開放的インサイド2
…
「水、重たく、振れる。重心がまるで言うことを聞かない」男は語った。
「そう、悲観的に捉えるべきではない。オーバーな想像からな、共感は愚弄と同一であることを認識するべきだ」
「ワシは奇病に罹っているが、決してそれを理由に書かなくなったわけではないのだから、だからそう…」重ねて、男は自分がなぜ書かなくなったかを悔いるように話すのである。
「水の重さに耐えきれず、沈んでいく泳ぎを忘れる狸では決してない」
「もちろん、人を拐かす狐でも、無ければ、狼でも、見ての通り少年でも、ピノキオでもない」
「ワシは現実だ」
ここまで言葉を吐き出させたところで、僕は口を挟まずにはいられなかった。空気感が自分を侵食しすぎるのである。こちらも音を発さねば、壊れそうなほど、いや、正しく、同じく溺れそうだった。
「机の上のアレ。つまり、万年筆と原稿用紙があるのは何故です。書けないなら、いえ書かないのなら、何故それを四角四面にも揃えているのですか」
直立で、動かない足の関節を無視して、指を振り上げ、机上の道具たちを指摘する。埃の被った道具たち、指し示されたそれに、首を曲げずとも、意識を寝ている男は向けた。
そして、言う。
「動く事ができる。部屋の端まで運ばれてきた食事を取りに行き、栄養を取り、排便を自分で行い、布団に入るまでの身支度を行い、一夜を明かし、また新たな朝日を迎える事が出来る」
「では若人よ。君は、自分ができなくなったら、これらの全てを投げ打ってしまうと言うのか?」
「食べる事が出来なくなれば、その食材を潰し、皿を捨て、スプーンを折り、歯を抜き、排便が出来なくなれば、排便専用の尿取りを履き、便器を完全に排し、水さえを止め、眠る事が出来なくなれば、枕の蕎麦殻を無尽に飛び散らせ、羽毛を叩き、ベッドを破り捨てるのか?」
無機質な言葉の乱立。彼はつまりこう言いたいのだ。彼にとって、対するものが、食事であろうと、排泄であろうと、睡眠であろうと、それほどまでに作家業というのが、生活の一部、いや生活そのものだと言いたいのだろう。
やらないから、無くすとか、そんな矮小な幅での会話をしているのではない。
普通の基準がちがう。
「君にはどんな人生を自分が送ってきているのか、それそのものがハッキリと見えないと見える。数十年、ワシも生きたように、君も生きていたはずだ。目的を無くせば、終わる」
「逆説的に、目的が残りさえすれば、生きているのとなんら違いは無い」
「お前は何だ?」
僕はしがないただの…。
口にすることが憚られるのがわかる。これでは無いのを自分で分かりつつ、その言葉に安寧を感じる。
「ふん、聞きしに劣る」
「大弁は訥するが、というやつか」
「特別感が感じられない。およそ、かの人物であるとは到底想像もつかない。これは噂のままか、全てを切ることが出来る、気配を切っとるとでも言うのか」
大男は言う、全てを切る、と。
どこかで聞いたことのある。誰かへのフレーズであったはずである、それがなぜか僕のものとして、僕に届いている。
「招待状。届いていたはずだ、届いていないとは言わせない。黒い封筒に入れられた黒い招待状。それが無いとおよそここへは辿り着けないはずだ」
声に怒声が加わり始める。沸点を通り越さんとし、水が、徐々に泡を生む。
招待状。僕自体は受け取っていない。その形状も、色彩も、初めて知った。知らない、受け取ったのは弱座切落である。
「浮向京介。お前は誰だ。何故ここへ在している。招待状が無ければここへは侵入できないはずだ」
「弱座切落。ワシはあいつにこそ、招待状を送ったはずなのだ。お前はそうで無いように見える。ワシはそう判断する。断じている。お前は誰だ。その名が、偽名でないなら、お前は誰だ」
「僕は、浮向京介です。それ以外の誰でも無く、それこそ、弱座切落とは違う」
「では何故なのだ。何故お前はここにいる?偶然でも、ここへ来ることは出来ない。何者だ。お前が弱座で無いのなら」
横たえながら、熱暴走を繰り返す鬼を僕は、喉の裏を刻々とコクコク震わせながら、立ち尽くし、見るだけだった。抑え方もなにもなく、初めて自分が何故、弱座切落でないのか分からなくなる。
会話がすり替えられた。激怒している。
およそ、この会話は、水に沈む黒鬼と、部屋で真剣で遊ぶ少女との会話であるべきだったのだ。
少なくとも、およそ、彼が送った言葉の全ては、僕ではなく、全て少女に宛てられたものだったのである。それに僕は水を差した。
「今日、入場されたし、最後の登場人物が弱座切落。朝餉が男だと言った。伝説を聞かんとすれば、男であるはずだ。その符号こそが、間違いのない証拠。見ればわかるのだ」
血走りの目が僕を捉えんと、こちらへと筋を操作する。
「だからこそ、入場することを許可した。招待状を自身宛に送ったはずだ」
「改めて聞こう」
「お前は誰だ」
「何を知り、何が出来、何をする男だ」
何だ、この巨大は何を僕に問いかけている。僕に、何か答えられる何かがあるのか。何故、僕は何も言えない。汗は氷点下を越えて、腹部を転がる。
思う。それとなく、消えたいかも知れない…と。
「ドーン!」
爆発音、ノックをせずに部屋に入った僕だったが、失礼などでは無い、マナーとかそんなレベルでない。それ以上に、それこそ爆発的に、部屋に侵入する奴がいた。
大学生だった。
「失礼するぜー!失礼するって先に言って、失礼しない奴もこの国には非常に多いけれど、あたしはしっかりと言った分はちゃんとやります。有言実行、宿木小鳥でーす」
イェーイと言いながら、大きなピースを巨大にぶつける。とことん、破天荒な女である。いい意味で、褒め言葉だ。
「このままシリアス一辺倒に繋げられるかと思ったかい?お爺ちゃん、もう結構。高血圧になっちゃうよー。怖いよー」
馬鹿げたような、バカみたいな女のつたたる、言葉の乱打。空気は青ざめた。熱暴走も収まるほどに。
「あぁ、君か。宿木君」
「すまないな。冷静さを欠いてしまった。浮向君、許してくれ、老人の矍鑠の一面だ」
落ち着いた男は、ふっとその顔色を青に戻すと、膨れ上がった肺を小さくする。
「招待状は2箇所に送った。一つは、宿木君、もう一つは弱座切落。どんな手違いがあったのか、運命とはいや分からないものだ」
「ワシは歓迎しよう。招かれざる客は、初めて今、招かれた客として受け入れよう」
「浮向京介。つまらなく、面白い男」
巨大のぬるい言葉。締まらない最後。こうして僕のワンマッチは終焉した。




