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窮境の獅子隊長

 ウィリスサイド警邏隊詰め所執務室にて。

 朝一番でもたらされた報せについて、ブラッドがルーカスと額を寄せて話し合っているときだった。

 軽い、けれども普段は聞かれない荒さの足音が、耳に届いたかと思うとみるみる近づいてくる。それが執務室の前で止まると同時に、前触れなく扉が開け放たれた。

「ケイティ」

 飛び込んできた少女に、ブラッドは顔をしかめる。椅子から腰を上げ、机の脇に立った。

 渋面は彼女の行動に対してではなく、その行動に至った理由を察したからだ。

 確かにケイティはブラッドをからかったりなんだりしてくるが、こんなふうに礼を失した態度を取ったのは初めてだ。爛々と輝く新緑の瞳、いつもよりも心なしか膨らんで見える紅い巻毛から、よほど憤っているのだろうことが嫌というほど伝わってくる。


「ケイティ」

 もう一度名前を呼ぶと、彼女は無言のままつかつかと足を進めてきた。あと一歩で衝突するぞというところまでやってきて立ち止まり、つり上がり気味の大きな目で彼を見上げ、いや、睨みつけてくる。


「ベティーのこと、聞きました」

 開口一番、前置きは一切なく、ケイティが言った。

「隊長……」

 ルーカスが案じる眼差しをケイティに注ぎ、そしてそれをブラッドに向ける。

「オレが話す。お前は出ていてくれ」

 忠実な副長は普段の飄々とした顔を改め、小さく頷く。

「……わかりました」

 そう言ってルーカスはケイティの横を通り抜けざまに窺うような笑みを彼女に投げたが、ケイティは彼にチラリと目を走らせることもしなかった。


 部屋を横切ったルーカスが静かに扉を閉めるのを待ち、ブラッドは唇を引き結ぶ。そんな彼を、ケイティは何一つ漏らさぬと言わんばかりの眼で見つめている。


 事実をごまかし、彼女をこの場から追い払ってしまいたかった。

 が、そうしたところで、所詮、けっして避けられない問題を先送りすることになるだけだ。


(話したら、泣くのだろう)

 その光景が頭に浮かび、ブラッドは奥歯を噛み締めた。ケイティを見下ろすと、彼女はいつもは紅く柔らかな唇を真っ直ぐにして、ブラッドを見返してくる。


 知らせたくはない。

 伝えたくはない。


 しかし、ブラッドは、ケイティに関わることを他人任せになどとうていできなかった。


「今朝早くに、彼女が勤める屋敷の路地裏で見つかった」

 かなり省略した事実を淡々とした口調で告げた瞬間、憤りで真っ赤になっていたケイティの顔から、サッと血の気が引いた。

「本当に、……」

 彼女が問いたくて問えずにいることに、ブラッドは頷く。

「ああ。亡くなっていた。恐らく、昨晩のうちだ」

 刹那ふらりと大きく揺れたケイティに、ブラッドはとっさに手を伸ばした。真っ青になった小さな顔に、彼の心がどうしようもなく波立つ。


「横になった方が――」

「平気、大丈夫です」

 硬い声でそう言うと、膝裏に腕を回して抱き上げようとした彼から逃れ、ケイティは姿勢を立て直す。両手を小さな拳に固めた彼女は、しゃがみ込んだブラッドから一歩退いた。

 遥か高みから見下ろすよりもケイティの表情を汲み取り易く、ブラッドは膝を突いたままの体勢で彼女を見守る。少しでもふらつくことがあれば問答無用で長椅子に連れて行こうと、身構えながら。


 気持ちを落ち着かせようとしたのか、しばしの沈黙を経てから、ケイティが問うてくる。

「それで、ベティに何があったんですか? こ……」

 華奢な喉が引きつった。

 ケイティは小さく唾を呑み込み、再び口を開く。

「殺されたって、本当ですか?」


 震える声での彼女のその台詞で、朝もやの中で目にした光景がブラッドの脳裏によみがえる。心のうちを、隠したつもりだった。だが、ケイティの眼に浮かんだものを見るに、成し遂げられていなかったようだ。

「ああ」

 唸るようにそう返すと、ケイティの肩がビクリと跳ねた。


 冷たくなって発見された少女も、今、目の前にいる彼女も、痛ましかった。

 ブラッドは、この状況を招いた己を、頭の中だけで際限なく罵る。


 救出された後、この街で働くことを望んだベティに、ブラッドは裕福な商家の奉公を手配した。その屋敷の裏手、奥まった路地裏に、無残な姿となった彼女は打ち捨てられていたのだ。


(オレは、守るべきものを守れなかった)

 ――また。


 奥歯が軋みを上げるほどに食いしばっていた彼を今この場に引き戻したのは、小さな呟きだった。

「なんで……」

 問いかけの言葉を吐き出していても、敏いケイティは薄々事情を察していたに違いない。その声にあるのは疑問よりも否定の色が濃かった。


 ブラッドはほんの少しだけケイティとの距離を詰める。

「デリック・スパークが脱獄した」

 ヒュッと、小さく息を吸い込む音がした。ブラッドは彼女を見つめ、続ける。

「君がバルベリーに旅立ってから五日後に報せが届いた」

「捕まってないんですね?」

「ああ。まだ居場所をつかめていない。もしかしたらこの国を出たのではないかとも思われていたが――」

「違っていた」

 言葉尻を濁したブラッドを、ケイティが引き取った。彼女の一言に、浅く頷く。

「あの時の少女たちには、護衛をつけていた。ベティにも」

「じゃあ、どうして」

 ケイティの声には、不信感がみなぎっている。そんな声になったのは、裏を返せば隊員たちの能力を信用しているからだ。


 ブラッドは眉間の溝をいっそう深くして、小さく息をついた。

「ベティは屋敷の息子と恋仲になっていたらしい。時々夜中にこっそりと抜け出して逢っていたそうだ」

 まだ年端も行かない少女で、普段から控えめだったベティが深夜に人目を忍んで動くとは、思っていなかった。護衛は外からの侵入者には目を光らせていたが、守るべき少女が中からこっそり出ていくことは想定していなかった。だから、抜け出されたことに気づけなかったのだ。

