外科的クロルジアゼポキサイド5
26
つと深呼吸。
黒い扉に向かって、重い息を吐き捨てる。
ぷはー。
横を見やれば少女が先ほどのクロワッサンの蓄えた腹から擬音を吐き出す。
「いやー美味かったのー、パンを食いたい時に、パンを食う。これ以上の幸せがこの世にあるのかのー!」
満足そうで結構である。
嬉しそうで良かったと思う反面、正直なところ僕としてはもう一つくらいは食べたかったなと思っている。
結局、バスケットの中に入っていたクロワッサンはこの少女が一人で全て平らげてしまった。
美味そうに食ってたから、良いんだけれど。
小麦もさぞ喜んでいよう。うんうんうんうん。
満腹中枢はメーターを大きくオーバーしていたから、時期にこの食欲ともおさらばできよう。
またね、お紅茶!おさらば、クロワッサン!
クロワッサンに別れの挨拶を心で言い放つ。
今生の別れである。
地獄ではいっぱい食べよう。
地獄に行く事を自分で確定させているあたりが、自分を地獄へと呼び寄せるマイナス思考なのだろうが、辞めようとて辞められない。
マイナス思考、最高!
「じゃあ、これからどうするかの。京介、部屋にでも戻るか、部屋にでも戻って作戦会議でもするか」
「うん、そうだな…」
数瞬、僕は悩む。
悩む。
悩む。
悩む。
うーーーん。
「へい、おっ客さん!」
うへっ!
いきなり後ろから、呼ばれたと思ったら頸椎をチョップされてしまった。
痛い!凄く!
衝撃的な、強烈的な挨拶。
爆発娘とは、似て違う。
ハープーンとは違い、やはりどこかまだ少し人間味が残っている。そう、やはりあれは人間では無い、比べたら歴然だ。
宿木小鳥、怖い。
他の人からチョップを受けた事で、心象を落とす、貶める、かの大学生は置いておいて。
「カエラさん、どうかしたかい?」
秋足カエラ、通称働き者、又の名を守銭奴という奇怪な従業員に声をかける。
「カエラちゃん!わたしの名前はカエラちゃんっす!」
呼び名をカエラちゃんへの訂正要請。
あれ、この会話前もしなかったか?
折衷案で、カエラさんになったはずだが。
違ったかな?
「あぁ、えとじゃあ、カエラちゃん。改めて、僕の名前は京介」
「はいよく出来たっす、お客さん」
そっちはまだお客さんなのね。
これが客と従業員の線引きなのか、知り合いと友達の線引きなのか知らないけれど、やっぱりコミュニケーションって難しいね。
危うく、僕なんかは傷つきかねないよ。
「京介、また新たな知り合いの登場か?全く、股の広い奴じゃな」
股が緩いみたいな使い方されても困るし、そもそもお前が言いたいのは顔が広いだろ。
「違う違う、股が緩いと言い間違えたんじゃ」
結局そっちなんかい。
いや、そっちも違うけれど、股が緩くも、顔が広くもないけれど。
「知り合いが多いに越したことはない。大事にするんじゃな」
「儂は先に部屋に戻っとる」
ポンポンと背を叩いてから、飄々と意見を述べると、さっさと行ってしまう。
…
「へーお客さん。一人で泊まりに来たんじゃ無いんすね。わたしはてっきり」
カエラちゃんも僕の宿泊詳細を知らないとは、知っていたのは受付をした女将だけ、口が硬いのは褒められるべき気質だ。
それでも旅館が回るのが凄いな。
およそ、女将が把握していれば、それに従うカエラちゃんと、16歳の料理人でやりくりできるのであろうと思う。
まぁ、簡単に言うが、それをやろうと思えば、やはりトップの威厳は守らねばならないし、かの女将は動き仕事もやりまくっているのであろう。
率先垂範、頭が上がりません。
「それで、それでわたし達の共通の話題に戻りますけれど、どうでした?」
