仔猫は故郷を取り戻す①
ケイティの目の前にあるのは、小さな家だ。警邏隊の詰所を見慣れてしまったから、ひと際こぢんまりとして見える。
それは、ケイティの両親が結婚した時、父が自ら建てた家だった。子どもはたくさん欲しかったから、小さくても、部屋数はたくさん作ったのだとか。
生まれた時から三年前に飛び出すまでを過ごしてきた、懐かしい、家。
ずっと戻ってきたかったはずなのに、今、ケイティの足は最後の一歩を踏み出せずにいた。
クルリと踵を返して、来た道を戻ってしまいたい。
けれど、できない。そうしてはいけない。
(だんな様が、背中を押してくれたんだから)
ケイティが全てのわだかまりを消して、晴れた心で戻ってくることを、彼は望んでいる。
それに、彼女は応えなければ。
ケイティは両手を握り締めてあと一歩進み、扉の前に立つ。そして拳を上げてそれを叩いた。
コンコン、コン。
狭い家だから、大きな音でなくても誰かが気付く。
それほど間を置かず、内側から扉が開いた。現れたのは、彼女よりも頭一つ分は上背のある大柄な少年だ。ケイティと同じ赤毛だけれど、彼のものは真っ直ぐだ。
「……ケイティ?」
ケイティの名を呟き、彼女がそこにいることが信じられないと言わんばかりに、父親譲りの温かな茶色の目を丸くしている。
「ただいま、ダン」
一番上の弟に、ケイティは曖昧な笑みを浮かべてそう言った。元から大きい子だったけれど、この三年で更にがっしりとした身体つきになっている。見た目だけなら、もうすっかり大人の男の人だ。
ダンはポカンとケイティを見つめていたかと思うと、次の瞬間、ガバリと彼女に抱きついてきた。ケイティのつま先が、宙に浮く。
「ちょ、ちょっと、ダン! あんた、あたしを潰す気!?」
「あ、悪ぃ」
ケイティの悲鳴に、ダンはパッと腕を解く。けれど、まるで逃がしてはならないというように彼女の腕を掴んで肩越しに声を張り上げた。
「父さん、母さん、みんな! ケイティだ! ケイティが帰ってきた!」
ダンが言い終えるよりも先にバタバタといくつも足音が響いてきて、一つ、二つ、三つと彼の身体の脇から小さな顔が覗く。
「ホントだ!」
「おねえちゃん!」
「帰ってきた!」
順々に歓声を上げたのは、十四歳のコーリー、十歳のリンジー、七歳のロビンだ。ダンの身体の脇を擦り抜けた三人はケイティにまとわりついて、問答無用で彼女を家の中へと引っ張り込む。
両親に会う気持ちの準備までは、まだ整っていないというのに。
「ちょっと待って……」
と言ったところで、この三人が止まるはずがない。
入っていった彼女の姿に、父のベンと母のアビーが椅子を鳴らして立ち上がった。二人とも、大きく目を見開いている。
父は、大柄なブラッドを更に一回り大きくさせたくらい、大きい。ダンは彼に似たのだろう。けれど、そんな小山のような身体つきとは裏腹に茶色の瞳は優しくて、やんちゃな子どもたちに対して彼が声を荒らげたことは一度もなかった。
(そっか、少し、だんな様に似てるんだ)
ケイティはふとそんなことを思った。顔や身体つきではなく、雰囲気がどこか似ている。だから、初めて会った時もすぐに信じられたのかもしれない。
母のアビーはそんなベンとは正反対に、小柄で華奢だ。ケイティは彼女にそっくりで、もう三十代なのにまだ二十代にしか見えない母と並んで歩くと、双子みたいだとよく言われた。
「ケイティ」
ケイティと同じ緑の瞳を煌かせ、母が、呟いた。父もその隣で目をみはっている。
「ただいま」
ダンに言ったのと同じ口調でそう返すと、母の顔がクシャリと歪んだ。
泣かれる。
思わず身構えたケイティだったけれども、アビーはそれを笑顔に変える。
「お帰りなさい、ケイティ」
微かに瞳を潤ませたアビーに、ケイティの鼻の奥がツンとした。唾を呑み込んでそれを喉の奥に押し込み、彼女は笑う。
「ずっと帰らなくて、ごめんね」
アビーは一歩踏み出しかけ、そしてその場にとどまった。両手を胸の前で握り締め、小さくかぶりを振る。彼女の細い肩をベンの大きな手が包み込む。