 彼女についていた隊員は、自責の念で打ちひしがれている。そしてその思いはブラッドも同じだ。


 ケイティの血の気が失せた顔を見て、ブラッドはそれ以上を告げることをためらった。だが、ある意味、これから言おうとしていることが、彼女にとっては最も重要なことなのだ。


 ブラッドはまた少し前に進み、いつでもケイティに手が届くところに着く。

「デリック・スパークは、あの時娼館を抜け出し密告した者を探している」

 下がっていたケイティの視線が、パッと上がった。

「奴がまだこの国に留まっているのは、復讐のためだ」

 そして、発見されたベティの様相からして、デリック・スパークは彼女からその密告者のことを訊き出そうとしていたはずだ。

「おそらく、それが君だということは知られているはずだ。他の子たちも警戒を強めてはいるが、特に、君が危険なんだ」


 ブラッドの言葉で、ケイティの眼の中に次々と様々な色が浮かぶ。彼女の頭の中でいくつもの事柄が繋がり組み立てられていくのが見て取れた。


「それって……」

 ケイティの小さな唇が、震えた。そして、クシャリと顔が歪む。

「ベティが殺されたのは、あたしのせい? あたしが、あの時逃げ出したから? あたしの代わりに、ベティが殺されたの?」

 虚ろな眼差しで、ケイティは、そんな言葉をぽろぽろとこぼしていく。


「違う!」


 思わず、ブラッドは吠えた。ガラス窓がビリビリと震える。


 身をすくませたケイティが大きく目を見開いているのに気づいて我に返り、ブラッドは難儀しながら身体の力を抜く。そうして彼女のつま先辺りに拳を突き、身を乗り出して、潤んだ新緑の瞳を覗き込む。


「三年前に君がしたことは正しかった。君がここに駆け込まなければ、あの少女たちは皆酷い目に遭っていた。責められるべきはむざむざとベティを死なせてしまった我々であり、デリック・スパークに脱獄を許した監獄の連中であり、そして一番咎を負うべきなのは他の誰でもない、デリック・スパークなんだ」

 努めて静かな声でそう告げて、彼女の白くなった頬に手を伸ばす。

 届く直前で束の間ためらい、結局指の節で触れたそれは、冷たかった。

 その冷たさに、ブラッドの胸がきつく締め付けられる。


 これ以上は、ダメだ。


 頭の奥でそんな声がして不可視の手綱をグイグイと引いてきたが、ブラッドは、自分を押し留めることができなかった。

 両手を伸ばし、片方を細い背に置き、もう片方で今度こそ膝裏をすくい取る。そうして、床の上に組んだ胡坐の上に彼女をのせ、小刻みに震えるその身体を、彼の全身で包み込んだ。


 ケイティがどんな顔をしているのかは、見えない。


 だが。


「ひッ」

 胸元で、小さくしゃくりあげる声がした。次いで、ジワリとそこが温かな湿り気を含んでいく。


 心臓が、痛かった。

 腕の中の身体がヒクリと跳ねるたび、まるで鋭い刃物で切り付けられているような心持になった。

 かつて、幼い妹にしたように、ブラッドはケイティを抱き締める。あの子に向けたものとは微妙に何かが違っていたけれど、愛おしく想う強さは同じだった。


 ケイティを、こんなふうに泣かせたくない。二度と、そうさせない。

 彼女に似合うのは、花が開くような屈託のない笑顔か、緑柱石のように瞳を煌めかせ鼻息荒く怒っている顔だ。

 泣き顔は、断じて、相応しくない。


 柔らかな巻毛に頬を埋めるようにして、ブラッドはグッとケイティを包み込む。

 彼女を温めたかったし、慰めたかったし、泣き止ませたかった。


 ブラッドがただひたすらそう願ううち、次第に嗚咽は間遠くなり、やがて彼の腕にケイティの身体がクタリともたれかかってきた。

 しばらくそのままでいてから、ブラッドはそっと身体を離して腕の中を覗き込む。

 うつむきがちのケイティの頬は涙で腫れていて、それを目にした瞬間、彼の喉から唸りが漏れる。


(取り敢えず、今は平穏な眠りの中だ)

 そう自分に言い聞かせることで所構わず殴りつけたくなる気持ちを宥め、ブラッドは静かに立ち上がる。


 執務室を出て向かった先は、ケイティの私室だ。

 よほど気持ちが消耗したのか、寝台に下ろし、布団を被せてやっても、彼女は昏々と眠り続けていた。

 穏やかな寝顔を見下ろしていたブラッドは、欲求に負け手を伸ばす。


 こめかみにかかる鮮やかな巻毛をよけてやり、片手で丸い頬を包み込んだ。と、微かにケイティが身じろぎをしたかと思うと、仔猫が慰撫を求めてするように、彼の手のひらに頬をすり寄せてきた。吸い付くようなその肌は、泣いたせいか今は火照っていて温かい。そっと親指で肌を辿ると、ケイティの唇がふわりと綻んだ。


 叶うことなら、ずっとこうしていたい。


 だが、彼にはするべきことがある。


 ブラッドはもう一度彼女の温もりを確かめてから、身を起こす。そうして見えない糸を振り切るように身を翻し、部屋を後にした。


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