1:トイレの花子さん
「トイレの花子さん? もちろん、知っているとも」
大仰に頷いて見せたその一年生は、自分には全てお見通しだ、とでも言うような目を私に向けていた。眼鏡のレンズの向こう、長いまつ毛に縁取られたその瞳は闇よりも深い黒。長く見ていたらその底に連れて行かれてしまいそうだった。
「学校の女子トイレの何番目かに女の子が入っているんだろう?」
なんでも知っているように思えた彼女は、しかし花子さんのことを知らなかったらしい。首を横に振れば、違うのかい、と首を小さく傾げていた。
「っと、おいおい、そんなに不安そうな顔をしないでくれよ。僕の方が不安になってしまうじゃないか。ま、君が何を不安に思っているのかは全くわからないけれど」
芝居じみたその声音にますます不安を煽られる。身体の震えが酷くなる。唇がうまく動かなくて、紡いだ言葉がきちんと言葉になっていたのかもわからなかった。
「ああ、成程。この学校にもそれらしい存在が居るんじゃないか、ってことか。そうだねえ。僕が知っている話で良ければ聞かせてあげることはできるけれど、それでもいいかな?」
何度も頭を縦に振る。今はただ、少しでも早くこの悪寒から逃れられる方法を知りたかった。
了承を示した私に、目の前に座った一年生はにっこりと笑みを浮かべる。弧を描いた薄い唇が、小さく息を吸った。
「では、教えてあげよう。この学校に潜む恐ろしくも可愛らしい少女の話を」
◇
この学校の管理棟は元々あった旧校舎を建て替えたものだ。旧校舎を取り壊して新たに建て直したのではなく、旧校舎の骨組みを残しつつ再利用した形になるらしい。そのため細かい部屋割りなどはあまり変わっていない。とはいえ学校の部屋割りなんてものはどこもそう大きな違いはないだろうけれど。
旧校舎にはいくつかの怪談話があったそうだ。そのうちの一つが、トイレの花子さん。この学校の場合は山子さんと呼ばれているらしいけれど、それはここでは置いておこう。どうあれ、種類としては花子さんと同じものだからね。
──一階の女子トイレの奥の扉を五回叩くと、中から返事が聞こえてくる。
花子さんですか? そう訊ねると、肯定の返事と共に一緒に遊ばないかという呼びかけが返されるそうだ。その問いにイエスと答えれば、どこか見知らぬ世界に連れて行かれてしまう──はは、何処なんだろうね、それは。是非とも行ってみたい、っと、失礼。魅力を感じるのは不適切だったね。なにせ旧校舎では実際に行方不明事件も起きたそうだし。幸い被害者は皆、数日で発見されたみたいだけど。
さて、そんな旧校舎の怪談話は現在でも健在だ。現管理棟の一階女子トイレの奥、そこに花子さんが居ると言われている。ただね、新校舎になって以来行方不明事件は起きていないんだよ。ならばどうして、いまだに花子さんの存在が語り継がれているんだろうか。今も本当に、そこには花子さんが居るのかな。いや、そもそもそこに居るのは、本当に花子さんなのかな?
