ポチ
ポチはチワワだ。
子ネコのように小さくて、濡れネズミのように毛もしっとりしていて、目はアニメのキャラクターみたいに大きな犬。
俺の想像できる限りの可愛い犬が、みかんのダンボール箱から俺をじっと見上げて、ふにふにの尻尾をふるふる振っていたら、そりゃあ、実家の愛しい犬たちと別れて1年半の俺でなくとも、にへらと相好を崩そうものである。
「ポチ~、ポチおいで~」
出会って3秒、名前は電撃的に決定した。
8月5日、午前4時、以来、その日がポチの誕生日である。
ポチが住んでいたのは、俺の住んでいたアパートのゴミ捨て場のダンボールだった。
朝から、きゃんきゃん犬の鳴き声が聞こえるなぁ、と思っていたので、きっと夜のうちに何者かが不法投棄をしていったのだろう。
ポチも眠っているうちに捨てられて、ここはどこ? みたいに首をかしげていた。
「ふん、首輪無しの小僧か……まあいい、ちょうど俺の後ろの席が空いてるんだ、乗りな!」
小芝居で後ろに乗れと言った手前、背中におぶっていきたかったけど、ポチがじたばた暴れるので、けっきょく体の前に抱えていかざるを得なかった。
ともかく、即席のパイロットと化した俺は、ごみ収集トラックが迫りくるゴミ捨て場からポチを救い出したのだ。
犬の飼い方は、だいたい知っている。
ちゃんと病気の検査を受けて市役所にペットとして申請しなくちゃならないけれど、今のアパートはペット禁止なので、ベランダに勝手に巣を作ったハトとか、天井裏に住み着いたネコと同じ肩書きにしておく必要がある。
勝手に俺の心の隙間に住み着いたチワワ、なんか伝奇モノみたいな響きがして嫌いじゃないけどな。
とりあえず部屋に戻った俺は、俺の顔を見上げるポチに顎をペロペロ、第二ボタンをペロペロ、鼻をペロペロ舐められながら、インターネットでペット可のアパートをペロペロ探すことにした。
ようやく見つけた家賃、住環境ともに理想の物件をポチっとな。ポチとお引っ越し。
やってきたのは2LDの手狭な部屋だったけれど、オール家電で、ネット完備なので、不自由しそうな感じはなかった。
防音効果もバツグンで、お隣さんが「生きていますか?」と言って安否を確認しにきたことがあった。初日にポチと一緒に挨拶をしてまわったので、印象に残っていたんだろう。可愛いもんな、うちのポチは。お隣さんもポチの安否が確認できてニコニコしていた。
とりあえず、近所の店が調べられるよう、ネットだけは接続できる状態にしておいたら、山積みのダンボールの中から、ペット用品だけは一式取り出しておいて、首輪とリードを見つけたから、あとはなんかどうでもいいや。
ポチ隊長に鼻面をくっつけて報告する。
「ポチ隊長、犬用トイレ、ジャーキー、お散歩用セット、準備完了いたしました!」
「『……よし、あとは押し入れにしまっておけ、まずは、お散歩に行くぞ』(腹話術)」
「サー、イエッサー……サーで大丈夫だよな?」
今さらながらポチの性別を確認すると、女の子だった。マダムだったか。
これは悪いオスが近づかないよう、俺が全力で守ってあげないといけないやつだ。
慣れない引っ越しと夏の暑さで、すっかりテンションが下がってしまったポチ隊長。
彼女を励ますためにも、今すぐお散歩に連れて行くことは必定であった。
スマホで周辺地図を見ると、近くを多摩川が流れているらしい。けっこう大きい川みたいだ。そういや、ゴールデンレトリバーのアクスは河に連れて行くと一日中泳ぎ回っていたなぁ。
「ポチ隊長、近くに川があるようですが、いかがいたしましょう」
「『ふむ、暑い日に、川で水浴びもよいものだ。しかし』」
「どうしました? 隊長」
「『夏場の熱くなったアスファルトは、我ら小型犬にとって脅威なのだ』」
「そんなもの、オレジェットでひとっとびですよぉ!」
俺は、ポチ隊長を抱き上げて、ぶーん、ぶーん、と部屋の中を周遊させた。
これからの楽しい生活の予感に、俺の胸は満ち溢れていた。
