仔猫は籠に閉じ込められる
一見ブラッドの様子も落ち着いて、警邏隊詰所は取り敢えず上辺の平穏を取り戻していた。
けれど、ケイティとフィオナの軟禁生活も十日となった今でも、根本的な解決――デリック・スパークの捕縛はまだ成し遂げられていない。
幸いなことに、ベティのことがあってからはまだ何も起きていない。ブラッドは遠く離れた場所にいる少女についている護衛の隊員たちとも伝書鳩を使ってマメに連絡を取っていて、それによると、多少の時間差はあるとはいえ、今のところ、彼女たちも何事もなく過ごせているらしい。
となると、十日もデリック・スパークの動きがないということになる。この国から去ったと考えるに充分な日数が過ぎたのではないだろうか。
「もしかしたら、もう国から出ちゃったんじゃないですか?」
お茶の世話をしながらそう言ってみたケイティに、しかし、ブラッドは渋い顔でかぶりを振った。
「いや、狙う相手が定まって、襲う機を窺っているだけだろう。被害の報告がないということは、密告者が君だということが知られている証拠でもある。狙いは君なのに今さら他の少女に手を出しても、警戒が厳しくなるだけだからな」
「でも……」
「今、君も思ったわけだろう、もう大丈夫じゃないかと? それが奴の狙いだ。油断してこの詰所から出たら、すかさず手を出してくる」
ケイティはブラッドよりも過保護ぶりが緩いルーカスへと目を向けたけれども、彼は肩をすくめて返してきただけだった。
「そろそろ、買い足しておきたいものとかもあるんですけど……」
「だったら、必要なものを書き出してアレンにでも任せるといい」
取り付く島もない。
ケイティは小さくため息をこぼす。
気付かれないようにしたつもりだったけれども、うまくいかなかったらしく、ブラッドが眉根を寄せる。
「不自由だろうが、今はまだ我慢してくれ」
彼が悪いわけでもないのに申し訳なさそうにそう言われてしまったら、頷く他にどう応じられるというのだろう。
正直言って、ケイティもフィオナもそろそろ外の空気を吸いに行きたいのだけれども、今が非常事態であることも解ってはいるから、強く言い張ることはできなかった。
(でも、いつまでこうしていたらいいんだろう)
デリック・スパークがこのまま動きを見せなければ、延々と、それこそ何年も、こんな生活を続けていくのだろうか。
(何か、待つ以外にできることはないのかな)
ケイティは唇を噛んでうつむいた。
自分たちの自由の為だけではない。
警邏隊員たちも連日少女たちの護衛に駆り出されていて休息もろくに取れていないし、すでに通常の業務にも支障が出ているはずだ。
これを何年もだなんて、はっきり言って無茶だと思う。
もっと、あの男を捕らえるために積極的に打って出る手はないものか。
考えて、ふと思いつく。
「あ、そうだ」
その声に、書類を覗き込んでいたブラッドとルーカスの視線がケイティに向けられた。
「いっそ、あたしが外を歩いてみたら、どうでしょう?」
ケイティがそう言うと同時に、ブラッドが全ての動きを止めた。ルーカスが小さく何か呟いたような気がしたけれど、それよりも、地を這うようなブラッドの声がケイティの耳を制した。
「何?」
一言が、重い。とてつもなく。
表情は変わっていないように見えるけれども、これは――
(怒ってる?)
ケイティはヘラリと浮かべた愛想笑いのようなもので場を和ませようとしながら、言う。
「えっと、彼はあたしを狙っているんですよね? だったら、あたしが外に出たら、おびき寄せることができるんじゃないですか?」
ピシリ、と、小枝が折れるような音がした。
そんな音を出すものなどないはずなのに、と部屋の中を見回したケイティがふとブラッドを見ると、彼の手の中に折れ曲がったペンがあった。いや、折れ曲がったというか、砕かれたというか。
「だんな様、それ……」
手に刺さっていなければいいけれど、と思いながら指差すと、彼は自分の手元に視線を落とし、そして拳を開いた。
バラバラと机の上にこぼれたペンの破片を手のひらから払い、ブラッドが立ち上がる。
と、ルーカスが愛想笑いを浮かべながら一歩後ずさった。
「私は用事を思い出したので。後はお二人で話し合ってください」
「え、ちょっと、ルーカスさん?」
呼び留めるケイティを無視して、ルーカスはそそくさと部屋を出て行ってしまった。
そんな副官にはチラリとも目を遣ることもなく、ブラッドはひたとケイティを見据えている。そうして、圧し掛かるようにして彼女を見下ろしながら、口を開いた。
「オレが、君を囮にすると思うのか? そんな提案に乗るとでも?」
「や、だから、仮に、一つの案として……」
「案だろうが仮だろうが、そんなことは万に一つもあり得ない」
声は淡々としていて冷静そのものでも、ケイティに注がれる眼差しは煮えたぎった油のようだった。
怒っている。
確かに、怒っている。
