SS:この先ずっと
ブラッドの記憶の中に死ぬまで刻み込まれることになるその夜は、隣で眠っていたケイティが突然ムクリと起き上がったことから始まった。
「……ケイティ」
どうした? とブラッドが訊くより先に、彼女が呟く。
「産まれる」
「え?」
「産まれる。多分、すぐ」
ブラッドは飛び起きた。
「ちょっと待て。すぐに産婆を――」
枕もとの灯りを付けると、汗をにじませたケイティの額が目に入ってきた。その顔は苦痛に歪んでいる。
「ちょっと、間に合わない、かも」
ケイティは呻いたが、初産の彼女はそんなにすぐに分娩には至らないはずだ。だから、産婆を迎えに行くだけの猶予はあるはず。
――そのはずだが、本当にこの場を離れてもいいものなのだろうか。
ブラッドの胸中に、不安の影が差し込んだ。
産婆を――誰かを呼びに行っている間に、ケイティの身に何かが起きてしまったら……?
「だんな様」
震える声が、彼を呼んだ。それを耳にした瞬間、ブラッドの心が決まる。
彼はサッと寝台から下り、扉に走った。
「誰か来てくれ!」
廊下に向けて太い声を轟かせると、間を置かず階下からぞろぞろと隊員たちが集まってくる。
「どうしました?」
問うてきたのはルーカスだ。その隣には不安そうに顔を曇らせたフィオナもいる。
「ケイティが産気づいた。産婆を呼びに行ってくれ。湯を沸かし、フィオナは彼女の傍に」
一同は物も言わずに動き出す。
寝室に戻り、急いでケイティの傍に向かうと、ホッとしたように彼女が頬を緩ませた。
「つらいか?」
囁きながら手を取ると、握り返してくる。
「今は、大丈夫です」
それから、ひたすら、産婆を待つ。
陣痛の間隔は着々と詰まってきており、きっと、もう、あまり時間はない。フィオナがケイティの額の汗を拭ってやっても、すぐにまたジワリと滲んでくる。ブラッドはずっとケイティの手を握っているが、時折彼女がきつく爪を立ててくるのは、きっと痛みのせいだ。
どれほど時間が経ったか――ずいぶんと経った気がする。
だが、産婆はまだ着かない。
もしかしたら、迎えにやった者が事故でも起こしたのだろうか。
戻ってくるのがあまりに遅い気がして、ブラッドは立ち上がる。
と、その時、ケイティが苦悶の呻きを漏らした。
「ケイティ?」
「もう、出そう」
「何?」
「もう、待てない」
その呟きは、最後、悲鳴じみたものに変わる。
フィオナが不安そうにブラッドを見上げてきた。
迷っている暇は、ない。
「……オレが取り上げる」
「何が必要ですか?」
顔が青ざめていても、声が震えていても、フィオナはここに留まりそう訊ねてきた。
「湯と、清潔な布を」
フィオナは頷き、駆けるようにして部屋を出ていく。それを見送り、ブラッドは生唾を呑み込んだ。
赤子は、これまでにも二、三度取り上げたことがある。
皆、元気にしていて、最初の子など、もう五つにはなるだろう。
(だから、大丈夫だ)
今回も、絶対にうまくいく。
ブラッドは自分自身に言い聞かせるようにして、胸の内で呟いた。と、ふと視線を感じて見下ろすと、ケイティがジッと彼を見つめていた。
「すまん。オレでは心配だろうが……」
ひざまずいてそう言ったブラッドに、しかし、ケイティは微かに笑んだ。
「心配、なんて」
彼女が伸ばしてきた手を取ると、その笑みが深まった。
「だんな様がいてくれること以上に安心できることなんてないですよ」
惜しみなく与えられる揺るぎない信頼に、ブラッドの胸が詰まる。
今度こそ、応えなければ。
今度こそ、応えられる。
握り締めた小さな手に口づけて、ブラッドは囁く。
「……ありがとう」
――それからほどなくして、分娩が始まった。
*
ブラッドは、信じられない思いで腕の中を見下ろした。
生まれてすぐはあれほど泣き叫んでいたのに、今はピクリともせずに眠り込んでいる。
赤子はとても小さく、とても軽い。伝わってくる温もりがなければ、この腕に抱いているとは思えないほどに。
