練習と再会
春休みは、バイトの合間にデートをして。
サークルの一年生で市営コートを借りて、二、三回テニスもした。
『晩飯、食いに行こうぜ』『飲みに行かない?』という夜のお誘いだけは、パスをしながらのサークル活動。
ユキちゃんもバンド活動で経済的に余裕が無いと、三回に一回くらいの参加になっている。
年度が替わった四月。
その日、正午までのシフトでパン屋のバイトを入れていた私は、朝から働いていた。
あと、三十分ほどで上がりという頃。
拭き終えた二十組ほどのトレーとトングを両手で抱えて、入り口のトレーラックへと向かっていると、一人のお客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「あれ? 確かユキの……」
トレーをとる邪魔にならないようにと、立ち止まったところで出てきたユキちゃんの名前に、改めてお客さんの顔を見る。
背の高い金髪の男性が、首を傾げながら私を見ていた。
この前出会ったユキちゃんのバンド仲間で……キーボードの担当、だったかな?
「うーんと。悦子、さん? だったっけ?」
「あ、はい」
「俺、わかる?」
「はい、リョウ君、ですよね?」
「あたり」
ニッと目を細めるように笑うと、リョウくんはトングとトレーを手にした。
リョウ君に軽く会釈をして彼の横を通り、ラックにトレーを置きにいく。
「悦子さん。仕事中悪いんだけど。お勧め、ってどれか聞いてもいいか?」
レジへと戻る途中で、リョウ君が尋ねてきた。
リョウ君が持つトングのカチカチという単調な音に、『ああ、ユキちゃんだったら。きっとこれも何かのリズムになっているんだろうな』なんてことを思ってしまった。
「どういったタイプのパンがお好みですか?」
「とりあえず、ボリュームがあるやつ」
さっき焼きあがったばかりの照り焼きチキンのパンや、サンドウィッチを中心に数種類を説明しながら、『あ、これはユキちゃんも好きそう』なんて、また。ユキちゃんのことを考えている。午後から二年生向けガイダンスがあるから、大学に行けば会えるのに。
支払いを済ませたリョウ君が店を出て行くのをレジから見送って、気がついた。
今日は、怖くなかった。
タイムカードを押してから、自分もお昼ご飯用に菓子パンを買って。
大学に着いたのが、ガイダンスの始まる一時間ほど前だった。
途中でミルクティーを買ってから学食を覗くと、ウォークマンをつけてシャープベンシルを軽く振りながら紙を眺めているユキちゃんがいた。ユキちゃんとの待ち合わせには、まだ十分ほどあるのに。相変わらず、ユキちゃんは時間より早く来ている。
「ユキちゃん」
「あ、おはよう」
「こんにちは?」
「ああ、昼やな」
そんな挨拶を交わして、彼と向かい合って座る。
「昼飯、買って来たん?」
「午前中バイトだったから。そういえば、さっきリョウ君がお客さんで来てたの」
「ああ、アイツはまだ春休みらしいな」
そう言いながら楽譜らしい紙を片付けたユキちゃんは、財布を手に立ち上がると食券売り場へと向かう。私も自分の分の昼食を袋から取り出した
メロンパンと、ツナサンド。それからさっきのミルクティー。
ユキちゃんはメロンパンを見るたびに、『これは、メロンパンと違う』と言う。ユキちゃんの地元では、白餡が入っているとか。それはアンパンだと思うのだけど。アンパンは、普通にアンパンだとか。
今日も、言うのかな。
なんて考えながら、ユキちゃんが戻るまでに、ミルクティーの缶を開けてみる。
お、成功。今日は一度で開けられた。
「あー。えっちゃんが缶開けとる。俺が開けるから、って言うてるのに」
一口飲んでいるところに戻ってきたユキちゃんは、ブツブツと言いながらカツカレーをテーブルに置いた。
「で、大丈夫やった?」
「はい?」
缶のことかな?
