8:三面鏡に囚われて ドッペルゲンガー
「あ、お姉ちゃんまだ起きて……って、またやってる」
んー、と。こちらを振り向かぬまま化粧を続ける姉は危機感の薄い様子。それがまた私の不安を掻き立てるものだから、黙っていられなくなってしまう。
「昨日注意したばっかりじゃん、もう忘れたの?」
なにがぁ、なんて間がぬけた声にますます不安を煽られる。恐怖と不安がごちゃ混ぜになって、姉の部屋に入りたいのに入れない。ドアノブを握りしめたままで、昨日話したことをもう一回姉に教えてあげることにした。
「夜中に三面鏡を使ってはいけない。映し出された姿が実態を持ってドッペルゲンガーを作り上げてしまうから──って、その顔。信じてないね?」
それでようやく、姉は私の方へと振り向いてくれた。何言ってんの、なんて笑いながら。
「……ちゃんと話をしなかった私も悪いけど、本当の話なんだから」
そう前置きをして、昨日は隠していた話をすることにした。だって私は、お姉ちゃんに危ない目に遭ってほしくなかったから。
「あのね、私の後輩の話なんだけど。その子、よく夜中にメイクの練習してたみたい。その時いつも三面鏡を使ってたらしいの。……ある日、友達に昨日の夜うちの近くを歩いていたよね、って声をかけられたんだって。だけどその子はその時間家にいて、いつも通りメイクの練習をしてたんだ」
勘違いじゃないの?
予想通りの言葉に私は頷かず。
「うん。それだけなら勘違いかな、で終わったんだけど、話はここでは終わらないの。別の日、街を歩いていたら自分と瓜二つの人間が遠くに立っているのをその子は見かけたんだって。一瞬見間違いかなと思ったけど、それは確かに遠くに立ってる。こっちを見てるわけではなくて、ふらふらっとどこかへ行っちゃたみたい」
へーなんて適当な相槌を打って、姉はまた化粧を再開した。三面鏡を使いながら。
「……そのすぐ後だったかな。その子が帰宅した直後に家に電話がかかってきて、娘さんが事故に遭いました、って。だけどその子は怪我なんてしてないし、そもそも事故なんて遭ってない。娘はここにいますってお母さんが言ったみたいなんだけど、いえ確かに娘さんです、って警察が」
話を続けてみても姉はまだ信用していない様子だった。それでもわたしは止まれない。どくどく脈打つ心臓に急かされて、この話の続きを紡ぎ続ける。
「訳がわからないまま、お母さんとその子は警察に行ったの。そしたらそこに、確かにその子の姿があったの。その子の遺体が」
それで、その子はどうなったの?
気がつけば姉は手を止めて、私の方にまた顔を向けてくれていた。今度はかなり真剣な表情。だから、やっと信じてくれたんだと思ってほっと胸を撫で下ろす。
「……それがね、その話はその子のお母さんが広めたみたいで、その子本人が今どうなってるのかはわからないんだよね。お母さんもその子のことについてはもう何も教えてくれないみたいで」
「そういうことだから、もう夜中に三面鏡使っちゃダメだよ。使うなら洗面所の普通の鏡にしてよね、お姉ちゃん……え、あれ」
ただいまー、って。
今、声が聞こえた。
その声が聞こえたのは私だけじゃなかったらしい、姉もまた、その動きを止めてしまっている。
「今の、お姉ちゃん、だよね? なんで、だって今お姉ちゃんはここにいて、なのになんで玄関の方からただいまって、あれ、待って、あ、お姉ちゃん、ここから出ちゃダメだからね! ちょっと見てくるけど、ここで待ってて」
なんで、なんて震える声にとにかく言葉を返す。それだけで精一杯。本当に、いっぱいいっぱいだった。
「た、たしか、ドッペルゲンガーと本物って出会っちゃいけないとか、そうだったはずだから……お姉ちゃん、私がいいって言うまで部屋から出ちゃダメだからね、ご飯とかトイレとかはなんとかするから、絶対だよ!」
◇
「ははあ、それでご相談に来てくださった訳ですね。ええ、はい、僕ならどちらが本物か見分けがつきますよ」
本当ですかと飛びつくように口にした私に、もちろん、と目の前の女子高生は頷いた。暗い室内の中、眼鏡のレンズの汚れがいやに目立っている。
「あなたが連れてきてくださった方……つまり、深夜に帰宅した方が偽物、ドッペルゲンガーですよ。
はは、指摘されてもピンと来ませんよねあなたは。ええ、どうかそのままで、もうしばらくお待ちくださいね」
それにしても、と彼女は言葉を続ける。
「会わせないようにした、というあなた……妹さんの判断は素晴らしい。よく正しい判断をしてくださいましたね。ええ、そうです。ドッペルゲンガーと本物が鉢合わせてしまうと、その場合死んでしまう──消えてしまうのは本物の方だ」
なら、どうしたら。
震える声で訊ねる私に、初対面の女子高生はそうですねぇ、と穏やかすぎる声を出した。あまりにもその声が落ち着いているものだから、安心して良いのかわからなくなる。
「まずこちらの偽物を消す方法についてですが……彼女はここにくるまでの間、一度でもご自身の姿を鏡に映されましたか? してない? ではこちらをどうぞ。手に取ってご自身を映してみてください」
差し出されたのは小さな丸い手鏡。けれどそれを、姉のドッペルゲンガーは受け取ろうとしない。私の隣に座っているその人は、わずかに身体を震わせているようだった。
「……できませんか? 妹さん、それを押さえつけていて。ああ、ほら、暴れない暴れない。はい、どうぞ。これがあなたですよ。」
うそ、と。
呆然とした声の意味が、私にはわからない。
「ええ、そう、あなた」
何をそんなに驚いているのか、不思議に思って覗き込んでみる。
──そこに、何も映っていない。
「ええ、それはそうでしょう。先ほども言った通りあなたは偽物。それがお分かりいただけたのならお帰り願いましょう」
ああ、なんて悲しげな声を出して、姉だったものはすうと空気に溶けて消えてしまった。こんなにもあっさりと、あっという間に、簡単に。
「ああ、よかった。思ったよりすんなりと済んで」
さて、と女子高生が私に向き直る。
にっこりと、作り物めいた笑みを浮かべて。
「これで大丈夫ですよ。偽者は無事鏡の世界に帰りました。本物のお姉さんを外に出してあげてください。もうドッペルゲンガーはどこにもいませんから、安心して部屋から出してあげてください……と、言いたいところですが」
まだ何かあるのか。不安に怯える私を気にする様子も見せず、彼女は言葉を続けた。
「さて、聞き忘れていたことが一つ。お姉さんは何度、夜中に三面鏡をお使いになられました?」
何度。何回って、そんなの私が知るわけない。
「……把握していない? それは心配ですね。早く帰って様子を見てあげたほうがいい」
どういう意味ですか。そう訊ねようとしたところで、あああともう一つ、と。肉付きの良い人差し指が立てられる。
汚れきったレンズの向こう、淀んだ瞳は真っ直ぐに私を見つめていた。
「お姉さんの部屋に、鍵はありますか?」




