獅子隊長の悩み
ウィリスサイド警邏隊に属している隊員は全部で五十四名。警邏隊詰所は隊員たちの住居も兼ねており、その五十四名のうち独身者や地方から出てきた者など二十人強が常時そこで寝起きをしている。
隊長であるブラッド・デッカーもその一人だ。この街の出身ではあるが他に身寄りはなく、昼夜関係なく呼び出されるのにも都合がよいからと、平の隊員の時からここに部屋を取っていた。
朝の五時。
彼の寝室の扉が音を立てずに開かれる。入ってきたのは赤毛の娘だ。動き易いドレスに前掛けをして、両腕には洗顔用の水を入れた盥を抱えている。
彼女はそっと扉を閉めると、足音を忍ばせて寝台に近付いた。
一歩、また一歩。
寝台まで辿り着いた彼女は脇の台に盥を置いて寝台を覗き込み、固く目を閉じたままの寝顔に、クスリと笑った。
そして。
衣擦れの音を立てないように、ゆっくりと身を屈め、その寝顔にそろそろと唇を近づけていく。
あと少し。
あと少しで、唇同士が触れ合おうとした、その時だった。
彼女の唇は、硬く平らなものに押し留められる。と同時に、むっつりとした声が。
「ケイティ、やめろ」
「だんな様」
彼女の顔をすっぽり覆い尽してしまう大きな手に唇を塞がれたまま、ケイティはモゴモゴと答えた。
「どうして、いっつもいっつも、あたしに起こさせてくれないんです?」
「そうしたいなら、もっと普通のやり方にしろ」
眉間にしわを刻んで起き上がっただんな様ことブラッドは、そう言いながらケイティの額を指先で小突く。その所作は無造作に見えたのに彼女には結構な衝撃を与えたようで、ケイティはよろけながら仰け反った。
「おはようの挨拶を兼ねてるんです」
額をこすりつつ背を伸ばしそう答えると、ブラッドはムッと眉間のしわを深くした。
「君は他の者にもそんなふうにしているのか?」
警邏隊の連中に軽々しく唇を与えて回るケイティの姿を想像すると、何となく胸がムカつく。彼女が他の隊員とイチャついているところは、今まで目にしたことがないが。
不機嫌そうな顔になった彼をケイティはキョトンと見て、次いで、口を尖らせる。
「しませんよ。好きな人にだけです」
仔猫めいた彼女の顔は、そんなふうにすると一層幼げなものになる。ブラッドは、そのクルクルの巻毛にふらりと伸びそうになった手を握り締めた。彼女を前にすると、時たま、彼の身体は意思とは無関係に動きそうになる。
多分、ふわふわとした小動物を撫でまわしたくなるのと同じような理由なのだろう。
(まったく、相手は年ごろの娘だというのに)
奥歯を噛み締めたブラッドの前で、ケイティが続ける。
「ホント、判ってくれないんですよねぇ、だんな様は。ま、いいですけど。鈍チンで唐変木なだんな様も好きですから」
ケイティは不満げな顔をクルリと変えてそう言うと、フッと笑みを浮かべた。そんなとき、彼女は妙に大人びた雰囲気になる。
一方、鈍い、無粋だと言われたブラッドは、ムゥと唇を引き結んだ。確かに女心を解っていないという自覚はあるが、ことこれに限っては、彼女の方に恥じらいというものがなさすぎるのが問題だと思うのだが。
そんな彼を見て、ケイティはまたクスリと笑う。
「じゃ、下りてこられたらご飯にしますよ」
愛情増し増しのね、とか言いながら、ケイティは部屋を出て行った。
静けさを取り戻した寝室で、一人になったブラッドは思わずため息をこぼした。
出会ったころは肩を少し越すくらいだったケイティの巻き毛は背に届くほどになり、目が覚めるような赤毛は更に鮮やかさを増していた。目尻が少し吊り上がった大きな目は混じりけのない緑色で、どんなときにも稚気に溢れてキラキラと輝いている。
普通に、可愛らしい少女だと、ブラッドは思う。
だが。
(彼女は、いくつになった?)
年齢を確認したことはないが、多分、十五か六くらいだろう。出会ったころからあまり変わりがないように思われるが、そのくらいに見える。平均をかなり上回るブラッドの隣にいると、その華奢な身体つきがひと際目立ち、まさに大人と子どものように見える。
(見た目だけなら、父親と娘に間違えられるよな)
微妙にウツな気分で、ブラッドは内心でそう呟いた。
可愛らしいケイティに対して、ブラッドは人並外れたガタイの上に、たいてい実年齢の三十一歳よりも五歳は上に見られるこの面だ。
多分、何も知らない者が見たらそう思う、と思う。
三年前、ケイティが初めてこの警邏隊詰所の戸を叩いたのは、幼い少女を売る娼館を告発するためだった。
このロンディウムでは、売春自体は合法だ。だが、娼婦の年齢や健康管理など、かなり厳しい基準がある。当然、十代の少女を娼婦にするなど、違法でしかない。
屋敷のメイドか何かとして地方から連れてこられたケイティは、いざ着いた先が娼館で、しかも子どもが客を取らされているのだと知ってそこを逃げ出し、詰所に駆け込んできたのだ。
娼館の主は捕らえられ、囚われていた少女たちは、親元へ帰されたり、親がいない者はしかるべき働き口を手配された。定期的に様子を報告させているが、落ち着いた日々を送れているらしい。
当時、ケイティも親元へ戻そうとしたのだが、助けてもらった恩を返したい、とこのロンディウムに留まり、甲斐甲斐しく警邏隊隊員たち――特にブラッドの――世話を焼いてくれている。
確かに、彼女がいると助かる。
食事はうまいし、掃除も行き届いているし、衣服は常に清潔だ。
ケイティが来て、警邏隊の生活環境は格段に良くなった。
だがしかし。
(年頃の娘を、いつまでも縛り付けていていいのか?)
ケイティが言うところの『恩』は、もう十二分に返してもらった。お釣りが出るほどだ。もう、彼女自身の人生を生きるべきだろう。
ケイティには、優しく包容力のある夫と可愛い子どもたち、それらがよく似合う。きっと、いい妻、いい母親になることだろうし、それが彼女の幸せに違いなく、その幸せに、背中を押して送り出すべきなのだ。
最近、こうやってケイティと遣り取りをするたびに、ブラッドの中にはそんな思いが渦巻くようになっている。
(それは、判っているんだ)
ブラッドは、バリバリと頭を掻く。
――彼に向けられる、屈託のない笑顔。
ケイティを出て行かせるということは、一日の始まりからそれが失われるということだ。
彼女のことは可愛く――愛おしく想っているが、だからこそ、より良い人生へと送り出してやらなければならない。
ブラッドは、イヤというほどそれを理解し、受け止めている。
だが。
ここにいさせ続けることは正しくないと思いつつ、彼女がここからいなくなることを考えるとモヤモヤとしたものが胸の中に沸き起こってくるのもまた、ごまかしようのない事実であった。