「リョウと会って、怖なかった?」
ああ、さっきの。
「はい。店員として少しお話もしたけど、大丈夫」
「そっか」
ホッと息をついて、ユキちゃんがスプーンを手に取る。
三口ほど食べたところで、ユキちゃんの手が止まった。
「そうか。当たり前といや、当たり前やな」
「そう?」
「うん。リョウは、俺より背が低くて細身やし。見た目も男臭くないやろ?」
「うーん?」
金髪のワンレングスという見た目は、派手だけど。確かに雰囲気は柔らかい気がする。
「それに、アイツは一番モテるから、ガツガツしとらんし」
「へぇ」
相槌を打ちながら、『ユキちゃんはどうだろう。モテるのだろうか』と心配になる。
メロンパンを口に運びながら、そっと見たユキちゃんの耳に光るヤギのピアスに少し安心をする。
大丈夫。プレゼントのピアスをしてくれているのだから、大丈夫。
『ひとりずつ順番に会って、慣れていこうか』とユキちゃんが言い出したのが、それから一週間ほど過ぎてからだった。
「順番にって……」
「うん。一度に会って、取り囲まれたらビビるやん。リョウ一人だけが大丈夫やったから、次はマサあたりどうかな?」
「マサ君……」
確か、釣り目のちょっと怖そうな子。道でふざけていたユキちゃんを叱ってたし。
「アイツのほうが、サクよりちょっと背が低いと思うねん。それに、彼女にメチャメチャ惚れとるし」
「そうなの?」
「うん。この前の飲み会に彼女も来てたけど、もう『勝手にしとって』って感じ」
春休み中に、メンバーとマサ君の彼女とで飲み会があった。偶然、道で出会ったあの日の別れ際に、私も誘われたけれども、ユキちゃんが上手に断ってくれていた。
「学生の恋人同士、の空気と違うねん。すっかり夫婦」
「はぁ」
「お互いに、ちょっとした事で拗ねるんやけどな。その雰囲気がなんて言うかな……夫婦やねん。とにかく」
分かったような、分からないような。
首を傾げていると、先生が教室に入ってきた。
「ま、どこかで機会を作るわ」
小声で囁いたユキちゃんは、ペンケースを手にした。
そうしてユキちゃんは、待ち合わせまでの時間つぶしにマサ君とコーヒーショップで話しこんでいたり、サク君のバイト先の牛丼屋さんに連れて行ってくれたり。いろいろな方法で、彼らとの接点を作ってくれた。
ジン君だけは、やっぱり手の届く距離だと怖かったりするけれど。
もう一息で、ユキちゃんのライブにも行けるようになれそうな。
そんな気がする。
ゴールデンウィークを過ぎた頃。
一度ユキちゃんたちが練習している日に、音楽スタジオで待ち合わせてみることになった。
『”待つ”のが嫌やったら、部屋に入ってきてもええで。他の彼女が来てることもあるし』と、ユキちゃんは言っくれていたけれど。『ユキちゃんが、すっぽかすことは絶対にない』と、やっと信じることができるようになった私は、彼らの邪魔にならないようにロビーで待たせてもらっていた。
練習を終えて帰って行くらしい人や、待ち合わせをしているらしい人。
ユキちゃんたち織音籠と同じくらい、奇抜な髪型だったり、服装だったりする他のバンドの人たち。
大学でも街中でも見かけることの少ないような人たちが、途切れず集団で視界に入る。
ちょっと、怖い。かも。
部屋、入らせてもらおうか。
練習場所はこの廊下の先だろうかと、ソロソロと歩き始めた時、甲高い女の子の声が聞こえた。
「だからぁー。サクったら、もう」
サク君?
腕時計を見ると、ユキちゃんとの待ち合わせ時間まで、あと少しだった。
そろそろ終わった、のかな?
薄暗い廊下を覗くと、女の子と腕を組んだサク君が居た。
「あ、悦子さん、来てたんだ」
後ろを振り返るサク君
その隣から、聞こえた言葉に私は凍りついた。
「ハイジ?」
どうして、ココで。その名前が。
「覚えてない? 室谷 洋子だけど」
室谷さん!
昔から美人だった彼女は、その美貌をさらに磨き上げたように、一際きれいになっていて。女の私も一瞬目を惹かれた。
けれども同時に、セーラー服姿の彼女がオーバーラップする。
夕暮れの教室で見せた
華やかな微笑み。毒の滴りそうな目つき。
「えっちゃん」
ユキちゃんの声に、現実に戻る。
いつの間にか彼は、私の左斜め後ろに立っていた。
「どないしたん? また何かあったん?」
両肩に手を置いたユキちゃんの耳元で囁く声に、頭を振る。
「なーんだぁ。ユキの彼女ってハイジだったのぉ?」
「洋子さん、えっちゃんと知り合いなん?」
「中学の同級生よねー?」
「はい」
小さく返事をする私にクスクス笑いながら、室谷さんが言う。
「ハイジ。これから、みんなとご飯に行かない?」
まだ、無理。ご飯に行くのはまだ、無理。
「ハイジ? 返事は?」
私の状態を知るはずもない室谷さんが、問いを重ねてくる。
