獅子隊長は二律背反の虜
蒔いた種は勝手に育ち、見事に実って無事収穫された、そんな感じだ。
ブラッドは、お茶が欲しいと呼びつけたケイティがミツバチのようにクルクルと働く様を見るともなしに眺めつつ、内心でため息をこぼす。
ケイティを一晩抱き締めて眠ったあの日から三日が経ったが、あれ以来、彼女の様子は一変した。いや、変わったというよりも、すっかり元に戻ったと言うべきか。曲がりに曲がっていたケイティの臍は本来の位置に坐り直ってくれたようで、ブラッドを落ち着かなくさせた素っ気ない礼儀正しさは鳴りを潜めている。
あの期間の居た堪れなさは、正直、もう二度と味わいたくない。
思い出して、ブラッドの口から、今度は本物のため息がこぼれ落ちた。
(まあ、オレが悪かったんだけどな)
ケイティを怒らせた理由が自分にあることは百も承知だ。
アレンやティモシーを彼女に引き合わせたのは良かれと思ってやったことではあるが、裏目に出まくったことは確かなのだ。その後の理不尽かつ意味不明な自分の行動が混乱に輪をかけたのもまた、否定できない事実。
色々な意味で器用とは程遠いブラッドは、絡まってしまったその糸をどうしてくれようかと頭を悩ませていたというのに、問題はあの一夜で全て払しょくされてしまったのだ。今、朝から晩まで甲斐甲斐しくブラッドの世話を焼いてくれるケイティは上機嫌極まりない。
あの夜のことを考えるとブラッドは疑惑やら不安やらで吠えたてたくなるが、表面上は淡々と書類に目を通し、署名をする。
(本気で、オレはあの時何をしたんだ?)
ひたすらそれを思い悩みながら。
問題が解決されたにも拘らず、相も変わらず居ても立っても居られない気分になるのは、どうしてケイティが変わったのかが解らないからだ。
ウソ偽りなく、ブラッドは、前夜にルーカスから渡された杯を飲み干してから翌朝腕の中にケイティがいることに気付くまで、いっさい、何も、覚えていない。
ケイティは彼が彼女を寝台に引っ張り込んだというけれど、一体全体、どういう経緯でそんなことになったのか。
取り敢えず、最後に記憶にあるのはルーカスといたところまでだったので、彼に何があったのか訊いてみた。あの夜の自分について。
だがしかし、ブラッドはこの上なく深刻な思いを抱いて尋ねたというのに、ルーカスから返ってきたのは、ブフッという、常日頃飄々としている彼からは思いも寄らない妙な噴き出し笑いだったのだ。
「ホント、あの夜は楽しませてもらいました」
「オレはいったい何をしたんだ?」
「まあ、色々聞かせてもらいましたよ。ああ、大丈夫、行動面はいたっておとなしいものでしたから」
別に、ルーカスに何か隠し事をしているつもりはないから、酔って話したとしてもそう珍しいことはないはずだというのに。
腹心の部下のニヤけたしたり顔が腹立たしい。
「だから、その『色々』は、何なんだ?」
「だから、『色々』ですよ。色々、漏れまくっていました」
「だから、その『色々』は何なんだと訊いているんだ!」
圧し掛かるようにして問うブラッドに、ルーカスはニヤリと笑い。
「だから、『色々』ですってば」
そんな不毛な遣り取りに疲れ果て、ルーカスから情報を得ることを断念したブラッドだ。
取り敢えず、ケイティの機嫌は治ったのだから、彼女にとって悪いことはしていないはず。
そう思いつつ、ブラッドにはどうしても頭の中から消しきれない懸念事項があった。
何しろ、あの日あの朝目覚めた時、彼はこれでもかというほどがっしりと、ケイティのことを抱き締めていたのだから。
お互いきっちり服は着たままだったが、だからと言って何もなかったとは限らない。
(何も……)
ブラッドは砕けんばかりに奥歯を噛み締める。
(何かしでかしていたら、どうする?)
