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仔猫だって困惑中

 ほとんど駆け込むようにして厨房に戻ってきたケイティに、洗い物をしていたフィオナが目を丸くした。

「どうしたの?」

 キレイな額にしわを寄せた彼女に、ケイティはどうにか『笑顔』に見えるものを作って答える。

「いつものこと。だんな様があまりにあんまりだから、腹が立って」

「そう……」

 頷きながらも、フィオナの眼には訝る色と案じる色がまだらになって浮かんでいる。

 そんな彼女の隣に立ち、ケイティは流し台の洗い桶の中に手を突っ込んだ。ガチャガチャと、いつもよりも手荒く食器を片付けるケイティを、フィオナが物問いたげに見つめてくるのが感じられたけれども、それを無視して洗い物に専念するふりをした。


 そうしながらも、ケイティの中には不平不満が渦巻いている。

(ホント、だんな様って何をしたいのかがちっとも解らない)

 保護者面して他の男をあてがって、じゃあ、重荷や迷惑になってはいけないからと、懸命にブラッドが安心できるように振舞おうとしているケイティの努力は非難する。


(アレンやティモシーと仲良くして欲しがったのは、だんな様の方のくせに)

 ケイティは、優しい恋人も良い夫も望んでなどいない。

 ただ、ブラッドの傍にいて、彼のことを色々していたいだけだ。

 それなのに。


「もう!」

 思わず声を漏らし、手当たり次第に皿を引き上げる。


 と。


 ガチャン、と鋭い音がした。


 反射的に泡の中に手を突っ込んだケイティの指先に、痛みが走る。

「ッ!」

 パッと引いた手から、鮮血が滴り落ちた。

「ケイティ、大変!」

 声を上げたフィオナに苦笑を返し、ケイティはそれ以上汚さないようにと布巾で指先を包み込む。

「あはは、平気平気。ちょっと切っただけだから」

 言いながら、無事な方の手で割れた皿を拾い上げようと、再び泡の中へ差し込もうとした。が、横合いから伸びてきた手に阻止される。

(だんな様!?)

 振り返ったケイティの目に入ってきたのは、しかし、別の人物だった。


「大丈夫かい?」

 眉をひそめてそう言って、手の主――ルーカスは、ケイティの腕をつかんだまま、運んできた空の食器を脇に置いた。一人分には見えないから、ブラッドの分も持ってきてくれたのだろう。


 ルーカスはケイティの腕を離し、代わりに布巾で包まれている手をそっと持ち上げそれを外す。

「結構深そうだ」

 傷の具合をしげしげとあらため、彼はフィオナに目を向けた。

「これ、手当てをしてくるから、あとの片づけを頼めるかな?」

 話を振られたフィオナはフイと視線を逸らし、頷く。

「洗い物はもうほとんど終わっているので、一人でも大丈夫です」

 答えた彼女の中に、さっきまではなかったぎこちなさというか、硬さというか、そんなものを見て、ケイティは内心首をかしげた。

 最近、フィオナとルーカスはこんな感じだ。誰にでも花の様な微笑みを向けるフィオナが、ルーカスを見る時はうつむきがちになり、彼はと言えば、そんな彼女に少し困ったような笑みを浮かべる。

 ケンカでもしたのかとフィオナに訊いたことがあったけれども、彼女は小さくかぶりを振っただけだった。

 どちらも、常に誰に対しても人当りがいいだけに違和感がある。


 二人の奇妙な態度に思いを馳せていたケイティは、ルーカスに名前を呼ばれて我に返った。顔を上げると怪訝そうに見返されたから、どうやら何度か呼ばれていたらしい。

「ケイティ、行こうか?」

「あ、はい。すみません。じゃあ、ごめんね、フィオナ。怪我しないようにね」

 手を引かれて厨房を出て行きながらフィオナに向けてそう言うと、彼女はいつも通りの笑顔で送り出してくれた。


 そのまま食堂へと足を踏み入れかけたケイティだったけれど、ルーカスと手をつないでいる――ように見える――この状況をブラッドが見たら、また何か言われるかもしれないということに気付く。微かに身体を強張らせたケイティを、ルーカスが振り返った。

「大丈夫だよ、隊長はもう出て行ったから」

 ルーカスの笑顔にムッと唇を尖らせ、

「別に、気にしてなんか……」

 言いかけ、苦笑する。

「してるの、バレバレですよね」

 そうして、はぁ、と大きく息をつく。

「もう、ホント、だんな様がさっぱり解らなくて」

 ブツブツ言うケイティに、ルーカスが小さく笑った。

「すごく、単純な人ではあるんだけどね」

「あたしには、難しい人、です――最近は」


 少し前までのブラッドは、確かに解かり易い人だった。

 絡みついていくケイティに渋い顔をしつつもそれを受け入れてくれているのが判っていたから、彼女だって触れることをためらわなかったのだ。それなのに、まるで今まで見えていなかった何かに気付いたように、ケイティが近づくのを嫌がるようになってしまった。

