獅子隊長の癒えない傷
ブラッドは、じわじわと限界が近づきつつあることを、ひしひしと感じていた。何の限界かと言えば、我慢の限界だ――ケイティを放置しておくことに対しての。
ケイティの様子が変なことに気付いたのは、かれこれ一週間前のことだ。彼の寝室で立ちすくんでいる彼女を見つけたことがあって、その後から、時々、その澄んだ緑の眼差しが物思いに沈むようになったのだ。そんな時、ケイティが手にしているのは一通の封書で、ブラッドはそれが彼女の家族からのものであることまでは知っている。
――何が書いてあったんだ?
その問いを、彼は何度彼女に投げかけようとしたことか。
ケイティがここに身を置くようになってちょうど三年が経ったが、彼女の家族から便りがあったのは、初めてだ。その疎遠さは、彼女が娼館に売られたことに所以するものなのだろうと、ブラッドは当たりをつけていた。ケイティが屈託なく過ごしていたから特に言及したことはなかったが、やはり、お互い何らかのわだかまりは残しているのだろう、と。
そっとしておけば、そのうちケイティ自身で昇華するかとブラッドは様子を見ていたのだが、どうも進展がない。何より沈んだ彼女をこれ以上見ていることが耐え難く、ついに、今日、介入することを決めたのだ。
午前の鍛錬が終わり、昼食も済ませたところで、ブラッドは片付けをするケイティに終わったら執務室に来るようにと声をかけた。「すぐ行きます」と朗らかに答えた彼女を待ちながら、彼は自分にカツを入れていた。その頭に浮かんでいるのは、一週間前の失態だ。
寝室でケイティを見た時、声をかけ、振り返った彼女があまりに途方に暮れた顔をしていたから、ついつい、手が伸びてしまった。妙齢の娘に気安く触れるなどあるまじきことだが、いつも朗らかに皆の世話を焼く彼女が見せたその顔の頼りなさそうな風情に、考えるよりも先にブラッドの身体は動いてしまっていたのだ。
(今日は、絶対に、触れない)
厳に己を戒めつつ、落ち着かない気分で部屋の中をうろつきながら、待つこと四半刻ほど。
コンコン、コンと、控えめに扉を叩く音が。
「入れ」
唸り声で応じると、開いた扉からケイティが入ってきた。
「ご用は何でしょう?」
小首をかしげた彼女は、閉めた扉に背を付けたまま、近づいてこようとしない。ブラッドの用件を、薄々察しているのだろう。
彼は咳払いを一つする。
そして、単刀直入に切り出した。
「家からの手紙が届いたそうだな」
ブラッドのその問いに、ケイティがキュッと唇を引き結んだのが見て取れた。少し間が空いて、彼女が頷く。
「はい」
「会いたいとか、帰って来いとかいう内容ではないのか?」
また、同じような間を置いて、コクリ。
どうにも、会話が滞る。
場つなぎに、ブラッドはもう一度わざとらしい咳払いをした。
「その……一度帰ってみてはどうだ?」
「ムリですよ」
今度は、間髪入れずの返事だった。その反応があまりに速過ぎたことに、ケイティの心中がうかがえる。
「どうして帰りたくないんだ?」
答えは、ない。
ブラッドは扉の前に居続けるケイティに歩み寄り、膝を突いた。そうしなければ、うつむいている彼女の顔を確かめることができないからだ。
覗き込んできたブラッドに、ケイティはその視線から逃れるようにいっそう顔を伏せていく。
頑ななその仕草がもどかしく、ブラッドはいつかのように彼女に触れてその面を上げさせたくなった。
だが、こらえる。
そうする代わりに、ひたと彼女を見つめ続けた。
ケイティを見ていると、どんな家庭で育ったのかが容易に判る。それはもう、山盛りの愛情を注がれていたに違いない。
「君のご両親は、君のことを大事に想っているはずだ。そして、君も、同じなのだろう?」
今度は、コクリ。
「だったら、一度、帰ってみてはどうだ?」
もう三年も経っているのだ。これだけ経って初めて手紙をよこしたということは、多分、両親も、今までケイティの気持ちの整理がつくのを待っていたのだろう。
「会いたいのだろう?」
問いよりも確かめの気持ちを込めて、ブラッドはケイティに言葉を投げた。彼女は一瞬唇を噛み、そして答える。
「会いたいです」
「ならば――」
