天人と兵法者
室町から安土桃山にかけて、兵法が発達し、諸国を遊歴する兵法者というものが現れた。
そんな中、一人の兵法者が山を越えようとしていた。近くに川が流れており、見ると一本の松の木に透き通るような羽衣がかかっていた。川には透き通るような肌の女人が水を浴びていた。
「このような川で一人水浴びをしているとは、怪しい女人である。」
兵法者は女人を山賊の一味か妖怪変化の類かだろうと思い。そのまま通り過ぎようとした。
「もし、そこの者。」透き通るような声が聞こえてきた。
「そこにある羽衣を取ってくれぬか?」女人は言った。
兵法者は構わず歩を進めた。
「これ、そこの者聞こえぬか。」女人が言うと、兵法者は突然足を止めた。足が動かなかった。兵法者は驚いたが、すぐに平静を取り戻し、松の木の方へ向かって行った。不思議なことに足は動いていた。兵法者は羽衣を手に取ると、女人のもとへ投げ渡そうと思ったが、届くような距離ではなかった。兵法者は女人のもとへ近づいて行った。兵法者の心には、この女人が山賊や人の類ではなく、妖怪変化の類であろうという思いがあった。同時に人よりは容易に御しやすいという思いもあった。兵法者が川辺まで行くと、女人も川辺へ上がってきた。兵法者は女人に羽衣を渡した。
「これでよいか?某はもう行くぞ。」兵法者は言った。
「其方、わしのことが怖いか?」女が尋ねた。
「怖くはない。」それは本当のことであった。
「人界の者は、天人を崇めていると聞くが真か?」
兵法者は少し考えあぐねたあと口を開いた。
「そなたは自身が天人と申すか?」兵法者は半信半疑であったが、この女人の身形といい、先ほどの神通力といい、信じられることもあった。
「さよう。其方は天人を知らぬか?」
「初めて見た。」
「何処へ行くつもりなのだ?」
兵法者は自分が兵法者であるということ、諸国遍歴をしていることを告げたが、女人は理解しかねているようであった。
「人の世は今、戦ばかりである。それに役立つのが兵法よ。」
「天界には争いがない故、兵法などというものはない。人界の者は何故争うのか?」
兵法者は答えあぐねた。考えたこともなかった。
天人は禅僧のようなことを言うのかと兵法者は思った。釈迦や禅僧が争いのない世を求めているのであれば、争いごとのない世に住む天人と言うことは似通ってくるのだろうとも思った。
「米や田畑、武士ならば手柄欲しさであろうな。」兵法者は答えた。もっとも、武士の手柄は米や田畑に通じるから、武士が争う理由も米や田畑といえるだろう。それは兵法者も同じなのだろうか。それならば、他にも方法はあるはずなのだが。結局は何を持って飯にありつこうとするかはその者の性なのかもしれない。
「天界は食べる物に事欠かない。それに我らはそもそも食物というものを食べなくてもすむ。」食べなくても生きていけるのであれば、争うことなどないであろう。
「其方、わしと天界に行かぬか?」女人は尋ねた。
「天界に行って何をするのか?」
「わしと夫婦になり、天界で暮らすのよ。」争いもなく、日々の飯には困らない、そんなところで生涯を終えるのだという。武士や坊主であったならこの問いかけに喜んで、女人とともに天界に行ったのだろうか。しかし、兵法者はこの兵法者にとって退屈でつまらない問答を早く終えてしまいたかった。兵法者にとって天界に行って暮らすというのは、絵師に絵を描くことなく生涯を終えよというのと同じではないかと思った。次の瞬間には、兵法者は抜き打ちざまに女人に斬りかかっていた。もともとこの兵法者も名の知れた兵法者ではなく、この乱世の中で食い詰めた無頼漢が己の腕と命を質にして飯にありついていたに過ぎなかったのかもしれない。さて、兵法者が抜き打ちざまに斬りかかると女人は煙の如く消え失せてしまい、あとには、ぼろぼろの衣が河原の石の上に落ちていただけであった。のち、兵法者が峠を越してから聞くところによると、あの峠には狐狸や山姥の類が旅人を騙して日々の糧にしているということであった。




