切れた。
「……っ、誰なの!」
振り返る。でも。
「あ、れ」
誰も居ない。ただ、電灯が点滅していた。
ジジ──明かりが途切れる。
ジジ──オレンジが消えて、黒に。
ジ──浮かび上がるのは人の姿。
小さな子供、だろうか。髪の毛や服といった細かいところまではわからない。夜の闇の中、ただぼんやりと、影のような子供の姿がそこにはあった。
「な、に」
ただ立っているだけ。それだけなのに、気味が悪くて堪らない。人であるとわかるのに人じゃないみたいなその姿が。子供だとわかるのにその顔も服も何一つわからないその姿が。
「っ、か、帰るからね!」
無意味な宣言をして背を向ける。とにかく少しでも早くこの場を立ち去りたかった。この子供から離れたかった。そうして一歩を踏み出そうとしたところで。
「ひっ──!」
大きな音を立てて倒れたのはすぐ目の前に立っていた街灯。硝子が割れる音は悲鳴のよう。アスファルトの地面には砕け散った透明な破片たち。
思わず後退りをしたところで、ぴたり、と。
冷たい感触が、背中に触れた。
浅い呼吸は犬のそれによく似ていた。目の前が点滅している。鞄の持ち手を握る手が痺れて感覚が不確かに。どうしよう、どうしようどうしよう、どうしよう──何もわからないまま、冷たすぎるその感触が消えた。
「へ……?」
背後には、もう誰も居なかった。何も、居なかった。気がつけば街灯の灯りはいつもと変わらず道を照らしている。周囲を見渡せば民家の窓からは明かりが漏れていた。いつもと変わらない帰り道。おかしなものは何一つない。倒れていたはずの街灯も、砕け散ったはずの硝子もない。
そっと背中に触れてみる。温かな何かが、一瞬私の手を撫でたような気がした。
◇
「つまり、自分は白昼夢でも見たんじゃないか、って話かい」
ふうん、と意味深な声を出して、彼女は首を傾げた。彼女と呼んでいいのかわからなかったが、制服がスカートである以上、女子生徒で間違いはないのだろう。
埃っぽい室内は薄暗い。夕焼けはもうすぐ燃え尽きてしまいそうなんだろう。差し込む陽の光は消える前の蝋燭の火に似ていた。
「……昼ではないから、この場合は白昼夢って呼ぶのかな? ま、どうでもいいか。ともかく君はそう思っているわけだ」
とん、とん、と肉付きの良い指が頬を叩いていた。薄汚れたメガネのレンズの向こう、闇の底のような瞳が伏せられる。取り立てて美人なわけではないのに、目の前の彼女はどこか人の目を引く見た目をしていた。
思わず見惚れていると、ところで、と、その目が私に向けられる。どきりと蠢いた心臓の不自然さに胸を押さえたけれど、彼女は特段気にした様子もなく口を開いた。
「君、その後おかしなことはなかったかい。体調が悪いとか、嫌なことが続いているとか──誰かが亡くなった、とか」
さあと、顔から血の気が引く感覚に胸を押さえた手がシャツを握りしめる。だって、なんで彼女がそんなことを知っているんだろうか。私と彼女は知り合いでもなんでもないはずなのに。共通の知人さえ、居ないはずなのに。
「おや、急に顔色が悪くなったけど、大丈夫かい?」
頷きは止まらず。何度も首を振る私に、彼女はくすりと怪しげな笑みをこぼした。
「その様子だと、本当に誰かが亡くなっているみたいだね」
女子生徒の言う通り、あの出来事があったその日に祖母が亡くなった。八十を過ぎていたから、いつ亡くなってもおかしくはなかったと言える。けれど別れはあまりに突然で。
「それはご愁傷様でした、って言えばいいのかな。まあなんにせよ、それなら君はもう大丈夫だろう」
にっこりと浮かべられたその笑みは、空気の上からその顔に改めて貼り付けられたシールみたいだった。何が大丈夫なんですか。そう訊ねる声は頼りなくって、あんまりにも震えていたせいだろう、女子生徒はわずかに眉を寄せて首を傾げていた。
「うん? いや、だって、それはもうやりたいことをやったんだから」
どうして怖がっているんだい、と。からからと笑う目の前の彼女に怯えない理由が、私は見つけられない。
「君が出会ったのは、人に取り憑いて魂を奪う存在だったらしい。ま、悪霊ってやつさ。──はは、また顔色が悪くなった。わかりやすいのは美点であり、また、欠点でもある。これ、僕の先輩の師匠の言葉だ。少しは取り繕うことを覚えなくっちゃね。ま、僕は何にも取り繕えないんだけど!」
こほん、と。咳払いは静かな部屋で誰にも気に留められることなく消えていく。細い瞳がさらにすっと細められて、闇の底はますます深く。
「ともかく、これから君が酷い目に遭うことはもうない。その悪霊は、君のおばあさまの魂を喰らって満足したらしいからね。現に今、君には何も取り憑いていない。だから、安心していいよ」
その言葉に、気がつけば私は立ち上がっていた。おやと眉を動かすその所作が気に入らない。だってそうだろう。大切な身内が死んで安心も何もない。代わりになってくれてありがとうなんて、思えるわけがないじゃない。
そうして腹の底から迫り上がってきた言葉をそのままぶつけても、女子生徒は澄まし顔のままだった。
「ま、それはそうか。だけどもう終わったことだよ。過去は取り戻せない。おばあさまのことは、諦めることだね。……本当に、残念だけど」
ふぅと息を吐き出して、女子生徒はソファに深く沈み込む。言い足りていないと暴れる言葉が口から飛び出そうになったところで、闇の底が私を睨みつけた。それだけ。たったそれだけのことで、唇が縫い合わせられたかのように動かなくなる。
「……一つ、忠告しておこうか」
ひくひくと目の下の皮膚が震えている。どくどくと鳴り響く心音がなんだか恐ろしくて、体をぎゅっと抱きしめる。
闇の底はまだ、私を見つめている。
「日頃の振る舞いには気をつけた方がいいよ。なんとなく口にした言葉や自然に出た態度が人を不快にさせるっていうのはよくあることだ。だけど、本人がそれに気が付かないままじゃあ、ね」
ぴったりと張り付いた唇をべりべりと剥がして、なんとか言葉を彼女にぶつける。力が足りなくて何度もバウンドするボールのように。
どういう意味なの、って。
何が言いたいの、って。
「おいおい、わかるだろ。要するにさ、君は何か恨まれるようなことをしたのさ。思い当たること、ない?」
恨まれる。
恨まれて、いる?