アビーは夫に口元だけの笑みを向けて、その顔のまままたケイティを見た。
「そんなこと……帰ってきてくれたんだから、いいのよ」
二人の遣り取りには、ぎこちなさが漂う。けれど、そんな空気など、幼い弟妹には関係ないようだった。
「何でずっと帰ってきてくれなかったの?」
頬を膨らませて言ったのは一番小さなロビンだ。ケイティは彼の前にしゃがみ込み、眼の高さを合わせて説く。
「ごめんね、都でお仕事してるから。すっごく大事なお仕事してる人のお世話をしてるんだよ。だから、あんまりお休み取れないの。ごめんね」
彼女の台詞にダンが眉間にしわを寄せた。
「休みが取れないって、もうずっとここにいるんだろ?」
子どもたちの視線がケイティに集まる。それを受けながら、彼女はかぶりを振った。
「ううん、明日には戻らないといけないんだ」
「ええ~なんでぇ」
「ずっといてよ」
ぶら下がるようにしがみついてくるリンジーとロビンを、ケイティは振り払えなかった。両側から二人に引っ張られて立ちすくむ彼女から、父が二人を引きはがす。
「長旅で疲れただろう。少し部屋で休んでこい」
「父さん」
子ども二人を小脇に抱えて真っ直ぐに立つ父に、三年前の影響は全く残っていないように見えた。少なくとも、身体的には。
「そうね、もう少ししたらお夕飯よ。それまでゆっくりしていて」
父に続いて母もそう言い、ためらいがちに微笑んだ。
「うん……ありがと」
皆に笑い返し、自室に向かう。
寝台と書き物机があるだけの小さなその部屋は、何も変わっていなかった。三年前、ケイティが出て行った朝のままだ。
彼女は寝台に腰を下ろした。そして、パタリと横たわる。見上げた天井も、同じだ。
再会は、恐れていたほど苦しいものにはならなかった。
父と母の眼の中に浮かんでいたのは安堵と喜びで、三年前に戻ってきたときケイティが望んだものが、今はあった。
(もう、すっかり忘れたのかな)
何事も、なかったことにできたのだろうか。
二人の胸の中に残る棘は、もう、キレイに消え去ったのだろうか。
「だったら、いいな」
呟いた時、部屋の扉が叩かれた。
「姉さん、起きてる?」
「ダン? どうぞ?」
応えるとそっと扉が開かれ、ためらいがちに弟が入ってきた。が、そこで足を止める。
「どうしたの?」
ケイティは起き上がり、戸口で立ち止まったダンに首をかしげる。彼は一呼吸分置いてから扉を閉めて、彼女のもとにやってきた。書き物机の下から椅子を引き出し、寝台の上のケイティの真正面に座る。
少しの間姉の顔をしげしげと見つめた後、ダンは小さく息をついた。
「元気そうだ」
彼がボソリとこぼした一言に、ケイティはフッと笑う。
「元気だよ」
彼女が笑ったのがダンの何かに障ったらしく、彼は唇を曲げた。
「ずっと、心配してたんだ。でも、都じゃ会いに行くのもできないし。父さんと母さんは大丈夫だって言ってたけどさ。何で手紙一つよこさないんだよ。元気だとかくらいは教えてくれたっていいじゃないか」
完全に連絡を絶ったのは両親に気遣ったからだけれども、確かに、ダンの言うとおりだ。
「ごめん」
肩をすぼめて謝ったケイティに、ダンは表情をやわらげた。
「まあ、こうやって顔見せてくれたから、もういいけど」
一番年が近いこの弟は、どこかケイティの保護者を自任しているようなところがあった。見た目だけでは、姉と弟が逆転しているように見えるからかもしれない。
「で、警邏隊の詰所で働いているんだろ?」
「知ってるの?」
ケイティは首を傾げてから、そう言えば、ここを出て行くときに『恩返しをしに行きます』と書き残したことを思い出した。多分、それを読んで、助けてくれた警邏隊のところに行ったと受け取ったのだろう。
一人納得したケイティを、ダンが彼女の中を見通そうとするように目を細めて見つめてくる。
「で、いいとこなの? 男所帯なんだろ? 変なことしてくる奴はいないか?」
妙な凄みを利かせて訊いてきた彼に、ケイティは目をしばたたかせる。そして大きくかぶりを振った。