帰ってみたらいい、ブラッドがそう続けるより先に、ケイティが顔を上げた。
「最初に帰った時、父と母がどんな顔をしたと思いますか?」
「え……?」
その唐突な問いかけに、ブラッドは眉をひそめる。
ケイティは娼館から解放されてそのままこの詰所で働き始めたわけではない。一度は、親元に返したのだ。だが、数日のうちに、彼女はまた舞い戻ってきた。
身寄りが見つかっていなかったフィオナはともかく、ケイティは帰る場所があった。だから、そこに戻したはずだった。しかし、再びブラッドのもとを訪れここに置いて欲しい、恩返しがしたいと請うたケイティの眼差しには、すがるような色が見え隠れしていたから、彼はまだ幼い少女だった彼女を追い返すことができなかったのだ。
ブラッドは困惑しながらもケイティの問いについて考える。
奉公に出したと思っていた娘が実は娼館に売り飛ばされて、危機一髪で事なきを得た、となれば――
「安堵、だろう」
それ以外に思い当たらない。
だが、ケイティは彼の答えに小さくかぶりを振った。
「ホッとしたっていうのも、確かにありました。でも、それ以上に濃かったのは、罪悪感、だったんです」
「罪悪感、とは、何故だ?」
本気で、理解不能だった。
それを表情に丸出しにしていたのだろう、ブラッドの顔を見て、ケイティが淡く笑う。
「父さんも母さんも、あたしを見てればあたしを娼館に売ったってこと、思い出しちゃうでしょ?」
「だが、二人は知らなかったのだろうが。普通に、奉公に出したつもりだったんじゃないのか?」
ケイティを送っていった隊員の報告では、そう聞いている。彼女が送られた先が娼館だったと知らされて、両親は呆然自失の態だったと。
のどかな農村に住む彼らには、年端もいかない少女がそんな目に遭おうとは、夢にも思っていなかったに違いない。
「騙す方が悪いんだ。騙された者に、罪はない」
解せぬと言わんばかりのブラッドに、ケイティは、またかぶりを振った。
「そうですよね。でも、父と母は、ただの奉公にあんなにお金出すなんておかしいと思えば良かったって、自分たちを責めるんですよ」
そう言って彼女は小さく笑ったが、少しも楽しそうではない。
(愛情故の、すれ違いか)
その自責を目の当たりにしなければいけなかったケイティの心中を思うと、ブラッドの胸が強く締め付けられる。彼女に向けて伸びてしまいそうになる両手を、身体の脇で固く握り込んだ。
そんな葛藤と闘うブラッドの耳に、自嘲が届く。
「あたしは、そんな両親を見ているのが嫌だった。ここに戻ってきたのは、半分逃げてきたようなものなんです。本当は、恩返しなんかじゃ、ないんです」
「ケイティ」
「あたしは、あの時の選択を後悔はしていません。あの時に戻ったとしたら、やっぱり同じ決断をするんです。どうしても、必要なことだったから。でも……」
クシャリと、彼女の顔が歪んだ。涙こそこぼしていなかったが、今にも雫が頬を伝いそうだった。
耐え難い。が、自制心を振り絞って、ブラッドは耐える。
「あたしのせいで両親が苦しんでいるのは、自分を責めているのを見るのは、つらい。だから、帰れないんです」
ケイティの華奢な肩が震えている。
彼は、その震えを止めてやりたかった。何をしてでも、止めてやりたかった。
(ああ、くそ)
その小さな身体を抱き締めて、この腕の中で慰めを与えてやることは、簡単だ。
だが、今、彼女に必要なのは慰めではない。その細い背中を押してやることだ。
ブラッドは、言葉を探りながら語り出す。
「オレには、妹がいたんだ」
伏せられていたケイティの目が上がり、ブラッドを見る。小さくうなずいてから、彼は続けた。
「五つ年下でな、親は頼りにならなかったから、オレが世話をしていた。幼くて、小さくて、オレはあいつが可愛くて仕方がなかった。あいつの為なら、何でもしてやろうと思っていた。何ものからも守ってやろうと、思っていた」
話しながら、それら全て過去形で表わさなければならないことに、未だに胸が痛んだ。
ブラッドは握った拳に力を籠め、続ける。