正直言って、酒と眠りという自制心完全解除の状態でいた自分を、彼はこれっぽっちも信じることができない。
だが、いったい何をどう切り出したらよいものか。
卓上の書類を凝視しながらも、その内容は何一つ入ってこない。
と、筆ペンを握ったまま微動だにしないブラッドに、不意に朗らかな声がかけられる。
「じゃあ、他にご用はないですね?」
ハッと我に返った彼が顔を上げると、いつの間にそこに来ていたのか、手が届きそうな距離にケイティが立っていた。
身体の前で手を組んで、軽く首を傾げた彼女は、実に愛らしい。
愛らしいだけに、今自分が抱いている懸念がズシリと重い罪悪感と共にのしかかってくる。
「あぁ……」
唸るようなその声に、ケイティが目をしばたたかせ、コクリと反対側に頭を傾けた。
「他に、何か?」
彼女は、無垢そのものの眼差しと共に問いかけてくる。
言え、言ってしまえ。
ブラッドは自分を叱咤した。
咳払いを、一つ。
「その、だな。この間の夜のことなんだが」
「夜?」
「……君が、オレの寝台にいた夜、だ」
言葉一つ一つを噛み潰すように、ブラッドはそう言い換えた。と、ケイティが「ああ」と言わんばかりの顔になる。
「あの日が、何か?」
眉をひそめて問い返されて、彼はグゥと喉を鳴らした。
「あの夜……あの時、オレは――オレは、君を傷付けは、しなかったか?」
「だんな様が、あたしを?」
ケイティが大きく瞬きをする。
そして、噴き出した。
「ケイティ」
渋面で名前を呼ぶと、彼女は目尻を拭いながら顔を上げる。
「そんなこと気にしてたから、ずっと変な顔をされてたんですか?」
「変な顔……」
「はい。なんか、大事なものをうっかり握り潰してしまって後悔満載っていうか」
まさにその通りのことを考えていたのだ。
更に顔をしかめたブラッドに、ケイティがクスリと笑う。
「だんな様がそんなことするわけがないじゃないですか。ギュウギュウ抱き潰してはくれましけど」
そう言って、彼女は目元を和らげた。
「きっと、だんな様はどれ程酔っ払っても――何がどうなっても、あたしとか、ご自分よりも弱い者を傷付けるようなことはしませんよ」
ケイティの声と眼差しに溢れているのは、ブラッドに対する全幅の信頼だ。
「……そうか……」
肩の力を抜いたブラッドに、一転、ケイティがからかいを含んだ笑みを浮かべる。
「あたしとしては、だんな様が心配なさってたようなこと、大歓迎なんですけど?」
「ケイティ!」
「抱き枕が欲しかったら、いつでもおっしゃってください」
思わず中腰になり声を上げたブラッドの前で、ケイティはいたずらっぽい声で笑いながら身を翻し、執務室を出て行った。
「まったく……」
唸りながら腰を下ろし、ケイティが淹れていってくれた茶に手を伸ばす。
三日間悩ませられた最大の懸念事項が解消され、ブラッドは深々と椅子の背に身を預けた。
抱き枕。
茶と共にケイティが置き去りにしていったその一言で、彼の中にあの夜のことがよみがえる。
ケイティを寝台に引っ張り込んだことも、その後彼女を抱き締めたことも、ブラッドは覚えていない。
ただ、あの夜、いつになく穏やかな眠りを味わえたことは、覚えている。
腕の中にすっぽりとおさまる、小さく、柔らかな温もり。もう三日も前のことなのに、未だその感触が残っているような気がする。
それは、二度と取り戻すことができないものを、彷彿させて。
妹がまだこの手のうちにいた頃は、毎夜彼女を抱き締めていた。ケイティの温もりは、ブラッドが胸の奥に閉じ込めていたあの愛おしさを、否応なしに引きずり出してくるものだった。
ブラッドは、開いた自身の手のひらに目を落とす。この十年で、大きく硬く、力強くなった手に。
あの頃この手があれば、妹を守りきれていたのだろうかと思いながら。
母は妹が物心つく前に亡くなり、それ以来、父は抜け殻になった。まだ十をいくつか越えた程度のブラッドは両親の代わりになって、幼い妹を慈しんだのだ。
雨露から守ってくれる屋根はあっても食事も暖も事欠く日々で、寒さと彼女の寂しさを凌ぐために、ブラッドは彼女を包み込んで眠ったものだった。
妹の為。
胸の内で呟き、ブラッドは自嘲する。
(いや、あれは、オレの為でもあったんだ)
失われて初めて、そして、再び味わって新たに、どれだけ自分があの温もりに癒されていたかを思い知った。あの頃妹の存在がなければ、きっと今の彼にはなっていなかった。
彼女を愛おしむ気持ちがあったから、か弱いものを守らなければならないという気持ちが育まれたのだろう。妹は、彼がより良く生きるための柱になってくれていたのだ。
覚醒して自分がケイティを抱き締めていることに気付いた時は仰天したが、それまでは、まさに夢心地だった。長らく失われていた何かを取り戻したような安らかさが、この身の内を満たしていた。
また、あれを取り戻したいと、ブラッドは切実に願う。
だが、我欲に溺れてそれを叶えて良いはずもなく。
彼は、両手を固く握り込んだ。手のひらに爪が食い込むほどに。
(今なら、まだ間に合う)
この手を、想いを、制御できているうちに、ケイティを巣立たせなければいけない。
そうしなければいけない、それが正しいことだ、一刻も早くそうしろと尻を叩く一方で、本当にそんなことができるのかと囁く声がする。もう、すでに手遅れではないのか、と。
真逆を向いた二つの思考に翻弄されて、ブラッドは、ガシガシと髪を掻きむしった。