獅子隊長への不穏な報せ
ケイティが旅立って、五日目。
ウィリスサイド地区警邏隊詰所の食事の席は、しんと静まり返っていた。主な理由は、いつにもまして無口な、そしていつにもまして深く刻まれた隊長の眉間の溝だ。その度合いは、ケイティの姿がこの詰所から消えてからというもの、日に日に強まっている。そして、隊員たちの「触らぬ神に祟りなし」の態度も、それに応じて極まっていた。
別に怒りをみなぎらせているとかではないのだが、そう、言うなれば、冬眠直前の熊と同じ部屋にいるような心持にさせるらしいのだ、今のブラッドは。
隊員たちは食事を終えるなりそそくさと席を立っていくから、残っているのはブラッドとルーカスだけだ。
「もう少し隠す努力をしてみたらいいのに」
ヒトの気配がめっきり減った食堂で、ため息混じりでルーカスが言った。
「どういう意味だ」
むっつりと問うたブラッドに、ルーカスが肩をすくめる。
「言葉通りです。他のことでは見事な鉄仮面を被ってみせるというのに、どうして、彼女のことになるとあなたはこうも……まあ、皆も嫌というほど理由が解かっているので微笑ましく見守っていますけどね」
呆れ返ったその口調に、ブラッドは唸り声を返す。自覚はあるので、反論する為の言葉を見いだせないのだ。だが、本心を見せないということに関しては、ルーカスだって五十歩百歩ではないか。ブラッドは渋面、彼は笑顔という違いがあるだけで。
内心でそんなことをブツブツ返していたブラッドに、ルーカスは追い討ちをかける。
「まったく、そんなに気になるならあなたが一緒に行ってあげたら良かったのでは?」
その台詞は、ぐさりとブラッドの胸に突き刺さった。
確かに、心配だ。ただし、旅の行程の安全云々ではなく、ケイティが両親に会う時のことが、だ。
実は、半年に一回、ケイティの実家には彼女の様子について報告書を郵送している。とは言え、文才のないブラッドが書くものなので、端的に、元気にしているとか、そういうことくらいのものだが。今まで、それに返事が来たこともなかった。今回、彼女の両親の方から初めて連絡を取ってきたということは、きっと、何かが吹っ切れたということだ。
だから。
(ケイティに悪いようにはしないはず)
そうは思っても、もしも再び彼女が傷つくことがあったら……と考えると、やはり、落ち着かない。
何かあってもケイティのことだから同行者には気付かれないようにするだろう。
だから、隊で一番気が利くティモシーを警護に付けた。だが、彼にはケイティの事情を話していない。ようやく打ち明けてくれた彼女の心の傷を、他の者に勝手に暴露するのが良いことだとは思えなかったからだ。
となると、確かに、ブラッドがついていってやる方が良かったのかもしれない。
だが、しかし。
「オレは隊長だ。私心で職務を放棄するわけにはいかない」
「そんなこと言ったって、あなたは働き始めてからこの方、一度も休みを取ったことがないでしょう。ひと月やそこら、好きなことをしたって構いませんよ。第一、上からも少しは休めと言われていたと思いましたが?」
さっくり切り返され、ブラッドは唸った。
噛み締めた奥歯が、ギシギシと軋む。ケイティが戻るまでに半分程度にすり減ってしまいそうだ。と、すかさずルーカスがそこを指摘してくる。
「歯ぎしりは良くないですよ」
「余計な世話だ」
「もしかして、ティモシーが言い寄っていないかとか、心配ですか? 彼、いい男ですからねぇ。半月も二人きりで過ごしたら、ケイティの中でも何かが少し変わってしまうかもしれませんね」
「そんなこと、オレは気になどしていない」
「その台詞、声と態度に全然合致していませんから。まったく、どうしてケイティが何も気づかずにいられるのか、むしろ不思議でなりませんよ」
やれやれと言わんばかりにルーカスがかぶりを振った。ブラッドの方がいくつか年上だというのに、まるでなっていない若造に対するような態度だ。
何か言い返してやりたいが、何もかもルーカスの言う通りだからどうしようもない。
下戸である自覚をたっぷり持っているブラッドだったが、今は一杯ひっかけたい気分だった。
と、そこにふらりと一人の隊員が入ってくる。
「隊長、なんか城から急ぎの用みたいですよ」
言いながら、彼は手にした封書を差し出した。封蝋に押されているのは、ブラッドの上司にあたる王都警邏部総長テレンス・ケンブルの印だ。