「だんな様?」
呼ばれて、ブラッドはハッと顔を上げる。
結局産婆が到着したのはブラッドが赤子を取り上げて少ししてからで、彼女はケイティの様子を一通り診ると、うまいもんだと彼の肩を叩いて帰っていった。
そしてケイティはといえば、出産を終えた後、力尽きたように眠りに落ちていた。声が聞けないのは不安でたまらなかったが、見るからに疲れ切っていた彼女を起こすこともできず、目覚めるのを今か今かと待っていたところだ。
安堵の息を呑み込みつつ、ブラッドは枕元にしゃがみ込む。
「起きたか。痛みは?」
「大丈夫です。あんなに痛かったのが、嘘みたい」
答えながらも、ケイティの眼はブラッドの腕の中にいる赤子に釘付けだ。
「癖っ毛なのはあたしですけど、色はだんな様なんですね。不思議。顔も、だんな様に似てるみたいなのに、あたしにも似てる気がする」
「ああ、そうだな」
ブラッドも同じように思っていた。
しばらく二人でスヤスヤと眠る赤子の顔を見つめていたが、ややして、ケイティが口を開く。
「名前、何にしましょうか」
「君は、どうしたい?」
生まれてきてから考えようと二人で話し合っていたが、いざ赤子を目の前にしてもスルリとは出てこない。
候補ぐらいは考えておくべきだったかと軽い後悔がブラッドの頭をよぎったその時、ケイティが呟いた。
「妹さんのお名前って、何でした?」
「え?」
「だんな様の、妹さん。お名前は?」
「リリー――リリアナを縮めて、リリーと呼んでいた」
リリー、と、ケイティが幾度か口の中で繰り返す。そして、彼女が顔を上げた。
「リリーにしませんか?」
問われて、ブラッドは即座に答えを返すことができなかった。
「だが……」
言い淀んだブラッドに、ケイティが小首をかしげる。
「妹さんの代わりにするとかじゃ、ないですよ」
そう言って、彼女はニコリと笑った。
「妹さんはだんな様に愛されて幸せだった。その幸せを、この子も引き継ぐんです」
「ケイティ」
ブラッドはその先を続けることができなかった。
妹が幸せだったと、言えるのだろうか。
その妹の名を与えて、この子が幸せになれるのだろうか。
ケイティがブラッドの答えを待っているのはその眼差しから伝わってきたが、どうしても頷けない。
彼女はしばらくブラッドを見つめていたが、やがて指先で赤子の頬をそっと撫でた。ピクリとむし笑いを浮かべた子どもに微笑んでから、目を上げる。
「自信を持ってください。だんな様は人を幸せにできる人です。だんな様が自分自身を信じられないならそれでもいいです。でも、あたしは信じてください。だんな様はあたしを幸せにしてくれています。だから、妹さんも幸せだったはずだし、この子も幸せにしてくれます」
ケイティは真っ直ぐにブラッドを見つめて、説いた。
彼女の眼差しは揺らがない。
全幅の信頼がそこにある。
「オレは……」
ブラッドは再び腕の中に眼を落とした。
自分はこの子を守り、慈しんでいく。
確かに、そうできるのか、そうできると信じても良いものなのか、ブラッドの中には迷いがあった。
だが、ケイティは彼を信じている。一片の疑いもなく。
彼女がそう信じているのならば、自分も、少しくらいは信じてみてもいいのではないだろうか。
「リリー」
名前を、呼んでみた。
と、それに応じたように、赤子がむにゃむにゃと口元を動かした。
思わず笑いが漏れる。と同時に、目の奥が熱くなった。
ブラッドは幾度か瞬きをしてから、ケイティを見る。
「オレはこの子を幸せにする。何ものからも守ってみせる」
力を込めて告げた彼に、ケイティが笑う。ふわりと、花が綻ぶように。
その笑顔もまたこの先ずっと守っていくのだと、ブラッドは胸の中に刻み込んだ。
これでSSも終わりです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