はくはくと開いては閉じる口は魚みたい。頼りなく動く瞳はふりこのよう。心臓は私のことが嫌いだとでも言いたげに胸を殴っている。ベッタリと背中に張り付いたシャツはまるで雨が降った後だ。全部自分のことなのに、全部、自分じゃない別の誰かの感覚だと思ってしまった。
「そんなに顔色を悪くされても、ねえ。まるで僕が君を脅している、虐めているみたいに思われちゃうだろ。僕は事実しか伝えてないぜ」
ま、どうでもいいけどね。
冷めた声でそう言って、女子生徒はにこりと笑顔を作る。その笑みはやっぱり、顔の上にシールを貼り付けたみたいな笑顔だった。
「さて、お代の話をしようか。え? いやいや、何もしてないなんてことはないよ。ははは、したんだな、これが。え、もしかして、本当に気がついてない? ……同じことが起きるのは時間の問題だね。僕たちがしたのはただのその場しのぎの対応だしさ」
気味の悪い笑顔をした彼女は意味がわからない言葉を並べる。
肉付きの良い手が差し出された。その手と顔を見比べてみる。でも、何も変わらなかった。笑みも、手のひらも、私も。
「というわけで、お金を置いていってくれる? なんと格安二千円! 僕ってば親切ぅ! ふ、はは、そんな顔しなさんなよ。ほら」
気がつけば、その手に千円札を二枚、握らせていた。薄っぺらい紙に印刷された野口英世は、ぼうと私を見つめている。その目から逃げるように、私は薄暗い部屋を飛び出していた。
その背に。
「それじゃあね。夜道には、いや、自分の言動には気をつけて。もうここに来ることがないように祈っておくよ」
投げかけられた言葉も、置き去りにして。
◇
「はあ、あれは重度だねぇ」
思わず漏れた声に、背後からぬっと影が現れる。見上げた先の鋭い目は、開けっぱなしにされた扉に向けられていた。
「ね、そう思いますよね、部長?」
問いかけに答えはなく、部長はただむすりと不機嫌そうに顔をしかめるだけだった。けど、今その目で彼女を睨んでもらっては困る。
「ぶちょー。これ以上手出ししたら、二千円じゃ足りなくなりますよー」
「……わかってるよ」
ふんと鼻を鳴らして、部長は出入り口へと向かっていく。乱暴な所作にも関わらず、扉は少しも音を立てることなく閉じられた。
「彼女の日頃の振る舞いは知りませんけどね、ありゃ相当恨みを買ってますよ。でなけりゃ、老若男女悪霊色々揃えてみました! なーんて状態にはならないでしょ。ま、部長が祓ってくれたおかげでマシにはなりましたけどね。さっすが……なんでしたっけ」
「覚えてなくて結構。それより浅倉、アタシのそのさすがな能力を二千円の安さで売るってのはどういう了見だ」
キッと向けられた檸檬色の瞳は、夕焼けの残り滓だけが頼りの部屋の中でも煌々と輝いていた。
知り合ってからいくらか時間は経ったけれど、その輝きにはいまだ慣れない。……似た色をしたあの瞳を、思い出してしまうから。
胸の痛みを悟られないよう、そっと瞼を閉じる。でも暗闇は逆効果で、あの瞳をより鮮明にするだけだった。
仕方なく目を開けば、部長はまだ僕を見つめていた。
「しょうがないじゃないですか。僕らはただの学生ですよ。そりゃあ、まあ? 部長は違うのかもしれな、ちょ、嘘です、嘘! 睨まないでくださいよぉ!」
「お前も恨みを買わなきゃいいな」
「はいはい、気をつけますよ。ま、どうあれ僕たちはできるだけのことをしました」
そうだな、と静かに頷いた部長は、また扉の向こうへと視線を向ける。優しい人なのだ。自業自得で恨みに塗れた人間を、放っておけないくらいに。
こんな僕の、わがままを聞いてくれているくらいに。
「ね、部長」
「なんだよ。飯なら奢らねえぞ」
「違いますよ。ほら、次に彼女が助けを求めてきた時の話です。そうしたら今度は、五千円貰っちゃいましょう!」
にっと笑って親指と人差し指で丸を作ってやる。部長は一瞬目を丸くして、そうして呆れたようにため息を吐くのだった。