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SS:危ういところで


身元が判明したフィオナが詰所を留守にしている間の一コマ。


「隊長、アレ、何とかできませんか?」

 執務室で手紙を読んでいたブラッドに渋い顔でそう言ってきたのは若手のアレンだ。

 ブラッドは手紙を置き、彼に目を向ける。

「アレ?」

「判ってるくせに。ケイティですよ。隊長だって気付いてるでしょ?」

 肩をすくめたアレンのため息混じりの言葉に、ブラッドは眉を寄せた。


 そう、もちろん、彼も気付いている――気付かずにいられるわけがない。


 渋面のブラッドの前で、アレンが続ける。

「まったく、今日なんてスープに塩じゃなくて砂糖が入ってましたからね。何をするにも上の空で。フィオナが行っちゃってからまだ一週間ですよ? 彼女、いつ帰ってくるんすか? このままじゃ、自分らの身がもちませんって」

 アレンの嘆きの答えは、今まさにブラッドが読んでいた手紙の中にあった。いや、答えとは言えないかもしれない。


 事の始まりは、フィオナの身元が判明したことだった。

 非合法の娼館を営もうとしていたデリック・スパークの元からケイティと共にフィオナを助け出して三年。先ごろ、記憶のない彼女の家族がようやく見つかった。


 フィオナの本当の名前はベアトリス・トラントゥール。海を越えた隣国フランジナの貴族の娘らしい。

 未だ記憶が戻らぬフィオナだったが、それが本当に彼女の素性なのかの確認も兼ねてルーカスと共にフランジナへと旅立ったのは、七日前のことになる。

 つまり、フィオナが警邏隊詰所からいなくなって七日が経ったということなのだが。


「彼女は、まだしばらく戻りそうにない」

「しばらくって、じゃあ、いつ帰ってくるんすか? ――帰ってくるんですよね?」

「……」

 眉をひそめたアレンに、もちろんだとブラッドも答えたかったが。


 ルーカスからの手紙によると、確かにフィオナはベアトリス・トラントゥールで間違いないとのことだった。

 もちろん、家族と再会してフィオナの記憶が一瞬にして戻ったということはなかったようだが、本当の家族が――彼女が帰るべき場所が見つかったなら、果たしてここに戻ってくるだろうか。


「隊長?」

 黙り込んだブラッドに、アレンが訝しげな眼差しを向けてくる。

「……ケイティにはオレから話をしておく」

 アレンの問いは放置したまま、ブラッドはそう告げ立ち上がった。



   *



 ケイティは庭にいた。手にした箒で落ち葉を掃いてはいるが、明らかに意識はそこにない。だが、ぼんやりしていても落ち葉は着実に集められてはいるのは、流石だ。


「ケイティ」

 ブラッドは彼女の背中に呼びかけた。

 しかし、返事がない。

 彼はこっそりとため息をつきつつケイティの前に回る。


「ケイティ」

 機械仕掛けの人形さながらにチャキチャキと手だけを動かしている彼女に、ブラッドはもう一度呼びかけた。

 が、やはり、返事がない。

 ブラッドはヒラヒラとケイティの目の前で手を振ってみる。と、二、三度の瞬きを経て、ようやく彼女の眼の焦点が彼に当てられた。


「あれ、だんな様? こんなところで何してるんです? 何かご用ですか?」

 彼を見上げてくるのは笑顔だが、本来の輝きがそこにはない。

 どうしたものかとケイティを見下ろすブラッドに、滑らかな彼女の眉間にしわが寄る。


「だんな様?」

 小首をかしげたケイティが大きな目で真っ直ぐに彼を見上げてくる。成人の眼球の大きさは概ね定まっているらしいが、彼女のその目を見ているととうていそうは思えない。色も、明るい陽の下で見ると一層透き通った緑になるから、まるで緑柱石がはめ込まれているようだ。

「あの?」

 ケイティの声に訝しげな響きが滲んで、ブラッドは自分が彼女の目に見入っていたことに気付いた。

 彼は小さな咳払いで茶を濁す。


「ああ、すまん。その、君が、少し元気がないようだと……」

「あたしが、ですか?」

 ケイティはキョトンと目を丸くし、そして笑い出した。

「やだなぁ。どなたがそんなことおっしゃってるんです? 全然、なんともないですよ?」

 誰かが言っているだけではなく、ブラッド自身も思っていることなのだが。

 彼はそれは口には出さず、別の事実を彼女に告げる。


「先ほど、ルーカスからの手紙が届いたところだ。フィオナのことがはっきりした」

「え?」

 ケイティの動きが止まった。さながら、一瞬にして氷の中に閉じ込められてしまったかのように、表情ごと。

 そんな彼女を見守りつつ、ブラッドは続ける。


「フィオナの本当の名前はベアトリス・トラントゥール――フランジナの貴族の令嬢だ。両親が確認した」

「ベアトリス・トラントゥール……」

 ケイティは顔を伏せ、噛み締めるようにその名を呟いた。

 彼女の背丈はブラッドの胸の辺りまでしかないから、俯かれると見えるのは丸い頭だけになる。綺麗な形をしたそれを見るたび、両手で包み込みたくなるのは何故なのだろう。

 実際にそうしそうになる両手を、彼は硬く握り込んだ。

 揃って固まる二人の頭上を、囀りながら小鳥が飛んでいく。


 ややして、ケイティが小さく息をつき、顔を上げる。

「じゃあ、フィオナ、もう帰ってこないんですか?」

 彼女は、ただ訊いただけ、というふうを装っていた。だが、微かな声の震えが、何でもないふりをしているだけなのだということを暴露してしまう。


 フィオナは帰ってくる。

 そう、言ってやりたかった。


 しかし。


「判らない」

 ブラッドはそうとしか答えられなかった。


 彼のその返事に、ケイティは束の間唇を噛み、次いで、笑む。

「そうですよね。本当の家族が見つかったのなら、そこにいるべきですよね」

 健気にそう言う彼女の笑顔に、ブラッドは奥歯を食いしばった。


(無理をして笑う必要など、ないというのに)

