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獅子隊長は腹をくくる

 この状況は一体どういうことなのか。


 その時ブラッドの思考は完全に停止していた。


 こめかみに押し付けられた温かな二つの膨らみ。


 思ったよりも柔らかい、などという感想が頭の中をよぎり、彼は慌ててそれを打ち消した。

 未だかつてその柔らかさになど思いを馳せたことなどない。

 断じて。


 自分の中でそんな遣り取りをするうちに多少なりとも我を取り戻し、ブラッドはがっちりと彼の頭を抱え込んでいるケイティの腕に手をかけた。

「ケイティ、放しなさい」

 冷静を装って、静かな声掛けと共に彼女の抱擁を解こうと試みる。

 が、力は緩まない。いや、それどころか、彼女はより一層全身をブラッドに押し付けてきた。


 どうしたものか。


 年頃の娘に頭を抱き締められているという有り得ない状況の中、ブラッドは打開策を検討したものの、働き始めたようでいてその実少しも回転していない脳みそは、さっぱり答えを導き出してくれようとはしなかった。


 取り敢えず、この腕を外させよう。

 ブラッドは己の額に回された彼女の腕を掴み直して、そのあまりの細さを実感し、固まった。

 それを握って持ち上げるのは、簡単だ。


 だが、できない。


 ケイティが渾身の力を籠めようとも、ブラッドにとっては仔猫がぶら下がってきているようなものだ。しかし、その力の程と同様、彼女の体格もか弱い小動物といってもいいようなものなのだ。これだけ必死にしがみ付いているものを剥がそうとすれば、彼は力加減をしたつもりでも、うっかりどこか痛めてしまうかもしれない。

 振りほどこうにも振りほどけず、ブラッドは、ケイティに頭を抱き締められたまま微動だにせず横たわることしかできなかった。


 と、まんじりともせずにいるブラッドの耳に、押し付けられた薄い身体から直接響くようにして、声が届く。


「弟や妹が眠れないってぐずるときは、いつもこうしてたんです」

 これに子守歌やお話をつけると効果てきめんなんですけど、と、いかにも呑気な調子で彼女は続ける。


 大の大人相手に弟妹と同じことをするなと言ってやりたいが、ここは寝たふりでもしておいた方が良いのだろう。

 が、そんなブラッドの声なき声を聞きつけたように、彼女が言う。

「寝たふりしてもダメですからね。判りますよ」

「ケイティ……」

「少し眠った方がいいんです」

「そんな暇はない。こうしている間にも、奴は――」

「急がば回れと言うじゃないですか。ちょっと休んでいつものだんな様に戻ってください」

 宥めるような、あやすような、ケイティの声。

 その声音よりも内容に、ブラッドは気を引かれる。


「いつもの、オレ?」

 彼女の言葉を、彼は繰り返した。

 それは、どんな人間だろう。


 ブラッドに向けられるケイティの声や眼差しの底には、常に彼に対する信頼が感じられた。

 だが、果たして、本当に自分はそれに値する者なのだろうか。


「……オレは、肝心な時にしくじる。しくじってはならない時に、しくじるんだ」

 妹も、ベティも。

 彼が何かを間違えなければ、今でも生きていたはずだ。

「いつも、そうだ。いつもオレは守るべきものを守れない」

 ブラッドがボソリとそうこぼした時、ほんの一瞬、ケイティの腕に力がこもった。が、すぐにそれは緩み、そして、解ける。

 彼女の温もりが離れていくのを感じ、ブラッドはそれを残念に思っていることに気付いた。

 しかし、それも束の間、ケイティの小さな手が彼の頭を挟むようにして両脇に置かれる。彼女はブラッドに馬乗りになり、両腕を伸ばして突っ張ると、真っ直ぐに彼を見下ろしてきた。


「いつも、じゃないです」

「え?」

「だんな様の手からこぼれてしまったのは、妹さんとベティだけです」

 静かな、けれどもはっきりとした声でケイティは言った。それだけは誰が何と言おうが絶対に譲れないといわんばかりに、緑の目が強い光を放っている。

「だんな様はいつだってあたしのことを助けて、守ってくれてます。街にだって、だんな様に助けてもらった人がいくらでもいるでしょう? いつも守れないじゃなくて、いつもは守れる、でも、たまに、力が及ばない、それが正しいんです。圧倒的に、守れなかった人よりも、守れた人の方が多いんです」


 彼女の言い分は解る。

 守れた方が多い――数として考えれば、そうなのだろう。

 しかし、それでも、守れなかった者がいたという事実を、消し去ることはできないのだ。

「ケイティ、だが、オレは――」

 反論を口にしかけたブラッドの機先を制してケイティが畳みかけてくる。


「だんな様は神様ですか?」

「は?」

「失敗しないなんて、神様しかあり得ないじゃないですか」

「それとこれとは――」

「違いません。同じです」

 ぴしゃりと、遮られた。そうしてケイティは再び身体を倒し、先ほどと同じようにブラッドの頭を包み込む。


「だんな様は、妹さんのことで今でも後悔してるんですよね。妹さんが辛い思いをしたんじゃないか、自分が取った行動が妹さんにとっては一番いいものじゃなかったんじゃないかって。でも、もしもあたしがだんな様の妹さんだったら、何があっても、だんな様がどんなことをしても、だんな様のことを怒ったり恨んだりなんてしません」

 一息にそこまで言って、ケイティはギュゥと彼を抱き締めてきた。

「あたしだったら、きっとどんな時でも、『お兄ちゃん大好き』しかないです。その一択です」


 そうなのだろうか。


(あの子は、オレのことを恨みながら逝ったのではないのだろうか)