 そうなってからのブラッドは、さっぱり理解できない人だ。


「あたしが何かしたのかとも思ったんですけど、今さらだんな様が変わっちゃった理由は、何も思い当たらなくて」

「ケイティは何もしていないよ」

「でも……」

「まあ、色々、思うところがあるんだよ、あの人にも」

 そんな会話を交わすうち、二人は救護室に辿り着く。


「そこに座って手を出して」

 言われたとおりにケイティが椅子に腰を下ろし、まだ布巾に包まれたままの右手を差し出すと、ルーカスは慎重に布を外して傷をあらためる。

「血は止まっているみたいだ」

 ルーカスの台詞に促されるように、ケイティは身を屈めて彼の手の中にある自分の指先を覗き込んだ。と、その時、荒い足音が近づいてきたかと思うと、唐突に救護室の扉が開かれた。

「ケイティが怪我を――」

 あまりに突然のことだったから、手と手を取り合い、髪が触れ合う距離で額を近づけたまま、ケイティとルーカスは同時に振り返る。二人の視線をまともに受けて、ブラッドは戸口で硬直していた。


 束の間の沈黙の後、彼がぎこちなく問いかけてくる。

「ああ、その、怪我は?」

「大丈夫、です。ちょっと切っただけで」

「そうか」

 何だか、ブラッドの様子がいつにもまして変な気がする。

「あの、だんな様?」

 そっちこそ大丈夫ですかとケイティが続けようとする前に、彼が動いた。

「たいしたことがないなら、いい。邪魔をしたな」

 そう言って、ブラッドはさっさと行ってしまった。


 呆気に取られたケイティが再び閉ざされた扉を見つめていると、不意にルーカスが噴き出した。

「ルーカスさん?」

「ああ、ごめん。さあ、傷を見せて」

 ルーカスは手早く傷薬を塗り付け、細い指に器用に包帯を巻いていく。

「ありがとうございます」

 あっという間に手当てを終えて立ち上がったルーカスに、ケイティはペコリと頭を下げた。

「どういたしまして」

 答えた彼は、そのままケイティを見つめてきた。


「隊長のことを考えているね?」

「え」

 反射的に否定しようとして、ケイティは唇を噛む。

「……そうですね」

 確かに、考えていた。

 突然現れ、去って行ったブラッドの顔に浮かんでいた表情について。

 姿を現した時はポカンとしていて、次の瞬間、苛立ちがよぎったようにも見えた。けれどもすぐにそれが拭い去られて、かと思ったら、行ってしまった。


「何なんですか、あの人」

 ムスッと呟いたケイティに、ルーカスが苦笑する。

「まあまあ、あの人は君のことが気になって仕方がないんだ」

「それって、保護者としてですよね」

 不満をみなぎらせたケイティの言葉を、ルーカスは否定も肯定もしなかった。

「君に幸せになって欲しいと思っているんだよ。ただ、自分の手元にいつまでも置いておくわけにはいかないと思いつつ、誰かに渡すのも気に入らないんだ」

 優しい声でのその台詞に、ケイティは唇を尖らせた。まるでブラッドが彼女に対して独占欲を抱いているように聞こえる。

「でも、だんな様には好きな人がいるんですよね」

 それなのに、ケイティのことを手放せないのは、父親めいた気持ちがあるからに違いない。

 ブラッドを責めるケイティにルーカスは目をしばたたかせ、そしてその視線を泳がせた。

「まあ、いるね。多分自覚していないけれど」

 気まずそうなルーカスの態度に、ケイティはブラッドのその想いが秘すべきものであることを悟る。


 隠さなければいけないのは、きっと、手が届かない相手だから。


(やっぱりあのひとなのね)

 思わずうつむき唇を噛んだケイティの顎先に、そっとルーカスの指がかかる。それに顔を持ち上げられて彼を見ると、温かな眼差しが注がれていた。


 ルーカスは手を下げ、彼女の目を覗き込む。

「隊長は、誰かを慈しみたくて仕方がないんだ。あの人にとってほとんど本能みたいなものでね。……誰か、有り余る庇護欲と愛情を注がせてくれる相手が、あの人には必要なんだよ」

「だったら、さっさと奥さんと子どもさんを作ったらいいんです。で、思う存分甘やかして過保護にしたらいいんですよ」


 あたしなんかに構わずに。


 拗ねたようにケイティがそう言うと、ルーカスは小さく笑った。

「まあね。でも、その前に、相手を見つけないと」

「相手の方が、だんな様の想いに気付いてくださればいいですね」

 チクチクと疼く胸をなだめながら、半分本当の気持ちで、ケイティは答えた。ルーカスはそんな彼女を束の間見つめ、そして、頷く。

「私もそう思うよ」

 やけにしみじみとした口調でそう残し、ルーカスは「お大事に」と笑って出て行った。


 静かな救護室に一人残されたケイティはしばし佇み、小さく息をつく。

 いつまでもグダグダと埒もないことを悩んでいても仕方がない。

「気持ち、切り替えよう」

 自分自身に言い聞かせるように呟いて、ペシンと両手で頬を叩いた。


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