 ブラッドは、彼の前では――彼の前だけでは、ケイティに本心を押し隠すようなことをして欲しくなかった。

 苛立ちにも似たもどかしさに腹の底を掴まれた彼の心中などまるで気付いていないだろうケイティは、彼女自身に言い含めるような口調で続ける。


「フィオナにここにいて欲しいですけど、でも、大事なのはあの子の幸せですもんね。何も思い出せてなくっても、あんなにイイ子なんですから、見つかって、絶対、ご両親喜んでますよね。……ここに帰ってくるなんて、ないですよね」

 そう言ってまた微笑まれたら、ブラッドはもう耐えられなかった。

 彼は箒を握ったままの彼女を引き寄せ、腕の中に包み込む。


「だんな様?」

 胸をくすぐるようなケイティの呼びかけを封じるようにして、ブラッドは腕に力を込めた。

 ひとたび触れてしまうと渾身の力で抱き締めたくなるが、彼の膂力でそんなことをしたら華奢なケイティはいとも簡単に潰れてしまう。だから、彼女に触れる時、自分自身の欲求と彼女を慮る気持ちとの間で、ブラッドはいつも力加減に難渋する。


 脆い卵を抱く思いでケイティを包みながら、ブラッドは言葉を選ぶ。

「フィオナは、ここが好きだ。ここの皆のことを――取り分け、君のことを。このまま、ここでの日々をなかったことにはしない」

 これは絶対的な真実だ。

 確信を持って断言したブラッドに、ケイティは一瞬息を詰め、そしてそれをゆるゆると吐き出す。

「そう、ですよね」

 応えは短いものだったが、それまでのどこか張り詰めたものとは少し違う和らいだ声だった。

 ケイティはふと身体の力を抜いて、ブラッドの胸に頬をすり寄せてくる。彼女のその安心しきった、ブラッドのことを信頼しきった所作に、彼のみぞおちがギュッと締め付けられた。


(平常心。平常心だ)

 宙を睨んで声に出さずにそう呟きながら、ブラッドは、グラグラと揺れる心の中の天秤を懸命に御す。そんなブラッドの努力などつゆ知らず、ケイティは彼の上着を握り締めてきた。

「あの子の幸せが一番だってこと、解かってるんです。でも……」

 彼女は額をブラッドのみぞおちに押し付ける。

「でも、やっぱり、フィオナがいないと寂しい」

 ポツリとこぼすようなケイティの囁きに、ブラッドはグッと息を詰めた。危うく彼女を抱き潰しそうになった腕から、慌てて力を抜く。そうして、ゆっくりと息を吸い、それを吐き出した。


「……オレは、傍にいる。君が望む限り、ずっと」


 食いしばった歯の間から押し出すようにそう告げると、ケイティは一瞬動きを止めてから、もぞもぞと動きだした。ブラッドが腕の中に眼を落とせば、首だけ反らして彼を見上げているケイティの緑の目と行き合った。

 ケイティは一つ瞬きをしてから、ふわりと笑う。

「そんなこと言ったら、一生、になっちゃいますよ?」

 冗談めかした彼女の台詞に、ブラッドは声に出して「望むところだ」と応じそうになる。彼こそそれを望んでいるのだと。


 だが、彼がそう口走る前にケイティはホゥと息をつき、そしてスルリと彼の腕の中から抜け出した。彼女の温もりが失われた胸元は、やけに寒く感じられる。

 虚ろになった腕をだらりと落としたブラッドの顔を、ケイティはすくい上げるように覗き込んでくる。

「ごめんなさい、愚痴っちゃいました。だんな様もお仕事に戻ってください。あたしも早くこれ片付けちゃわないと。お夕飯の準備も始めなくちゃ」

 屈託なくそう言ったケイティの笑顔は、やはり完ぺきではないけれど、幾分、いつもの明るさを取り戻していて。彼女が弱音を引っ込めてしまったことを残念に思う気持ちと元気を取り戻してくれたことを喜ぶ気持ちのどちらが大きいかと問われても、正直、彼にも答えは判らなかった。

 ブラッドから一歩距離を取ったケイティは、今の遣り取りに深い意味など見出していないように見える。実際、彼にとっては重い想いを含んだ台詞も、彼女にしてみたらいつもの流れの一環に過ぎないのだろう。

 

(危うく、場の勢いで求婚めいたことを口にするところだった)

 こういうことは、きちんと段取りを踏むべきだというのに。

 いずれ、近いうちにけじめを付けねば。


 自らを戒め唇を引き結んだブラッドに、ケイティが首をかしげる。

「だんな様?」

「ああ、いや、夕飯、楽しみにしている」

 取り繕うためにブラッドがそう言うと、ケイティは束の間目を丸くしてから満面の笑みとなった。

「お任せを」

 キラキラと目を輝かせる彼女はやはりどうしようもなく愛らしく、ブラッドは込み上げてきた何かを中途半端な咳払いでごまかした。


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