「そんなの、全然! みんな良い人ばっかりだよ」
「ふぅん?」
その相槌には、微妙に彼女の返事を疑っている様子が見え隠れしている。
「ホントに、良い人ばっかりなんだから! 隊長のだんな様だって副長のルーカスさんだって、他の人もみんな!」
力説するケイティにダンはまだ疑わしげにしていたけれど、ややして小さく息をついた。
「なら、いいけど。姉さんは年頃の――女なんだし、気を付けろよな? とにかく、これからはちゃんと手紙くらいよこせよな。仕送りが届いたから、生きてるってことだけは判ったけどさ。そんなの送るくらいなら、手紙の一枚や二枚入れてくれても良かっただろ」
帰ってきてくれるなら、もっといいけど、と、ダンはブツブツとこぼしている。
ケイティはフハッと笑い、彼の頭に手を伸ばした。母と同じくらい赤くて、父と同じように真っ直ぐなその髪を、グシャグシャと掻き回す。
「身体はずいぶん大きくなったのに、甘えんぼだよね、ダンは」
彼はムッと眉間にしわを寄せ、ケイティの腕を掴んだ。
「子ども扱いするな。甘えてるんじゃなくて心配してるんだよ。ケイティは自分のことを解ってないから。第一、もう父さんと同じくらい働けるんだぜ、俺は」
「そっか。ごめんね」
手を膝の上に戻して謝ると、ダンはふと目を逸らした。
「もう、三年前とは違うよ」
低い声でのその言葉に、ケイティは彼を見つめる。
「ダン……」
「あの時、何があったのかはちゃんと聞いてないけど、姉さんが出てったの、父さんの怪我があったからなんだろ?」
「うん、まあ、そうだね」
ケイティは頷いた。
三年前の、父の怪我。農作業中に彼が脚を折ったことが、確かに歯車の掛け違いの始まりだった。
ちょうど収穫を迎えたその時期に、一番の働き手である父が動けなくなった。アビーも子どもたちも懸命に働いたけれども、父に次いで年長の男性は当時まだ十四歳だったダンしかいなくて、彼ではベンが抜けた穴を埋めることができなかったのだ。
父の治療費だけでなく、日々の食費にも事欠くようになるのはあっという間だった。とにかく父の怪我が治るまでの生活を何とかしなくてはいけなくて、ケイティは折よく街を訪れていた男のオイシイ話に乗っかった。
「あの時、俺がもっと働ければ、姉さんが家を出ることはなかったんだよな」
そう言って、ダンはうな垂れた。大きな身体が小さく見える。
「ダン、あんたは良くやってたわよ」
ケイティはダンの頬に手を伸ばし、言った。確かに、彼はとても頑張っていた。ただ、あの頃のダンでは、人の三倍は働ける父の代わりにはなれなかっただけだ。
それに、ケイティは、一度は戻ってきたのだ。再びここを去ったのは、彼女自身の弱さの為だ。打ちひしがれる両親を見ていられなかったという、弱さの為。
それが、ダンにもこんな荷を背負わせることになっていたとは夢にも思わなかった。自分の浅はかな行動が両親を傷付けただけではおさまらず、弟にも自責の念を植え付けることになろうとは。
「あんたのせいじゃ、ないよ」
もう一度繰り返し、彼女は一転声を軽くする。
「それにね、今いるところは、本当にいいところなんだよ? こんなに楽しくっていいのかなっていうくらい。むしろ、あんたたちに申し訳なく思っちゃう」
「姉さん……」
顔を上げたダンに、ケイティは明るく笑いかける。
「ごめんね、あたし、またあっちに戻るけど。でも、あたしが行きたくて行くんだよ?」
確かに、二度目にロンディウムに赴いた時は、絶望の方が大きかった。けれど、今は違う。
ダンはケイティを見つめ、やがて小さな息をついた。
「姉さんが幸せなら、どこにいてもいいんだ」
「ダン」
ホッと頬を綻ばせたケイティに、ダンが奥歯を食いしばる。
「でも、何かあったら、すぐに迎えに行くからな。これからは、ひと月に一回は手紙よこせよな」
「うん」
弾む声でケイティが頷いた時、扉の向こうから夕食の準備が整ったことを報せるアビーの声が響いてきた。




