獅子隊長は選択を迫られる
一日の業務を終え、ウィリスサイド警邏隊詰所でも安息の時を迎えようとしている刻限に、膠着した状況を一変させるその報せは、懸命に叩かれる扉の音と共にもたらされた。
「こんな時間に何事だ?」
執務室で書類に目を通していたブラッドは、にわかに騒々しくなった邸内の気配に眉をひそめて椅子から立ち上がる。
扉を通り抜け、廊下の先から響いてくる声は、少年のものだ。こんな夜更けに子どもが駆け込んでくるとは、よほどの用件なのだろう。
部屋を出て、大股で廊下を進むブラッドの脳裏に、ふと三年前のことがよぎる。
あの時扉を叩いていたのは、ケイティだった。
嫌な予感が彼の胸に込み上げてくる。
騒ぎの元を辿って玄関広間に行き着くと、そこにはすでにルーカスの他に数人の隊員、ケイティとフィオナが集っていた。そして、彼らの前には十歳かそこらの少年がいて、必死に何かを訴えている。
「どうした?」
声をかけると皆の視線がブラッドに一斉に注がれる。
「隊長――」
説明をしようとしたのか何かを言いかけたルーカスを押しのけるようにして、少年がまだ荒い息のまま声を上げる。
「火事なんだ!」
ブラッドは彼の前に膝を突き、その細い肩に両手を置いた。
「落ち着け。君の名前は?」
敢えて淡々とした口調を心掛けて尋ねると、冷静さが伝染したのか少年は大きく息をつき、先ほどよりも抑えられた声で答える。
「トム」
「トム、火事はどこだ?」
「南区。燃えてるのは空き家なんだけど、火消用の水瓶が割られてて……」
空き家ということは、住人の火の不始末ということではないということだ。あの辺りは住宅街で夜になるとひと気がなくなる。事故か、それとも、何者かが故意に火を点けたのか。
火消用の水瓶は、防災の為、一定の間隔で通りの随所に置かれているものだ。警邏隊が週に一度、そしてその区域の町人が連日、きちんと中身が満たされているか確認している。加えて防災訓練も定期的に行っているから、通常、小火程度ではブラッドたちが駆り出されることはない。
住宅が密集した場所で火事が起これば大変なことになるということは街の者は皆重々承知しているから、万が一水瓶が破損することがあれば速やかに報告があり、補填される。
それが壊されているままとなっているということは有り得ないことで、火が出たことも故意であると考えてまず間違いがないだろう。
そんなことをしでかす輩として、当然、あの男がブラッドの頭の中に即座に浮かんだ。
(奴か)
デリック・スパーク。
あの男しかいない。
火事の騒ぎに乗じてケイティを狙ってくるつもりなのか。
(させるか)
胸の中で奴を罵りながら、ブラッドは両手を固く握り締めた。
だがしかし、あの悪党の狙いは読めたとしても、状況は極めて厳しい。
こんな時にここの警備を薄くしたくはないのはやまやまだが、他の少女たちの護衛にも隊員たちを出してしまっていて、ただでさえ人員が削られているのだ。
(いっそ、ケイティ達も連れて行くか?)
一瞬そんな考えがブラッドの中に浮かんだが、彼はすぐにそれを打ち消した。デリック・スパークのことがなくても、殺気立った火事場になど、彼女たちを置いておきたくない。
(だが……)
ケイティを見下ろしたブラッドの脳裏に、不意に幼い少女の面影がよぎった。
ここに、残していくのか――あの時のように。
不意に、心臓が握り潰されたのかと思うような、胸苦しさを覚える。
かつて彼は妹を独り残して離れ、そして、失った。
未だに、あの選択が正しいものだったのかについて、ブラッドの中で結論は出ていない。だから、今、正しい選択ができるという自信が、彼には持てなかった。
市民を守るという職務に対する義務感と、この世で最も大事なものを守りたいという願望。
束の間、その二つが彼の中でせめぎ合った。
ケイティの身にもまた、あの時と同じことが起きたら――
ブラッドの背筋にゾクリと悪寒が走る。
「だんな様!」
不意に響いた澄んだ声に、泥沼に沈み込んでいく悪夢から引っ張り上げられたような心持になって、ブラッドは目をしばたたかせる。声の主は、煌めく緑の瞳で彼を真っ直ぐに見上げていた。
「隊長」
指示を促すルーカスの呼びかけで、ブラッドは眼を上げる。騒ぎを聞きつけたのか、いつしか、玄関広間には詰所内に残っていたほぼ全員――二十名強が集っていた。彼らは皆、彼の指示を待っている。
(今を、見ろ)
呆けていた己を叱咤して、ブラッドは一同を見渡し、告げる。
「ティモシー、アレン、ロン、デューク、フレイ、お前たちはここの守りを固めろ。残りは直ちに現場へ向かえ」
そう言い置いて、ブラッドは少年と共に出発しようと身を翻したが、その袖が引かれる。見れば、ケイティの小さな手がそこを掴んでいた。
「ケイティ?」
眉をひそめたブラッドを、ケイティがかぶりを振る。
「ここに人を残す必要はないです」
「何?」
振り返ったブラッドに、彼女は言う。
「ただでさえ、人手が足りないんでしょう? 猫の手も借りたいはずです」
「だが、これはおそらくデリック・スパークが仕掛けてきたことだ。騒ぎを起こしてここが手薄になったところで襲ってくるに違いない」
脅すつもりはなかったが、それが十中八九正解だろう。険しい眼差しでそう告げたブラッドに対して、ケイティはと言えばヘラリと笑って能天気なことを言う。
