1.王子様、記憶をなくす
「スーハー、スーハー」
松本莉英は木の影に隠れながら大きく深呼吸した。
少し先から一人の男子生徒が歩いて来るのが見える。
高校生でありながらファッションモデルをやってるほどのスーパーイケメン・青柳くん。
さらりとした黒髪にほっそりとした頬、切れ長の瞳に綺麗な眉。
身長も高く、足の長さは体全体の半分もあるのではないかというくらい長い。
まさにモデルになるために生まれてきたと言っても過言ではない美青年。
そんな彼に告白して玉砕した女子生徒は数知れず。
けれども、彼女たちにとって青柳に告白することはファンとして一種のステータスとなっていた。
(今日こそ……今日こそ大好きな青柳くんに告白するんだ!)
そして莉英もそんなファンの一人だった。
「すううぅぅはああぁぁぁ」
大きな深呼吸をひとつ。
大丈夫、やれる。昨夜は何度も自作の青柳人形相手に練習したではないか。
そう自分に言い聞かせて、目の前を通り過ぎる青柳の前に飛び出した。
「青柳くん!」
「え?」
「ぴぎゃっ!」
しかし飛び出した瞬間、目の前にあったのは青柳のブレザーだった。
思い切りぶつかった彼女は、ボフッと柔らかそうな音を立てて地面に尻もちをついた。
やってしまった。
完全にタイミングを間違えてしまった。
「い、痛ったあ……」
莉英はお尻をさすりながら、ハッと居住まいを正した。スカートのすそも捲れ、あられもない格好だったからだ。
「大丈夫?」
一方、青柳は表情を変えることなく莉英にスッと手を差し出した。
どこまでも王子様キャラの青柳に、キュンと胸がときめく。
「だ、だい、大丈夫だす……」
莉英は恥ずかしいのとお尻が痛いのとで混乱し、思い切り噛んでしまった。
(ひいぃっ! だすって何よ、だすって……!)
思わず両手で顔を隠す。
穴があったら入りたい。
けれども青柳は何事もなかったかのようにニッコリ笑うと「よかった」と言って立ち去ろうとした。
その行動に、莉英は慌てて「待って!」と呼び止めた。
「なに?」
振り返った青柳は、さきほどまでの笑顔はどこへやら。心底めんどくさそうな表情をしていた。
今まで何人もの女の子に告白されてきた彼には、呼び止められた理由も、これから言われようとする内容も、すべてわかっていたのである。
断る文言を考えるのも、伝えるのも、そしてそれによって泣かれるのもめんどくさい。
結果的に断るなら、青柳にとっては無駄な時間なのだ。
けれども、莉英の口から出た言葉は予想外のものだった。
「わ、私と……ど突き合ってください!」
「………」
「………」
「………」
「………」
「…は?」
(しまったー! 付き合ってくださいと言い間違えたー!)
何言ってんねん、自分! と不慣れな関西弁で自分ツッコミする莉英。
対する青柳は「んー?」と考えながら言った。
「どつけばいいの?」
「あ、いえ、えーとこれはその……」
「えい」
ポスッと青柳が軽く小突くと、その拳が莉英の胸に当たった。
「………」
「………」
瞬間、莉絵の鉄拳が青柳の顔面に飛んだ。
「いいいぃぃぃぃやああああぁぁぁぁぁっ!!!!!」
「げふっ!」
条件反射で手を出してしまったが、もう遅い。
青柳は無防備な状態で顔面パンチをくらい、数メートル吹っ飛んでいった。
「きゃーーー! ごめんなさい、青柳くん!」
青柳は吹っ飛びながら「この女、ヤベー……」とつぶやいて意識を失った。
◇◆◇
「……ん……」
「あ、青柳くん!!」
「わっ……!」
青柳は目を開けた途端に叫び声を上げた。
自分の顔を覗き込んでいる女の子が、至近距離にいたからだ。
「き、君は……?」
「ごめんなさい! 青柳くん! 私のせいで……」
ここはある病院の一室。
青柳が意識を失ったので、莉英が救急車を呼んだのだった。
「青柳くん。青柳くん……?」
莉英はどこかぼんやりと焦点の定まっていない青柳の目を見た。
「青柳……て、誰?」
「は……?」
「君は? 僕は何故こんな所に。僕は……僕は誰なんだ?!」
「青柳君! しっかりして……。せ、先生に。看護師さんを……」
莉英は急いでベッドサイドのナースコールを押した。
◇◆◇
「一時的な記憶喪失ですね」
「「はい?」」
医師の一言に、二人は声を合わせた。
「頭を打った衝撃のせいでしょう」
「記憶喪失って、あの記憶喪失ですか?」
「どの記憶喪失かわかりませんが、あの記憶喪失です」
莉英の体に衝撃が走る。
自分はなんてことをしてしまったのだろう!
「せ、先生⁉ 記憶喪失っていつ治るんですか?」
「それはなんとも。すぐ元に戻るかも知れませんが、時間がかかる場合もあります」
「どうやったら治るんですか?」
「これと言って治療方法はありません。心身を休めて、それから前の記憶に結びつくような物を見たり、やったりすることくらいですかね。でも、無理はいけません。あくまで自然に記憶が戻るのを待つしかありません」
「そんな……」
莉英は泣きそうな声を出し、青柳は黙って聞いていた。
「青柳くん、ごめんね。ほんとごめんね」
「なんで謝るの?」
「だって、私のせいだから……」
「君の?」
「私が殴……げふんげふん。ふざけて突き飛ばしちゃって。それで、えーと……頭打っちゃったから……」
殴って記憶を失わせたとは口が裂けても言えない。
言えるはずがない。
もちろん医師は原因を知っているが、そこはあえてツッコまなかった。
「もう一度同じことしたら記憶戻るかな?」
「うん、やめてくれる?」
ギュッと拳を握り締める莉英を見て、医師が止めた。
「でも、先生。一刻も早く記憶を戻さないと青柳くんが……。モデルの仕事もあるし」
「先程も申し上げました通り、記憶喪失に治療法はないんです。自然に記憶が戻るのを根気強く待つしか……」
莉英はしくしくと泣きながら青柳に言った。
「青柳くん、ごめんね。本当にごめんね。私、なんでもするから言って」
「なんでも?」
「宿題教えてって言ったら教えてあげるし、遊び行きたいって言ったら一緒に行ってあげるし、お腹空いたって言ったらご飯作りに行ってあげる。あ、そうだ! モデルの仕事もついてってあげるね!」
(そりゃ押し掛け女房だろ)と医師は思った。
けれども、莉英の言葉に青柳は首を振った。
「大丈夫だよ。自分のことは自分でするから。それに……すごく変な話だけど、今の状態、とても気分がいいんだ」
「気分がいい?」
「スッキリしてるというか……。ワクワクしてるというか……。パアッと目の前が明るくなったような不思議な感じ」
思いがけない王子スマイルが発動され、莉英は別の意味で意識が飛びそうになった。
「ふむ。よくはわからないが、今までずいぶん抑圧された生活を送ってきたようだね。記憶がなくなって、そのしがらみから解放されたと見るべきか」
「そういうわけで先生。すぐにでも退院したいんですが」
「すぐはムリだ。きちんと検査しないと」
「ではすぐに検査お願いします」
「……最近の若者は怖いもの知らずで恐ろしいよ」
ぶつくさ言いながらも検査の準備を始める医師。
検査の結果、日常生活に支障はないとわかり、それから数日して青柳は退院した。