僕の、本当にやりたいこと
僕は、少し湿った右手で木製のシャーペンを強く握る。なかなか僕の汗を吸い取ってはくれないシャーペンは、手の中で踊ってしまう。もう、僕の汗を受け入れるキャパシティが、なくなってしまったのだろうか。でも、ちょうど良いのかもしれない。今日の他に、あなたを握る日はもう無いのだから。あなたを手にした日から今日まで、まるで明日からは使えなくなるのを分かって計画的に使っていたかのようにさえ思われる。汗をしみこませる計画。なんとつまらない。だが見事、成功だ。これが僕にとって初めての成功かもしれない。
汗が必要以上に付箋をふやけさせないように、僕はいったん付箋から手を離した。いや、それは言い訳かもしれない。付箋がふやけてしまっても、その代わりはある。一枚めくれば、全く同じ付箋。付箋はもう後一枚しかないけれど、使うことはないだろうから、それを使ってしまっても良い。
だから、本当は、付箋にそれを書く勇気が無いだけかもしれない。
「僕の、本当にやりたいこと」
それを書いてしまったら、本当に僕はそれを実行に移さなくてはならないような感じがしてしまう。良くも悪くも、この世に生まれおちた生物が、命を紡ぐ。そんな責任が、願わずとも生物の背中に伸しかかる。そのように、僕にも、この付箋に書いてしまった以上、「僕の本当にやりたいこと」を今日やらなくてはならないという使命が課せられてしまう。
ただ、その二つには明確な違いがある。生まれおちた生物が「本当に命をつなぎたい」と思っているならば、この世に生まれる、という行為に勇気なぞ要らない。ただ、「僕の本当にやりたいこと」に関しては全く違う。なぜなら僕は、《《まだ付箋に書いていない》》、のだから。
僕は、周りを浮遊している空気をちょっと吸う。金木犀の香りが薄まってきていた。もしかしたら、慣れただけかもしれないなと、思いを作り、大きく吐いた息とともに吐き出す。思いがけず勇気が湧いてきやしないだろうかと期待したが、無駄だった。
僕はスマホを起動させ、音楽を流した。
「オドリドキ」
僕がまだ生まれていないときからの有名な曲だ。僕が「オドリドキ」に初めて出会ったのは、世界的人気マンガにどっぷりはまり、それをアニメでも見るようになった頃。「オドリドキ」は、そのアニメの最初のOP曲なのだ。初めて聞いたときはなじみにくい曲だと思っていたが、アニメを見ていく内に歌詞の深みだったり、古くさい感じのするメロディに、どんどんはまっていった。そしていつしか、僕もこの曲のように、人々の笑顔をかき集めながら世界中を旅したいと思っていったのだ。
僕は急いで、シャーペンをとる。今のうちに、と思っていた。オドリドキを聞いている内に。勇気とかいう概念が、興奮で覆い被さって消え去ってしまっている内に。
僕は、しっかりとシャーペンで書いた。付箋が破れてしまわないように気を付けながら。
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シャーペンを机に置いた。カラン、と乾いた音が部屋中に響く。ちょうど「オドリドキ」はサビに入ったようだった。すると周りの空間が膨張を始め、温かいオレンジ色で染まっていくのを感じた。ほんのりと全身を包む色に、自分が溶けていくような感覚が脳内に走る。そして、周りの景色が、変わっていく。僕はオレンジ色になり、景色に浸透しているのだ。そのまま、どんどん、景色がスライドしていく。
ついに、そこは、僕の知らない国だった。