穴の答え
「ねえ」
「ん?」
「お父さんとお母さんって、どうやって知り合ったか、知ってる?」
「知らないよ、そんなこと」
「そうだよね、娘の私が知らないのに、息子のあんたに言う筈ないか」
「どうしてそんなこと思ったの?」
僕と、ふたつ年上の姉のふたりで、やっと落ち着いた今日、両親の荷物の整理をしているときに、姉がふと僕に訊ねた
『知らないよ、そんなこと』
そう言ったけれど、僕は、姉よりも先に両親の、よく似通った古い手帳のようなものを見つけてしまった
それは、なんとなく見つけてから開いてはいけないような気がしたけれど、どうしても両親のことを知りたくて、開いてしまったのだった
だから、なんとなく、僕は両親の僕たちの知らない顔を、出逢いを少しだけ知っているような気がしていた
そこに、詳しくは書いていないし、驚くことにどちらも同じようなことしか書かれていなかった
「○月△日×曜日 今日も、あの場所に行く。会えなかった」
それが、大体半年分ぐらい記されていた
母は、殆ど毎日
父は、週に一度とか二度とか、多いと毎週とか
そして、一日ぐらいずれて、ほぼ同時期に、同じようなことが書かれていた
「ねえ」
姉の言葉で、その手帳のことを考えている頭を一旦閉じた
「でもさ、お父さんとお母さんって、本当に仲良かったよね」
「ああ、そうだね。一度も喧嘩しているの見たことなかったね」
「うん、ふたりでいつも一緒だったもんね。子どもの私たちに、あんまり執着してなかったしね」
「興味なかったんじゃないの」
そう言って、ふたりで笑った
「そういう感じでもないよね。なんかさ、親子って言うよりも、物心ついたときから四人別々の存在が集まった集団みたいな感じだった気がする。変に親ぶったことも言わないし、しないし。お前たちが決めればいい、とかさ」
「それって、戸惑うことも少なくはなかったけど、ありがたかったな。姉さんも僕も、だから全て自分たちで決めてきたもんな」
「私ね、お父さんとお母さんが大好きだった。親ってよりも、人間として。一緒に居ることが楽しかったし、たくさん学びになったような気がするんだ。何より、私たち、いつも笑ってたよね。くだらないことで、涙零しながら」
「そうそう、本当に何がこんなに可笑しいんだろうってぐらい、ね」
そう話しながら、僕たちは笑いながら泣いた
母は、六十歳で突然、本当に突然倒れてこの世を去った
何かの病気に罹っていたわけでもなく、その日も元気だったのに、ある日突然
僕たちは、どうしていいかわからなくて、何もできずにひと月を過ごした
そのひと月で、当然頭も心も整理がつかぬまま、父が急いで母を追いかけるように、母と同じく突然倒れ、亡くなった
こうして、荷物の整理ができるまでに半年が経ってしまっていた
よく父は言った
「お父さんは、お母さんと一緒にいることができたから、もう何も望みはないんだ。お母さんがこの世にいないなら、お父さんも居る意味はない。だから、お前たちはその後は自分たちでしっかり生きていけよ。悪いが、お父さんはずっとお母さんと一緒にいたいんだ」
その年でよくそんな惚気話しのようなことが子どもに言えたもんだ
と、半ば呆れていたけれど、反面どこか羨ましかった
そんなこと恥ずかし気もなく、堂々と子どもに言える親はそうそういないだろうし、親という立場ではなく、客観的にひとりの人間として見たとき、こんな言葉を言えるまで愛せる人に出会えたことが、嫉妬までは言わないが、それに似たような感情を覚えたのだ
冗談かと思ったけれど、本当に追うように死んでしまった父
あれはきっと、本当だったのだろうと思わざるを得なかった
哀しみは、今もずっと続いている
でも、どこかで幸福感のようなものも端っこの方に引っかかっているような気もしている
母の古い手帳には、
○月△日 昨日、やっと彼に会えた。今、彼は私の隣にいる
そう書かれてあって、その後は一文字も書かれていなかった
そして、父の手帳には、
○月△日 明日、あの日と同じ仕事先に行く。彼女に会えるような気がしている
とあり、その後は空白のまま手帳が終わっていた
その、父の手帳には、封筒に入っていない便箋だけの手紙が挟まっていた
「愛する人へ
私はあなたに初めて会ったときから、きっとあなたを愛したのでしょう。
もしかしたら、笑われてしまうかもしれないけれど、ずっと、時間など関係なくあなたを愛することになっていたのかもしれない。
時間とは、今この世界に存在する、しない別として
というそんな時間
毎日があなただけになったあの日から、私は今の瞬間まで変わっていない。
ただ、あなたと居られただけで幸せです。
終わるときは、幸せでした、と言えます。
必ず。
今、私は思うのです。
あの日あなたが言った「穴」は、「あなた」だったんだって。
私は、あなたに会えたあの日まで、会ったらあなたに訊きたいことがたくさんあったのに、会えた瞬間に、もうそんなことすっかり忘れてしまったのです。
それも多分、もう訊かなくてもいいことを知ったからだったのでしょう。
あなたに会うまでの三十年間と、もうすぐ出逢ってから三十年が経とうとしています。
もう、それで十分。
私が生まれて来た理由は、もう見つけたし、達成したのだから。
まだ死ぬわけじゃないけれど、もし私がこの世を去っても、あなたは哀しまないでね。
だって、また何度でも、必ず会えるから。
今度は、どんな風に出会う?
それを楽しみに、この世を去るときは笑って逝きます。
私を探し出してくれて、ありがとう
愛しています」
四つ折りになったその手紙の下の方に、
『私がいなくなってから読んでね』
とあった
この手紙を読んだときは、読んではいけなかったのではないだろうか?
と思ったし、読んで良かったとも思った
そして、一晩中、その次の日も、その次の日も、涙がやっと止まったかと思ったらまだ溢れてきて
それを繰り返した
父は、この手紙を母が亡くなる数か月前に受け取っていたのだろう
母が亡くなったとき、父は泣かなかった
少し笑顔で、ずっと母の髪を撫でていた
夜、母が眠る部屋の前を通ると、ずっと傍に寄り添って、母を抱きしめていた
父が亡くなるまでのひと月
父が泣いたのを見たことはなかった
そして、僕たち、特に僕に、母が亡くなったときの事務的なことなど、何から何まで説明した
冷静に、家の中のものの整理、その他全てのことを片づけた
そうして、ある日突然いなくなった
「でもさ」
「ん?」
また、姉の言葉で僕の思考は止まった
「お父さんもお母さんも、子孝行だよね」
「え?」
「だって、全ての仏事を一度にできるもの」
「あ、まあそうだけど…」
「って、そういう風に考えたら、あのふたり喜びそうでしょ?私たちがいつまでも泣いていたら、嬉しくないはず。そういう人たちじゃない、あのふたり」
「そうだね。うん、そう思うよ」
そしてふたりでまた、泣きながら笑った
もう少し、人生を歩いてから、姉にこの手帳と手紙を見せよう
僕たちは、あの両親から生まれてこれて、幸せだね、と