……そして俺はポチを胸に抱えたまま、押し入れの引き戸を開いた状態で、おおよそ1分くらい固まっていた。
そこは、俺の知っている押し入れの中身とちょっと違っていた。
俺の知っている押し入れは、たとえばアパートの備品の取説とか、ラックとか、先人の忘れ物とかがある感じだと思っていたけれど。
ゴゴゴゴ、と空気の流れる音が響く、謎の洞窟が引き戸の向こう側に続いていたのだ。
「おい」
俺は、ポチ隊長とその暗闇をのぞき込んだ。
右を見ても、左を見ても、何も見えない。
真っ暗な闇が延々と続いているだけで、明かりひとつなかった。
「おいおいおいおいおいお~い……」
山の近くに建てられたアパートだったため、虫とかトカゲとかが出てくるんじゃないか、的な覚悟はできていた。
虫とか、トカゲどころか、これじゃ出てくるのは……出てくるのは……いったい、何が出てくるの? これ。
外では、みーんみーん、じーわー、とセミの声が聞こえてくるほどの猛暑。部屋の中では、ゴゴゴゴゴゴゴ、と音を立ているダンジョン。
このダンジョンのお陰か、部屋は思いのほか涼しかった。岩でできた洞窟が、ひんやりと涼しい風を送ってくるのだ。
しばらくの間、ぼーっと洞窟の入り口で涼んでしまった。
「ていうか、ちょっと待って。えーっ、なになに、この洞窟……夏なのに、暗くてひんやりしてて……」
顔を見合わせると、ポチは嬉しそうに目を輝かせて、舌をぺろん、と垂らしていた。
俺の胸を前足でひっかいて、「ねぇねぇ、飼い主ぃ。外よりも、こっち散歩してみたくねぇ?」的なジェスチャーを送ってくる。
それに対して、俺はぶんぶん、首を横に振った。
いやいや、ポチ隊長、それはあまりに危険極まりない行為だと、小生は状況判断するであります!
ポチ隊長は、いつでもお出かけの準備を万端にしているけれど、俺の装備なんてシャツとハーフパンツだけだ。
とりあえず、ダンジョンのひんやり感があまりにも魅力的だったため、いちおう大家には、「これがこのアパートの標準オプションだと思っていた」と事後報告することにした。
だって屋内でペットを飼う時に割と高くつくのがクーラー代だものな。
24時間で200円として、ひと月6000円が浮くのは正直ありがたい。
もしも大家に報告して、警察騒ぎになったりしたら、俺がこの快適なアパートから追い出される可能性もある。
いや、ひょっとすると俺が世間知らずなだけで、世の中こういう物件が割とあるのかもしれない。
俺は、ダンジョンと部屋を行ったり来たりしているポチに、両手で背中をぐいぐい押されながら、まずは似たような事故物件に関する知恵袋はないか、ネットで情報をさぐってみることにした。
「えーと、押し入れがダンジョンとつながっていた時は……と、あったこれだ……『法律に詳しい人に相談があります。数か月前からアパートにGやSが出始めて、冒険者に討伐を依頼したら、部屋の一部がダンジョンと繋がっていることが発覚しました。大家に相談したところ、私に部屋を貸したときは確かに繋がっていなかった、と言い張っていて、「部屋を引き払うなら、前借りした分の家賃は返すが、敷金礼金は返せない、冒険者へのクエスト依頼料も支払えない」と』……って、ナニコレ?」
GやSが出て冒険者に依頼するって時点でなにかおかしい気がした。
Gならわかるけど、Sってなんじゃらほい、と思って検索したら、スライム(S)のイニシャルだった。
えっ、じゃあGは、と思って調べると、Gはゴブリン(G)のイニシャルだった。ごめん、俺の想像していたのとちょっと違ったわ。
ははは、最初はいったい何のご冗談を、と思った。
ゲームのモンスターが部屋に出てくる、なんて話を真面目にしているんだもの。
しかし、どうやらこのサイトがジョークサイトとか、そういう理由ではなかったみたいだ。
……どうやらこの物件、ネットも異世界と繋がっているみたいだぞ?