54.
ヴォルフガングさんがぽつりと呟く。
「まさか、あそこまで高度な魔導の腕を持っていたとはね。
私が技量を見誤るなど、若いころ以来だ」
私はため息をつきながら席に座り、写本作業を開始する。
「仕方ないですよ。私だって騙されてましたし。
お爺ちゃんはどこまでできるんでしょうね。
魔導で不可能なんかないんじゃないかな」
サブリナさんも呆然としながら呟く。
「なんなのあの早業の解体作業……何が起こったのか、まるで見えなかったんだけど」
「ああ、お父さんもあんな感じでしたよ。
だから言ったでしょ? 私なんてまだまだ未熟だって。
――お爺ちゃんも同じことができるのは、さすがに私も驚きましたけど」
ヴォルフガングさんがふぅ、とため息をついた。
「我が身の未熟か。今日ほど痛感した日はないな。
私が追い求める魂の神髄も、ラーズ殿ならご存じだろう。
――だが、魔導で到達できる位置にそれがある。それがわかっただけでも収穫だ。
私は研究に戻るから、なにかあったら呼びに来なさい」
そういってヴォルフガングさんは、修復室から退出していった。
****
宿舎に向かいながら、アイリスはおずおずとラーズに尋ねる。
「ラーズさん、何者なんですか?」
「俺か? 言っただろう、平民の農夫だ。
小さな畑を耕して生きる、王都の一市民さ」
「でも! 図書館から出てくる時も、衛兵たちはまったく私たちに気付きませんでした!
そんな魔導を平然と使えるなんて、普通じゃありません!」
ラーズがアイリスの頭に手を置きながら、柔らかく笑った。
「普通じゃなきゃいけねぇ理由なんかねぇさ。
他人と違ったっていいじゃねーか。
人として道を踏み誤らなければ、誰に咎められる謂れもねぇ。
自分が信じる道を、迷わず進め」
それは暗に、アイリスが遥か年上の人間に恋い焦がれることを肯定する言葉――
どこか後ろめたさを持っていたアイリスに『そんな自分を認めてやれ』という、温かいエール。
それに気が付いた瞬間、アイリスの心は固く決まった。
「――あの、ラーズさん! お願いを聞いてもらっても良いですか!」
ラーズが眉をひそめてアイリスを見る。
「なんだ? いきなりどうした、嬢ちゃん」
アイリスは勇気を振り絞って、想いを言葉に乗せて口にした――
****
午後の閉館を告げるベルが鳴り、私は今日の写本作業を終わらせた。
手早く『異界文書』を紐で綴じ、折り丁を張り付けて元に戻す。
……だけど、マギーの魂はもどせないんだよなぁ。
私はコップを見つめながら、お爺ちゃんがやったことを思い出そうとした。
だけど余りの早業で、なにひとつ見ることも、感じ取る事もできなかった。
呼びに来いって言ってたし、宿舎に行ってくるか。
私は司書室でのミーティングを終えると、事情を説明してから図書館を飛び出して宿舎に向かった。
宿舎のドアを開けると、お腹を刺激する美味しい匂いが満ちていた。
「ただいまー……なに、このいい匂いは」
匂いに誘われるままに台所に行くと、お爺ちゃんとアイリスが楽しそうに一緒に料理をしていた。
こちらに気付いたお爺ちゃんが笑顔で振り返る。
「おぅヴィルマ、作業が終わったか? ――じゃあアイリス、ちょっと外すから料理を見ててくれ」
アイリスは嬉しそうに頬を染めて頷いた。
「はい、いってらっしゃいませ」
お爺ちゃんは私の背中を押しながら、台所を出て玄関に向かう。
「どうだヴィルマ、作業は順調か?」
「――え? うん、そうだね。予定通り、ニ十ページ進んだよ。二冊同時だから、実質は十ページだけど。
それよりも、なんで仲良く料理なんてしてたの?」
お爺ちゃんは困ったように微笑んで応える。
「あー、なんだかアイリスに懐かれちまってな。
しばらく料理を教えて欲しいとか頼まれた。
仕方ねぇから、これからはここに泊まることにするさ」
え?! 泊まるの?!