本当は、別の何かだったりして。
◇
くすり、と。薄い唇から笑みがこぼされた。思わず肩を震わせた私に、一年生はおいおい、と呆れ顔で口を開く。
「君が持ってきた話だぜ? そんな怯えた顔で僕を見ないでおくれよ。もしかして、本当に花子さんが存在してると思ってる? ああ、それとも」
切れ長の瞳がすっと細められる。ちろりと、現れた舌が薄い唇を舐めた。ルーズソックスのようにくたびれた靴下に包まれた足が組まれる。少し骨ばった、しかし肉付きのよい指が一年生の頬を支えた。
「実際にその声を聞いてしまった、とか?」
少年のようにも少女のようにも見える一年生が言葉を紡いだ。まるで、恋人に甘い言葉を囁くみたいな声で。
思わず固まってしまった私を見て、一年生はくつくつと喉を鳴らす。
「ああ、怖がらせてしまったかな。安心しなよ。花子さんの声を聞いただけで君の身に何かが起こることはない。返事はしたかい?」
してません、なんて、思わず敬語で叫んだ私に、なら大丈夫、と笑みが向けられる。
「花子さんは遊び相手が欲しいだけなんだ。最近の子供は用心深いからね。新校舎になって以降、行方不明事件は起きていないって言ったろう。あれはね、単に生徒たちが誰も花子さんの誘いに乗っていないだけなんだよ。現に君も乗らなかった。そうだろう?」
それはそうだ。いくら不可思議な話に興味がある高校生でも、身の危険を感じるようなことからは逃げ出す。この高校の生徒たちは真面目な子が多い。私とて興味本位で覗いてはみたけれど、流石に誘いに返事なんてしなかった。いや、できなかった。
「ところで、だけどね」
長いまつ毛が上下する。整った顔をした一年生は、正面に座る私よりも向こうを見ているようであった。
「花子さんの様子はどうだったかな。いや、姿は見ていないだろうけど、声とかさ」
問われて、つい先ほど聞いた彼女の声を思い出す。扉の向こうから聞こえた女の子の声。暗くて震えていて、なんというか、自信がなさそうな声だったような気がする。
思ったままを伝えると、一年生は眉間に皺を寄せて瞼を閉じた。
「ああ……そりゃあ大変だ。いや、部長の言う通りだな。放置されすぎて寂しいんだろ、彼女。このままじゃ人攫いが起き、っと」
しまった、とでも言いたげに目を丸くして目の前の一年生は自身の手で口元を覆う。私と目が合うと、彼女はその手を下ろしていやに整った笑顔を浮かべた。
「いやあ、ははは、今のはこっちの話だから君には関係ないよ。ごめんごめん」
あからさまな作り笑いを浮かべた彼女は、それで、と言葉を続けた。
「相談内容は花子さんについて、でよかったかな? これ以上はない? オーケー。解決も何もないからお代は不要だよ」
結局花子さんの正体とやらはわからずじまいであったが、このまま無事に帰れるのならそれでいい。震えはまだ止まらないが、それでも安全であることはわかった。ああ、よかった。そう思って立ちあがろうとしたところで。
「ちょっと待った。これを持って行くといい」
ひょいと投げ渡されたのはフェルトで作られたお守りのようなものであった。中に何かが入っているようだが、全ての辺がきっちりと縫われているために中身を見ることはできそうにない。
「見ての通り、ただのお守りだよ。今日一日しか効果のないものだから、明日になれば捨ててしまって構わない」
私に向けてお守りを投げた手が開かれる。ひらひらとその手を揺らしながら、少女とも少年とも思える見た目をした一年生はにっこりと笑った。
「それじゃあね。気をつけて帰るんだよ」
◇
「……さて、彼女は無事に帰れたかな」
ぽつりと呟いた声に返事はない。元々静かな部室だが、客が居るのと居ないのとではその静かさの存在感が違いすぎる。
こん、と。テーブルの上に缶コーヒーが置かれた。
「お守り捨ててなきゃ大丈夫だろ」
ぶっきらぼうな声に顔を上げれば、気怠げな目をして部長が僕を見つめていた。彼女はくぁ、と欠伸を一つすると視線を出入り口の方へと向ける。彼女に倣ってそちらを見た。扉に取り付けられたすりガラスの窓の向こう、黒い影が不自然に揺らめいている。
「ほらな。アンタのおかげであの二年は無事に家に帰れた」
「僕は何にもしてませんよ。そもそもあのお守り作ったの、部長じゃないですか」
「渡したのは浅倉だ。アタシじゃない」
言いながら、部長はがしがしと乱雑に自身の頭を掻く。めんどくせぇなぁ、なんて言いながらも、今日も彼女は真面目にお仕事をするようだ。
扉が震えていた。がたがたと大きな音を立てて。ああ、身の危険を感じる。面倒臭いと思っているのは部長だけじゃないのだ。とはいえ、今からアレをどうにかするのは彼女。僕はあくまで傍観者、だ。
「それじゃあよろしくお願いしますよ、部長。新聞部唯一の後輩をしっかり守ってくださいね」
そんな僕の言葉に、歩き出した部長は振り返る。彼女はかけていた眼鏡を外すと。
「はっ。王子様ごっこしてる奴がお姫様気取ってんじゃねえよ」
檸檬色の瞳を歪めて、べ、と舌を出すのであった。