「どうでしたとは?」
いやはや、何の話をしたかな、正直色々な話を、種々の人としすぎて、えと、幼女でも、パンでも、ネズミでも、猫でも無いし…。
「あー、面会の話っすよ、面会の話!鉄黒錠先生との。いやー、わたしが後押ししたから、どうなったかなってちょっとばかり心配だったんすよ」
「…あぁ!面会の話ね。そういえばしたね、面会。すっかり、スッキリ忘れていたよ」
「忘れちゃダメでしょ。嫌なことは、頭の硬い人と話すのは、頭に残るでしょ」
自分の元を辿った雇い主と話す事を嫌な事だと言い切る従業員、強い。
僕みたいなのは、嫌なことは一目散に頭から蒸発してしまうけれど、いや確かに思い出せば、思い出そうとすれば、海馬を働かせれば、シナプスを働かせれば、僕の怠慢細胞達を動かせば何とか。
「あー、思い出した。そう言えば、そうだった。
あったあった、凄く前、多分そんなことも紀元前くらい前にあったはず」
「そんな前じゃ無いっすよ。わたし達、そんな前に話したんじゃ無いっすよ。覚えてない事を時間のせいにしないで下さいっす。もう、紀元前って、キリストさん生き返って、また死んじゃってますけど、BC何年の話っすか」
「紀元前1274年くらいかな」
「カデシュの戦いじゃ無いっすか!どんな死闘を行なったって言うんすか!」
「激戦だったね。死ぬかと思った」
「絶戦の舌戦だったんすね。いやー、社会人すごいっすね。軽く尊敬っす」
尊敬してくれてありがとう。
実際のところは絶戦に至るどころか、前哨戦で根を上げていたけれど、嘘ついておこうと思う。
「でも、カデシュということは平和協定で終わるって事なんですから良かったっす」
「いえいえ、何か、ドタバタ音が聞こえたんで、全く何事かと思いましたよ。病人相手に大の大人が暴力に打って出たのかと思ったっすよ」
そんなことは万に一つもしないけれど、かの大先生にそんなことは出来ない。
打つ手があるなら、握手してもらいたいところだ。
「ドタバタしてたのは、あいつだよ、小鳥。突然小鳥が入ってきたのさ。僕と先生のランデヴーもとい、インタビューを台無しにされたよ」
「ランデヴーなら台無しになって欲しいところっすけど。ナイス小鳥ちゃんっすけど。あー、確かにあの時、部屋に入って良いか聞かれて、良いって答えたっすよ、そう言えば。雰囲気、不味くなっちゃったっすか?」
「いや、まぁ、何だ丸く収まったから良しとするさ。お互いそう言うのは僕たち、迷惑掛けて、掛けられてだからな」
「随分と仲良くなってるんすね、改めて」
「会って数時間でしょ。仲良くなりすぎっす、凄いっす。お二方とも。さぞ、地元には友達多いんでしょうね!」
キラキラお目目がこちらを見る。
はは、笑っとくか。
およそ、小鳥は多いよ。
僕は違うんだよね、言わないけれどね。
「お客さんは今さっきも、この部屋のお客さんと話してたんしょ?」
「あぁ、まぁ、成り行きってやつだよ。そう言う君は、カエラちゃんはどこでオマケを稼いでたんだい?」
「オマケを稼いでるのは当然なんすね。おかしいっすねー、そんなに守銭奴に見えますか?」
見える。
見えるよ。
バッチリハッキリ、見えるよ。
「いや、働き者って意味だよ。そう言う仕組みなんだろう?」
そうっすけどと言いながら、疑わしくもこちらを見る。
「ほら、じゃあ、差し支えなければ今何をしていたのかくらい話しておくれよ」
「分かったっす。特に、特別な、会計とかしている訳じゃないっすから言いますと」
「荷物運びっすよ」
「荷物運び?」
僕はオウム返す。