思わず謝罪の言葉をこぼしそうになったケイティだったけれども、続くブラッドの台詞で押し留まる。
「そんな馬鹿なことを言い出すようならば、どこかに縛り付けておいた方がいいのかもしれないな」
「馬鹿って……そんなふうに言わなくてもいいじゃないですか。あたしは、警邏隊の為に――」
憤慨するケイティの口を、ブラッドはギラリと光る眼で黙らせる。
「自分を蔑ろにしようという奴は馬鹿以外の何ものでもない。何と言われようが、オレは、君を危険にさらすようなことはしない」
「それは解かってますけど、でも、もう十日ですよ? あたしにできることがあるならさせてください!」
「君の仕事は料理と洗濯と掃除だ。それで充分だ」
「今は隊員の人たちだっていつも以上に働いているじゃないですか。あたしだって、他に何か――」
「ない。これ以上言うなら、本当に縄で縛り付けておくぞ」
ムッと唇を引き結んだケイティを、ブラッドも同じくらい険しい顔で見つめ返してきたけれど、やがて深々と息を吐いた。そして、それまでよりも和らいだ声で、言う。
「オレは、君を危険な目に遭わせたくない。情けないことだが、君が髪一筋でも傷つくことを考えると、胃に穴が開きそうになる」
呆れただろう、と問いかけるような淡い笑みを浮かべたブラッドに、ケイティはそれ以上何も反論できなくなる。
「頼むから、おとなしく守られていてくれ。それが、今の君に望む唯一のことだ」
「だんな様……」
ブラッドを見上げることしかできないケイティを見つめ、一瞬ためらうような素振りを見せてから、彼は手を持ち上げた。その指先で彼女の巻き毛をそっと撫で、そして下ろす。
髪に感覚なんてないはずなのに、ケイティはそこにうずくようなくすぐったさを覚えた。
(もっとちゃんと触ってくれたらいいのに)
状況も忘れてそんなことを考えてしまったケイティの耳に、低く響くブラッドの声が届く。
「ルーカスを探して戻るように言ってくれ」
踵を返して椅子に戻る彼には、もう話し合う気はないのだろう。
「……わかりました。他にご用があったら呼んでください」
無言で頷くブラッドに頭を下げて、ケイティは扉に向かう。
出て行く前にもう一度ブラッドを振り返ると、何故か目が合った。すぐに逸らされてしまったから、たまたま彼が顔を上げた瞬間とあってしまっただけだったのだろう。
「失礼します」
返事がないのを承知で声をかけ、部屋を後にする。そうしてルーカスを探しに彼の自室に向かったけれど、そこにはいなかった。
それならばと食堂に足を運んだケイティは、無事彼の姿をそこに見出す。
「ルーカスさん、だんな様が戻って欲しいとおっしゃってます」
「ああ、終わったんだ?」
笑顔でそう言われ、ケイティは思わず彼を睨み付けた。
「逃げるなんてズルいじゃないですか」
「ごめん、ごめん。でも、私がいない方が良いかと思ってね」
謝罪の言葉を口にしていても、全然悪いと思っていないことがありありと伝わってくる顔と声だ。食えない彼にこれ以上何か言っても無駄というものだろうと、ケイティは吐息をこぼした。
「もう……でも、本当に、あたしは何もしなくていいんでしょうか」
「いいんでしょうかって、ケイティを囮になんてしたら、門を出て三歩もいかないうちに隊長の頭の血管が切れてしまうよ。むしろ、困ったことになる」
おどけた言い方だけれども、ルーカスにも彼女を餌にするつもりは全くないらしい。策士の彼なら、効率の良い方法を選ぶと思ったのに。
「あたし、このままお荷物でいたくないです」
「隊長にとったら、お荷物というよりもお宝だけどね」
肩をすくめたルーカスを、ケイティは睨み付ける。
「あたしは本気なんですから、ふざけないでください」
「ふざけてないよ。本当のことだ」
抗議に対して予想外に真剣な眼差しを返されて、ケイティは目をしばたたかせた。そんな彼女に、ルーカスはフッと微笑む。
「本当はあの人自身が言うべきなんだけど、絶対こんなことを口にはしないだろうから言ってしまうけどね、君は隊長にとって何にも代えられない掌中の珠なんだ」
「何にも、代えられない……?」
そんなたいそうな存在だろうかと眉根を寄せたケイティに、ルーカスは頷いた。
「そう。それをまた失うようなことがあれば、今度こそ、あの人は立ち直れない。だから、おとなしく守られていてやってよ。他の誰でもない、隊長の為に」
大げさなと笑い飛ばせない真剣さがルーカスの眼の中にある。
「……わかりました」
彼は頷いたケイティに微笑みかけ、クシャリと巻き毛を撫でた。
二人からこうまで言われてしまっては仕方がない。おとなしく籠に閉じ込められているしかないのだろう。
覚悟を決めたというよりも諦めがついたという気持ちの方が強い。
(そう長くならないといいけどな)
こっそりとため息をついたケイティだったけれども、この時は、三日後に事態が大きく変わることになろうとは夢にも思っていなかった。