「あいつが十で、オレが十五の時、都で流行った病にあいつもやられた。ひどい熱で、医者を呼びに行こうとしたが、置いて行かないでくれと、あいつは泣いてオレに縋り付いてきたんだ。それを振り払うことができず、オレはあいつの傍に留まった」
あの時の、あの熱さ。
何度、迷ったことだろう。
立ち上がり、医者の元へと走り出しかけ、その度、彼の名を呼ぶ妹の声に引き留められた。
「熱は下がらず、あの子は衰弱し、いよいよ意識が薄れてきたところで、オレはようやく医者を呼びに行った。もう間に合わないのではないかと思った。もう、最期まで手をつないでいてやるべきではないかと」
あの時の絶望が、鮮明によみがえる。
と、不意に白くなるほど硬く浮き出た拳の節に、柔らかく温かなものがそっと触れた。見れば、ケイティの小さな手が、そこにある。
(このくらいは……)
己の弱さを嗤いつつブラッドが自分の手を重ねて置くと、すっぽりと覆いつくしてしまった。温もりが、ジワリと染み込んでくる。
慰めを与えてくれるその手に励まされ、彼は再び口を開いた。
「オレは、あの子を置いて、家を出た。だが――」
奥歯を噛み締め、今なお胸に深く食い込む悔恨を味わう。
「だが、もう遅かった。医者を連れて帰った時には、あれほど熱かったあの子は、もう、冷たくなっていた」
ブラッドは、深く息をついた。そうしないと、胸の奥にズシリと溜まった何かに、押し潰されてしまいそうだった。
取り戻せない過去を語るのは、つらい。
そこで口を閉ざしてしまわなかったのは、ひたすらに見つめてくるケイティの眼差しがあったからだ。
自分と同じ思いを、彼女にはさせたくなかったから。
「オレには、二つの後悔がある。一つは、もっと早く医者を呼んでいれば助かったのではないかという後悔、もう一つは、あの子をたった一人で逝かせてしまったことへの後悔だ」
そのどちらの方が強いのか――もしかすると、後者の方が強いのかもしれない。幼くか弱い妹を守れなかったことよりも、臆病なあの子を、一人で旅立たせてしまったことの方が。あるいは、あの病の前、元気な頃に、もっと一緒にいてやればよかった、とも。
あれほど愛おしい存在だったというのに、彼が妹のことを想う時、何よりも後悔が先に立つ。
ケイティには、そうなって欲しくなかった。
込み上げてくる胸の痛みを、ブラッドは瞑目してやり過ごそうとする。その目を再び開かせたのは、ケイティの声だった。
「だんな様」
見つめてくる彼女の綺麗な緑の瞳の中にあるのは、憐れむ色だ。ブラッドは、それにかぶりを振る。
「同情して欲しくてこの話をしたわけではない。君には後悔して欲しくないから、話したんだ」
彼は真っ直ぐにケイティの目を覗き込み、そして告げる。
「生きている間は、いくらでも修正が利く。だが、このまま避けていて、いつか取り返しのつかないことになったら、きっと、君は後悔するぞ」
淡々と、だが、切実な思いを込めたブラッドの台詞に、ケイティは白くなるほど唇をきつく噛み締めた。今にも血が滲んでしまいそうで、彼は思わずそこに手を伸ばしかける。
(いや、ダメだ)
ハッと我に返ったブラッドは、指先を手のひらに食い込ませた。そうして、肩に力を入れて、ケイティの暗く翳った翡翠色の眼の中を、様々な思案と迷いが巡っていくのを見守った。
返事を待っていた時間は、けっして短いものではなかったと思う。
その間、ブラッドは身じろぎ一つせず、それ以上の声をかけることもせず、ただ、ケイティを見つめ続けていた。
彼女は華奢だ。顔立ちも幼く、見るたび、守ってやらなければという思いに駆られる。
だが、この三年間、ケイティを見てきて――いや、最初の出会いから、彼女がただ守られるだけの少女でないことは、判っていた。
ほんの一押しで、本来取るべき道を選ぶことができる強さを持っていることを、ブラッドは知っていたのだ。
コチコチと柱時計の振り子の音だけが響く中、ケイティが顔を上げる。そこには確たる決意が浮かんでいた。
彼女は真っ直ぐにブラッドを見つめ、告げる。
「あたし、家族に会ってきます」
ケイティの瞳には、憧憬と、そしてそれを上回る恐れがあった。華奢な肩は、不安で震えている。
けれど、彼女は、一歩を踏み出すことを選んだのだ。
その選択に、ブラッドはただ頷きだけを返した。