 彼のことをひたすらに信じてくれていた幼い彼女を、病から助けてやれなかったこと。

 人一倍寂しがりのあの子を、独りにさせてしまったこと。

 一心に彼に注がれていた信頼を、最期に裏切ってしまったのではないかという、恐れ。

 それらの重石は、いつだってブラッドの胸の奥深くに居座っていた。


 常に彼を責める囁きが頭の中にあったけれども、あれは、果たして誰の声だったのだろう。


 自らの心の深みを覗き込んでいたブラッドは、続いたケイティの声で引き戻される。

「ベティの死を知った時、それがデリック・スパークの――三年前の自分の行動が巡り巡って引き起こしたことだと知った時、あたしは打ちひしがれました」

「ケイティ、それは、君のせいではないと言っただろう」

 ブラッドが荒い声でそう言うと、ケイティはまた身を起こし、彼にニコリと笑みを投げてきた。

「ええ、そうですね。今は、そう思えます」

 深く頷き、彼女は揺らぎのない眼差しをブラッドに向けてくる。


「あの時だんな様が抱き締めてくださって、あたしは癒されました。ベティのことを聞いた時は頭の中がワヤクチャになっちゃいましたけど、だんな様がギュッてしてくれて、気持ちが落ち着いたんです。で、ちゃんと落ち着いて考えたら、あたしは悪くないんだって、思えました。あたしは、あの時やるべきことをやっただけだって」

 ケイティは再び寝台に倒れ込み、ブラッドの頭を抱え込んだ。

「だんな様も、きちんとお休みを取って、頭と気持ちを落ち着かせてから、考えてみてください――妹さんがどんな子だったかってこと」


「あの子が?」

 ブラッドが眉をひそめると、ケイティは彼の頭の上で頷いた。

「はい。あたし、三年前にしたことはあれで良かったと思ってますが、その後、両親や弟、妹たちを苦しませたり寂しい思いをさせてしまったことは、やっぱりちょっと後悔してます。あたしのせいで楽しく暮らせてなかったなら、ヤダなって」

 ケイティは彼をギュゥと抱き締め、小さな吐息を一つこぼした。

「あたしは、大事なひとがつらいとつらいし、大事なひとが幸せだと幸せです。大事なひとには、幸せであって欲しいです。幸せに、したいんです」

 それきり、ケイティは口をつぐんだ。


『大事なひとには、幸せであって欲しい』


 ブラッドは、彼女の言葉について考える。

 誰しも、そう思うものだろう。彼とて、同じだ。


(じゃあ、あの子は?)


 ブラッドは、幼い妹さえ幸せであればいいと思っていた。彼女を幸せにすること、かつてはそれが彼の生きがいであり、正しく生きていくための支柱だった。


(あの子にとって、オレは『大事なひと』だった)

 それ疑う気持ちは微塵もない。

 だったら、その妹は、やはりケイティと同じことを――『大事なひと』の、ブラッドの幸せを、願うのだろうか。


 あの子はもういないから、本当のところは判らない。

 けれど、元気だった頃の妹を、朗らかに彼に笑いかけてきた彼女を思うと、もしかしたらケイティの言う通りなのではないかと、思える。

 そう思えると、苦いばかりになってしまっていた妹の記憶に、新たな色が加わったような気がした。明るく軽やかな、屈託がなかったあの子にふさわしい、色が。


 ふと気づくと、ブラッドを捕らえるケイティの力が緩んでいた。呼吸も穏やかで、どうやら眠りに落ちてしまったらしい。

(オレを起こしてくれるんじゃなかったのか?)

 苦笑混じりで軽く巻毛を引っ張ってみたが、ピクリともしなかった。


 彼女の腕から抜け出そうと思えば、もういつでもそうできる。

 だが、ブラッドは束の間の逡巡の後、そっとケイティの身体を引き下ろし腕の中に入れた。仰向けになって上に乗せると、彼女は暖を求める仔猫のように丸まり頬をすり寄せてくる。


 仄かな重みが心地良い。

 重なり合った胸から、ブラッドのものよりも速く軽い鼓動が、伝わってくる。


 彼自身の呼吸でゆったりと動くケイティを見るともなしに眺めていると、不意に、泣き疲れて眠りに落ちたケイティを思い出した。


 二度と、あんなふうに泣く彼女は見たくない。

 とは言え、見えなければいいというわけでもなく、自分がいないところであんなふうに泣く姿を想像すると、居ても立っても居られない気分になった。


 泣かせたくはない。

 もしも泣くようなことがあるならば、この腕の中にいて欲しい。

 つまりこれは、手元に置いて見守るという選択肢しか残っていないということだ。


(たとえどのような形になろうとも、この先ずっと彼女の庇護者であり続けよう)

 それは、胸の奥から自然と込み上げてきた決意だった。

 今までにも、何度も同じようなことを考えたことはある。だが、今の気持ちはそれらとは何かが少しだけ違っていた。

 その違いが何なのかは、ブラッド自身にも良く判らない。ただ、今まで以上にその決意が固いものであることだけは、判った。


 ケイティの中で、彼が特別であったり一番であったりする必要はない。

 彼女にとってのブラッドは、父や兄、そんな立場であったとしても、彼の中の彼女は唯一無二の存在だ。それだけは、微塵も揺らぎのない事実だ。


 胸の奥底の何かが解かれ、今まで感じたことのない軽やかな気分に包まれたブラッドは、腹の上の温もりに眠りの渕へと誘われて目蓋を下ろす。


 ――半ば薄れた意識の中で己のその両腕がそろりと動いてケイティを閉じ込めたことには、彼はまったく気づいていなかった。


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