「畑は大丈夫なの?!」
お爺ちゃんはニヤリと微笑んで応える。
「この季節は何も植えてねぇ。家で暇してるだけだったからな。
ちょっとくらいは子供のわがままにつきあってやるさ」
「そっかー、じゃあちゃんとベッドとか用意した方が良いかなぁ。
空き部屋はあるし、誰かにお願いしてみようか」
お爺ちゃんが頷いて応える。
「そうだな、そうしてくれ。
いつまでもヴィルマの部屋に泊まるのも、お前に悪いからな」
いや、別にお爺ちゃんと一緒に寝るのを嫌だとは思わないけどね。
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図書館はもう、みんな帰った後だった。私が閉館処理もできるからなー。
がらんとした図書館の中を歩いて修復室のドアを開け、マギーの前に戻る。
『おい早く身体に戻してくれよ!』
お爺ちゃんがニヤリと笑って告げる。
「まぁ待っとけ、『異界文書』。
――ヴィルマ、お前にはこの秘術を伝えておく。
お前のセンスなら、ちょっと練習するだけで習得できるはずだ」
私はきょとんとしながら応える。
「秘術って、マギーの魂を移し替える術のこと?」
お爺ちゃんが頷きながら「そうだ」と応えた。
新しくコップを用意し、お爺ちゃんがマギーの魂が入ったコップと、空のコップに手をかざす。
「よーく見ておけ。ゆっくりとやるぞ――」
こうして私は、エテルナ王家に伝わる秘術の一つを修得することが出来た。
私の手によって魔導書に戻ったマギーは、安心したように喜んでいた。
『いやー、一時はどうなるかと思ったぜ。
あんな脆いコップじゃ、いつ壊れるか不安になっちまう』
「あはは、コップが壊れないように補強しておくよ」
私は閉館処理をすると、お爺ちゃんと並んで宿舎へ戻っていった。
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夕食の席は、異様な空気だった。
仲睦まじく夕食の仕上げをするお爺ちゃんとアイリスは、そのまま配膳まで二人でやっていた。
私も手伝おうとしたんだけど、アイリスが『いえ! 私たちで充分ですので!』と強く主張したので、私は大人しく椅子に座っていた。
夕食が始まると、アイリスの視線がお爺ちゃんに釘付けで離れない。
頬を染めて幸せそうにお爺ちゃんを見つめるアイリスの表情は、私から見ても恋する乙女のそれだった。
お爺ちゃんはいつもの優しい微笑みでアイリスと言葉を交わしながら、料理の手際を褒めていた。
……まるで、新婚家庭にお邪魔した気分だぞ? なんだ、この疎外感は。
私は黙々と夕食を食べながら、二人の様子を観察し続けた。
食後のティータイムも、二人の間には――いや、これはアイリスからの一方通行かな? 甘い空気が漂う。
不安になった私は、思わずアイリスの手を取り「ちょっとアイリスを借りるね!」と言って彼女の腕を引っ張って廊下に出た。
小声でアイリスに告げる。
「ちょっとアイリス、どういうつもり? あなたヴォルフガングさんを慕ってたんじゃないの?」
アイリスは少し悲しそうな目で応える。
「ええ、ずっとお慕いしておりました。
でも今日、ラーズさんとお話をしてヴォルフガング様の御心が見えた気がしました。
あの方は生粋の貴族、平民の私が近寄って良い方ではないと、痛感したのです」
あー、もしかして散歩の時かな?
それにお爺ちゃんが結界術式の魔導具を設置した時も、ヴォルフガングさんらしくなかったし。
あれで幻滅しちゃったってことかな?
「でも、だからってなんでお爺ちゃんなの?」
アイリスが目を伏せ、頬を染めながら応える。
「私に本当に温かい言葉を投げかけてくださったのは、ラーズさんだったんです。
言葉だけじゃありません。あんなに優しく接してもらったのは初めてでした。
包容力だけでも、ヴォルフガング様を上回ると実感したのです」
声からも恋心が溢れてきそうな、嬉しそうな音色だった。
あー……包容力のある男性が好みのタイプなのか。
お爺ちゃん、世話好きだしなぁ~。
「でも年の差があるでしょ? お爺ちゃんはその辺り、けじめをしっかりつけるタイプのはずだけど」
少しシュンとしてアイリスが応える。
「頑張って告白しましたが、『年の差があり過ぎる』と振られてしまいました。
――でも! 私はこの程度じゃめげませんよ!
必ずラーズさんのお心を陥落させて見せますとも!」
瞳に炎が灯ったかのように熱く語るアイリスに気押されながら、私は頭を悩ませた。
アイリスが仮にお爺ちゃんとくっついたら、アイリスが私のお婆ちゃんになるってこと?!
それはなんだか、脳が理解を拒否する世界だぞ?!
私はアイリスに「ちょっとここで待ってて!」と告げ、部屋の中に急いで戻った。
「お爺ちゃん、どうするつもり?!」
私がお爺ちゃんに詰め寄ると、眉をひそめて困ったように笑われてしまった。
「何度も『諦めろ』って伝えたんだがなぁ。
『では二年経っても駄目なら、その時は諦めます!』とか力説されちまってな。
ま、アイリスが現実に気が付くか、俺に飽きるかするまでは付き合ってやるさ。
爺とくっつくのがどれだけ大変か、これから身をもって味わわせてやる」
「付き合うって! まさかアイリスに手を出す気じゃないよね?!」
お爺ちゃんが私にジト目を寄越して告げる。
「お前なぁ、俺を見くびり過ぎじゃねぇのか?
孫娘にしか見えねぇ子供に手を出す男に見えんのか?
爺と共に過ごせば、現実が見えてくるはずだ。
ただ一緒の時間を過ごすだけでも、気付けることは多い」
うーん、お爺ちゃんはアイリスの気持ちに応えるつもりがないのか。
それならもう、あとはお爺ちゃんに任せるしかないかなぁ?
「わかった……頑張ってね、お爺ちゃん」
私はとぼとぼと、部屋の外で待つアイリスを呼びに行った。




