44.
私の問いかけに、ヴォルフガングさんがゆっくりと頷いた。
「考えがあるなら、試してみるといい。ここは君の閃きに賭けよう」
私は防魔眼鏡をかけてから魔導書に近づき、即興で封印結界を構築していく。
一つの魔法陣が魔導書の上に浮かび上がり、ゆっくりと重なっていく。
安定した淡く青い光が『異界文書』を包み込んだのを確認してから、ヴォルフガングさんに告げる。
「ヴォルフガングさんの結界を全て無効化してもらえますか?」
振り返ると、彼が補助動力から魔石を抜き取るところだった。
これで今、『異界文書』は私の施した封印結界術式にしか縛られていない状態だ。
「魔力が漏れてくる気配は……ないですね」
ヴォルフガングさんがゆっくりと近づいてきて、私の術式を見つめていた。
「これは……≪精神感応≫? それに≪魅了≫と、≪誘眠≫? なぜこんな術式を組み込んだんだね?」
私は頭を掻きながら応える。
「思いついただけの組み合わせなので、細かい理由を聞かれても困っちゃいますね」
頭の中に閃いた術式を、我流で改変して結界術式に組み込んだだけ。
ヴォルフガングさんが「ふむ」と顎に手を当てた。
「これが知性体だとすれば、ある程度は納得できる。
ベースになっているのは、基礎的な防魔結界か。
かなりアレンジされているように見えるのは、あの異質な魔力に対して最適化したのかな?」
「たぶんそうじゃないかと……感覚で術式を構築したので、自信はないですけど」
「とすると今は、『異界文書』を寝かしつけている状態か」
私は頷いて応える。
「ひとまず暴れないようにしたんだと思います。これから≪誘眠≫だけを抜き取ってみますね」
術式をその場で改変し、新しい封印結界に更新して縛り直す。
ゆっくりとだけど、異質な気配だけが『異界文書』から漏れ出してきた。
魔力というほどではない力の残滓――そんな気配が封印庫を満たしていく。
「えーと、『異界文書』さん。聞こえてるならリアクションをお願いします」
不意に、頭の中に成人男性のような声が響き渡る。
『お?! なんだなんだ?! お前の言ってることが理解できるぞ?! どういう魔法だ?!』
まさか、この声が『異界文書』の声……? ちょっとキャラ崩壊が凄いなぁ。もっと無機質なのかと思った。
私はコホンと咳払いをしてから応える。
「魔法じゃなくて、魔導術式――魔術だよ。
できれば暴れるのを止めてもらっても良いかな」
『俺が暴れる? ――ああ、なんかここは居心地悪いから、不平不満を漏らしてはいたな。それのことか?』
それで大雪が降るの? とんでもなく迷惑な魔導書だなぁ。
「ここってそんなに居心地悪い?」
『んー、昨日の場所よりはずっと居心地がいいな。
これは……場所じゃなく、お前の傍だと心地いい気がする。
お前が傍に居るなら、不平不満は我慢してやるよ』
「えー、私が傍に居ないと暴れるってこと? それは許してほしいんだけど」
『少しくらいなら我慢してやるが、一日過ぎても戻ってこなかったら、また愚痴るかもな』
私はヴォルフガングさんに振り返って、涙目で訴える。
「どうしたらいいんですか、こいつ。とんでもなくわがままなんですけど!」
ヴォルフガングさんはクスクスと笑みをこぼした。
「これは≪魅了≫の影響かもしれないね。『異界文書』は今、君に魅了されている状態なんだろう。
だがそれで大人しくなってくれるなら好都合というものだ。
幸い、君の家は図書館のすぐ近く。通うのに困る場所でもない」
「それはそうですけどー?!」
ヴォルフガングさんが『異界文書』に向かって告げる。
「君は何が記載されている魔導書なんだね? 聞いても良いかな?」
『……』
「では、この子が傍に居れば、大人しくすると約束してくれるかな?」
『……そうだな。それくらいなら約束してやる』
ヴォルフガングさんがニコリと微笑んだ。
「君が暴れると、この子が困り、悲しむことになる。自重するのをお勧めするよ」
『……』
ヴォルフガングさんが私に向かって告げる。
「私はこの術式を再現する魔導具を組み立ててこよう。
今日中には間に合うと思うから、少し待っていて欲しい。
それまで君は、彼と話でもしていてくれ」
そう言い残し、ヴォルフガングさんは地下室の階段を上っていった。
私は小さく息をつくと、『異界文書』に対して告げる。
「君はいったい、どういう魔導書なのよ」
『魔導書って言われると違和感があるな。
いつ、なにがどうなってこの世界に来たのかも覚えてない。
自分が何者なのかも曖昧だ。
ただ俺の本来の姿はこうじゃない――その確信だけはある』
「じゃあ、異界から来たってのは確かなの?」
『んー、ニュアンスが合ってるかはわからないが、だいたいそんなイメージで構わんぞ。
名前も忘れちまったから、”異界文書”とかいう名前で我慢してやる』
私は深いため息をついて応える。
「君を写本しろ、なんて言われてるんだけど。できると思う?」
『俺の複製を作るってことか? それはそれで、仲間が増えるなら歓迎だけどな。
一人だと退屈で死んじまいそうだ』
私はジロリと『異界文書』を睨み付けた。
「答えになってないよ。君は写本できる魔導書なの?」
『俺は魔導書じゃねーからなー。できるかどうかは、お前の力量次第じゃねーか?』
厄介だなー?! でも、中身は見た通りに書き写すだけだし、魔力も模倣できるなら、同じ物は作れる気がする。
だけど、写本に原本と同じような意思が宿るかと言われると、さすがに無理な気がした。
ふぅ、と小さく息をついて告げる。
「なんで王様は、君の写本なんて引き受けたのかなぁ」
『そんなことはお前らの都合だろう。俺だって寝床から連れ出されて迷惑してる。
あそこは寝心地が良かったからなぁ。
ここじゃあ寝るのも一苦労だ』
「――寝るの?! 魔導書が?!」
『何言ってやがる。お前もさっき、俺を眠らせただろうが」
あ、そういえばそっか。
でもまるで、人間が眠るみたいに言うものだから……。
「一日どれくらい眠るの?」
『三時間ってところかな。一日に眠る時間は、そのくらいだ』
「短いね……起きてる間、ずっと私が居ないと駄目なの?」
『できればそうして欲しいね。そのくらいこの場所、いや土地か? 居心地悪いんだよ』
うえぇ……どうしろっての? 三時間しか離れられないとか、私が生活できないんだけど。
「ちょっと上司に相談してきていい? すぐに戻ってくるから」
『おう、必ず戻って来いよ』
私は『異界文書』に手を振ってから身を翻し、地下室の階段を上った。
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「――と、言う訳なんですけど、どうしたらいいですか?」
珍しく昼間も居たディララさんに、『異界文書』の言い分を伝えてみた。
ディララさんも困ったように眉をひそめて悩んでるみたいだ。
「そうねぇ……平日夜間もそうだけど、休日なんかも困るわね。
でもあなたが傍に居ないと、また大雪が降るのでしょう?
それはとっても困るわよね……」
私は深いため息で応える。
「そうなんですよぉ……どうしろっていうんですかね」
ディララさんがソファから立ち上がって私に告げる。
「ちょっとヴォルフガング様に相談に行ってくるわね。
あなたは『異界文書』の傍で待っていて頂戴」
そう言うとディララさんは、司書室を後にした。
「……はぁ。戻るか」
私は憂鬱な気分で、地下室に向かって歩きだした。