「大丈夫、貯蔵庫にでも閉じこもってますから。だから、みんなで行ってください。ね、フィオナ?」
ケイティの台詞に同意の意を示して、フィオナがコクリと頷いた。
あまりに楽観的な少女二人に、ブラッドは眉間にしわを寄せる。
「あんな扉、簡単に蹴破れる」
「普通は、簡単じゃないと思いますけど」
鉄製の扉は確かにもろくはないかもしれないが、破ろうと思えば、破れる。
「駄目だ。護衛は置いていく」
「でも、五人なんて――」
「それでも足りないくらいだ」
この件については、ブラッドに一歩たりとも譲る気はない。
唇を引き結ぶケイティと、深々とした溝を眉間に刻んだブラッド。
そんな場合ではないというのに睨み合う二人の間に、ルーカスが割って入る。
「まあまあ、隊長、ケイティの言い分も正しいですよ。いい手がありますから、ちょっと来てください。取り敢えず、皆は現場に行かせましょう。ああ、アレンは残っているように」
「ルーカス、何を――」
「時間がないんですから、早くしてください。まったく、あなたはケイティが絡むとダメですね」
後半はブツブツと口の中で呟きながらさっさと歩き出したルーカスが向かうのは、食堂、いや、その奥、厨房だ。彼は更に足を進め、貯蔵庫の扉を開けた。
結局、ここに閉じ込めておこうということなのだろうか。
ブラッドは眉をひそめたが、ルーカスはそのまま中に入り、一番奥に置かれている棚に手をかけた。
「何をしている?」
「隊長も手伝ってください」
どうやら、それを移動させたいらしい。
ルーカスに指示されるまま、ブラッドは動く。そして、どかした棚の陰から現れたものに目をみはった。
「これは……扉、か?」
見た目はそうだが、小さい。横幅はともかく、高さはブラッドのみぞおちにも届かないほどだ。
開けてみると、中は貯蔵庫と同じくらいの広さがあった。
「なんだ、この部屋は?」
「ここに配属されたとき見取り図を見ていて貯蔵庫が妙に狭いことに気付いたんですよ。で、調べてみて見つけました。使うことはないだろうと思っていたので、特に報告はしませんでしたが」
「どうして見取り図なんか見たんだ?」
この建物はたいして複雑な造りはしていない。一通り見て回れば充分だったろうに。
怪訝な眼差しを送ったブラッドに、ルーカスは肩をすくめてうそぶく。
「どんな知識でも、持っていて無駄にはならないものですよ。とにかく、ここに隠れていればそうそう見つからないでしょう。どうやらそもそもが緊急避難用の部屋らしく、扉はかなり頑丈で、鍵も中からかかります」
言いながら、彼は扉の内側にある閂を動かして見せた。
ブラッドはチラリとケイティに視線を走らせ、そして隠し小部屋にまた目を向ける。
確かに、ここに隠しておくのが一番確実に彼女たちの安全を確保できるのかもしれない。だが、この部屋に出入口は一つしかない。
万が一見つかった場合には、まったく逃げることができなくなる。
(ああ、くそ)
ブラッドは声に出さずに罵った。
一刻も早く現場に赴かなければならないというのに、どうしても、彼女をここに置き去りにしていくことに踏ん切りがつかないのだ。置いていけば必ず良くないことが起きるという予感めいたものが、どうしても拭えない。
今はあの時ではない、ケイティはあの子ではない。
頭では重々承知していても、身体が動き出そうとしてくれなかった。
そんな彼の袖を、小さな手が引く。
「だんな様」
見下ろすと、ケイティはニコリと笑った。
「あたしたちなら大丈夫ですよ」
「だが――」
「大丈夫ですから、皆を助けて、早いとこあたしたちのことも守りに戻ってきてください」
「ケイティ」
「守ってくださるんでしょう?」
小首をかしげてそう言ったケイティの、至極当然、決定事項だと言わんばかりの声。
絶対的な信頼に満ちた、真っ直ぐな眼差し。
ブラッド自身が己を信じられなくても、ケイティは彼のことを信じてくれているのだ。一点の曇りなく、ひと振れの揺らぎもなく。
――かつての、あの子のように。
(オレは、それに応えられるのか?)
彼の頭の中で、そんな問いかけが囁きかけきた。それだけの力が、お前にはあるのか、と。
が。
(いや、違うだろう?)
ブラッドは、弱気な自問を打ち消した。
応えられるのか、ではない。応えるのだ、今度こそ。
過去はもうどう足掻いても変えられない。だが、未来はどうにでもなる――どうにかできる。
(どうにか、するんだ)
ブラッドは、落ちていた肩を張り、背筋をただす。
「ケイティ、フィオナ、中に入れ。ルーカス、灯りと飲み物を二人に渡せ」
ルーカスに言い置いて、自分は部屋に戻り毛布を取って戻ってくる。ケイティにそれを差し出すと、彼女は受け取りながら微笑んだ。
「気を付けてくださいね。怪我、しないように」
案ずるべきなのは自分の身の安全の方だろうがと半ば呆れつつ、ブラッドは頷く。
「ああ」
そうしてそっとケイティを中へと押しやった。
扉を閉ざしていくブラッドに、彼女が笑顔で手を振ってよこす。いつもの見回りに送り出すかのようなその仕草に、つい、苦笑が漏れた。
ルーカスと共に動かした棚を元に戻すと、彼らの他に人がいる気配は完全に消え失せる。
(彼女たちは安全だ)
ブラッドは、自分自身にそう言い聞かせる。
ケイティ達は安全で、そして、何かが起きる前に帰ってくるのだ――一刻も早く。
ブラッドは一度棚板を強く握り締め、次いで、それを突き放すようにして身を翻した。