「何だ?」
王都の保安は基本的に各地区の警邏隊に任せられているから、よほどのことがなければ上から呼び出されることなどない。
中を開いてみると、ただ、「早く来い」とだけ書かれていた。
テレンスは、よく言えば豪放磊落、悪く言えば大雑把な人物だ。手紙で細かいことなど言わないのは、良くあることではあるが。
「取り敢えず、行ってみるか」
ルーカスに中の一文を伝えると、さっきまでの揶揄を含んだ表情は一掃される。
「馬を出させます」
短く言い置いて、食堂を出て行った。
上着を取りに自室へ向かい、その足で玄関に行くと、もう馬が二頭用意されていた。
鞍上の人になったブラッドとルーカスは王城があるセントール地区を目指す。
テレンスがおとなしく執務室にいてくれることは非常に稀だが、今日はついていた。いや、本気で急ぎの呼び出しだったから、彼らが来るのを待ち構えていたのかもしれない。
「総長、ご用は何でしょう」
扉を叩き、返事があると同時に中に入って単刀直入に切り出したブラッドに、テレンスはニヤリと笑う。
「よう、来たか。人間なんだからよ、挨拶くらいしたらどうだ?」
普段は、そんなものは鬱陶しいと言っているくせに。
テレンスはむさくるしい黒髪黒目そして黒ひげを生やした男で、背丈はそれほどではないが厳つい身体つきをしている。五十路を超えているが、まだまだ現役、とびきり腕の立つ警邏隊員たちを相手に十人抜きをしても平然としている。きっと、死ぬ直前までこんな感じに違いない。
「ご無沙汰しています。で、ご用は?」
ギリギリと歯を食いしばりながらもう一度繰り返したブラッドに、テレンスの表情が改まる。これくらいで彼をからかうのをやめるということは、どうやら本気で深刻な事態らしい。
「実はな、三年前に児童買春で挙げた奴がいただろ?」
「はい」
ブラッドは頷いた。
忘れるはずもない。ケイティとフィオナの事件だ。
「あの男がな、脱獄したんだよ」
「……――は!?」
「!」
ブラッド、そしてルーカスは同時に息を呑んだ。
そんな二人を前に、テレンスが淡々と続ける。
「どうやら、入所三年目の記念にやらかしたくなったようだな。今朝、起床の点呼の時に消えていることに気付かれた。深夜の見回りでは確かに寝台の中に居たから、消え失せてから三刻(六時間)ってところかな」
「それだけ経っていれば、もう国から出てしまっているかもしれませんね」
そう呟いたルーカスの面からは、いつもの飄々とした風情はきれいに拭い去られていた。
確かに、もう二度と捕まりたくないと思えば、とっととこのグランスから出て行っているだろう。
だが。
「あの男、密告した子に復讐してやるんだと、散々喚き立てていたからなぁ」
渋面で、テレンスが言った。
その台詞に、ブラッドの顔も彼以上に険しくなる。
そう、あの娼館の主デリック・スパークという男は、捕まったところで自身の罪を全く悔いることなく、むしろ自分をそんな目に遭わせた者に逆恨みの念を燃やしているのだ。
(あの子に指一本でも触れた日には、即刻みじん切りにしてやる)
ブラッドは、そんな不穏極まりないことを考えた。だが、本気だ。何をするつもりかは知らないが、触れさせるどころか、ケイティをあの男の視界にすら入れさせたくない。
「ケイティと……フィオナも危険ですね」
そんな低い声に振り向けば、ルーカスらしくない蒼褪めた顔をしていた。
「他の少女たちにも護衛を出さないとだな」
あの時救った少女たちは、フィオナとケイティを含めて十二人だ。
幸か不幸かケイティが密告者であるということは彼には知られていないはずだ。
しかし、スパークがその少女が誰なのかを調べるという手間暇をかけてくれればまだましだが、手当たり次第に手を出されたら、かなり難しい事態になる。
居場所が判っている者はいいが、あれから三年も経っていれば移動してしまっているかもしれない。
「なかなか骨が折れそうだな、こりゃ」
これまたテレンスらしくない弱音めいたその台詞に、ブラッドはグッと唇を引き結ぶ。
こうなると、ケイティが旅に出たことは良かったのか悪かったのか。
(早く帰ってこい)
これまでも朝な夕なに繰り返したその呟きを、ブラッドは今までとは全く違う思いを込めて吐き出した。




