おとしもの
目の前の机の上でスマートフォンが鳴っている。鳴り響いている。非常に高音質の着うた®をこの広い講義室に響き渡らせている。
うーんいい歌だ。俺もそろそろ機種変更をして、これくらいいい音が出せる最新式のスマートフォンに変えたいなあ、でもバイトもしないとお金がないぞ。あ、でもこのまえ、今まで使い続けてきた分ポイントが溜まっているはずだから、それを使えばいくらか安くなると言うような話を母さんがしていたな。いい加減、その折りたたみのブ厚い携帯はみっともないと言われた事だ。よし、今日はちょっとカタログでも貰いに携帯ショップへ……うん?
確かに一度、一瞬だったかも知れないが着うた®が鳴り止んだ。
いや、正しくは着信が無くなったその携帯だったのだが、交尾してくれるメスをまだ見つけていないセミのように、再び澄み渡った歌声を奏で始めたのである。
ひょっとするとと思い、俺はその真ピンクの携帯を手に取り受話ボタンをタッチした。
「もしもし」
我ながらびっくりするほど久しぶりにもしもしなんて言葉を口にしたものだから、本当にびっくりした。と言う事はきっと電話の向こうの相手も「もしもし」なんて言葉を聞くのは久々だろうから、さぞかし驚いている事だろう。
超普遍的にして平均的ルックス、人格を5段階で評価するなら2.5くらいの他人思考型人間である現代日本人の純粋種であると自負しているくらい普通な俺がびっくりしたのだ。そんな俺の感情ならば平均的に大多数の人間は同じ事を感じて至極当然なのである。
「あーよかったー、出てくれて。あのすみません、その携帯私のなんですけど、今どこにいますか?」
しかし意外にも、電話の向こうのホットケーキが大好きそうな感じの声の女性はあまり驚いた様子ではないようだった。
「今ですか? 今はA市B町3-11-1、郵便番号まではちょっと……あ、そうそう○×大学2F、第5講義室から附属図しょ……」
「すみませんっ! すぐに1Fのエントランスまで来てもらえませんか!?」
こちらがまだ話し終えていないのに随分一方的な女性もいたものだ。これが世に言う肉食動物と言うものか。何か違う気もするが、話によればこの電話は彼女の遺失物で、脈絡からして彼女がこの学校の関係者であることはほぼ確実だろう。
「はあ。わかりました。じゃあすぐに向かいます」
転げ落ちない程度に急ぎ足で階段を下り、広々としたエントランスにホットケーキが好きそうな肉食系の女性がいないかと辺りを見回す。
だがどこにもそれらしき女性は見当たらない。
「あっ! すみません!」
「おや」
その時声を掛けてきたのは、どちらかと言えばホットケーキよりは鉄板焼きが好きそうな雑食系の雰囲気をもつ女性だった。
「ごめんなさい、友達に携帯を借りて何回か掛けてみたんだけど、誰も出てくれなくって……本当に助かりました、ありがとうございます」
それはどうやらこのピンクとしか言いようのない携帯電話の持ち主のようだ。何度も深々と頭を下げる彼女と、その後ろには見守るようにうっすらと笑みを浮かべている女性、恐らくは彼女の友人だろう。
「いえ、大した事は何も。どうぞ」
そしてピンクは俺の手から彼女の手へと渡り、隣の友人と笑いあって安堵したようだ。二人して鉄板焼きが好きそうな感じである。
類は友を呼ぶと言うが、まさしく以ってその通りであると感心していると、彼女はなにやら先ほどとは違う様子でこちらを伺っている。
まるで俺の弱点でも探すように目線を下から上へと昇らせる。捕食対象として捉えられているのだろうか。
「あの、何かお礼を……そうだ、夕食はまだですよね? よかったら近所に美味しいお店があるんですけど、ご馳走させてもらえませんか?」
そうかお礼か。確かに現金ではないにしろ携帯電話も重要な生活用品に違いない。と言う事は俺の行為は礼に値するほどの功績を挙げた訳だ。
「そうですか、ではお言葉に甘えて」
「お好み焼き屋さんなんですけど、好きですか?」
そう尋ねてきた彼女の瞳は肉食動物と言うよりは飼い慣らされた犬のようだった。
「大好きですね」
なるほどお好み焼きか。大体平均すれば似たようなものだ。