私の心はいつの間にか中学生に戻ってしまって、『行けない。行きたくない』と答えることができず、床に視線が落ちる。
「行けないの?」
「はい」
「相変わらず、ハイジなのね。だったら……」
思わせぶりに言葉を切った室谷さんに引かれるように、顔を上げる。
妖艶な笑みで私を見つめた室谷さんの唇が動く。
「ねぇ、ハイジ? ユキを貸してくれない? 一度、彼ともゆっくり話してみたいの」
嫌。それは嫌。それだけは嫌。
今までに感じたことの無い、拒否感が募る。
けれども。
さっきから連呼され続けた『ハイジ』の名前が、拒否の言葉が音になるのを妨げる。音に成れなかった声が咽喉に詰まる。
そして、心までも子供時代から戻れなくなった。
居場所を失うことが怖い。
ユキちゃんが室谷さんと『ゆっくり話をすること』を嫌がるような心の狭い私が、ユキちゃんの隣にいてもいいのだろうか。
「ハイジは、ユキから離したら病気になるねんで」
両肩に乗っていた手が、体の前に回された。まるで、お気に入りのぬいぐるみを抱くように、ユキちゃんが抱きついている。
胸の前でクロスされたユキちゃんの筋張った左腕に、私の右手を添える。
離さないでね。離れて行かないでね。
声にならない声が聞こえたように、空いているユキちゃんの手が私の手に重ねられた。
「アレは、そういう話だったな」
サク君の相槌に、ユキちゃんが便乗して言葉を重ねる。
「やろ? そやから、俺から離さんといて、な? ユキも病気になりそうやし」
「ちょっと、サク? あなた、いったい誰の味方なのよ!」
室谷さんが、サク君の腕をつねる。
うわぁ。
赤く塗られた長い爪が、怖い。
簡単に剥がれそうになる自分の爪と重なって、自分の爪が痛くなる。
「ってぇ」
軽く顔をしかめたサク君が、室谷さんの手をとる。
「余計な心配してんじゃねぇよ。俺は、ずっと洋子の味方だぜ?」
「どこがよ」
室谷さんが膨れる。
「はいはい。サク達が仲ええのは、よう判ったって。もう、俺ら行くから、あとは頼んだで」
抱かれていた手が、するりと解かれて、今度は右肩に手が乗る。
軽く力をこめられた手に、促されて歩き出す。
建物から出て、最初の交差点を渡ったところで、ユキちゃんの手が離れた。
「えっちゃん。『ハイジ』て呼ばれるのが嫌なん、あの子のせい?」
「室谷さんのせい、では無いけど」
「ふぅん? それやったら、さっきの相変わらずって、何?」
「室谷さんの呼ぶ『ハイジ』は灰島が、由来じゃなくって。ハイしか言わない『ハイジ』なの」
「あぁ、なるほど。昔から、『嫌や』言えんかったんか。それで、足元みられとるのやな」
「はい」
駅のほうにゆっくりと歩きながら、そんな話をした。
夕食は学園町まで一度戻って。サク君のバイト先の牛丼屋に入った。
「サクは、彼女連れで牛丼屋には行かへんやろし」
「そうなの?」
「うん。アイツ、食い道楽やで。食いモン屋のこと聞いたら何でも出てきそうなくらい」
そう言いながら、メニューを二人で眺めた。
「で、や。初めてここ来た時のこと、えっちゃん覚えとる?」
注文を済ませて、お茶を飲みながらユキちゃんが尋ねてきた。
確か、合コンをすることになって、私だけ待ち合わせの時間を変えられていた時。ユキちゃんは遅れた私を三十分も待ってくれていた。
あれから、もう一年近くになる。いろいろあって、長い一年だった。
「思い出した?」
「はい」
「あの時に言ってた、偽ラブレター事件。洋子さんが一枚、かんでない?」
「!?」
「その顔は、アタリやな」
腕を組んで、背もたれにもたれながら、ユキちゃんが私の顔をじっと見る。
「俯いたかて、バレとるよ」
ユキちゃんの声に、笑いが混じる。
「何で……」
「わかったかって? 勘、やな」
勘って……。
それこそ、どうして?
「えっちゃん、『嫌や』も言わへんけど、他人を陥れるようなこともせぇへんもん」
「そう?」
中学のあの時。私が”黙っていた”という事実は、差出人も陥れたのに。
「そんなことしたら、もっと他人が信じられんようになるって、心のどっかが知ってるからやろ」
人間不信が高じたら、生きていかれへんで。
ユキちゃんはそう言って、私の目を覗き込んできた。
注文していた料理が届いた。
軽く、店員さんに礼を言って受け取ったユキちゃんに、割り箸を渡す。
「話、続けるで。『洋子さん犯人説』が、濡れ衣やったら絶対えっちゃん違うって言うやろ? そう言わんかったから、ビンゴ」
銃の形を作った左手で、撃つまねをする。
「そう、だったんだ」
「まぁ、やりそうな子やとは思うし」
お箸を割るユキちゃんに合わせて、私も食べ始める。
「そうかな?」
「えっちゃんが主犯より、はるかに”らしい”わ」
キレイな室谷さんの裏側を、こんなに見ているユキちゃん。
なんだか、嫌だ。
室谷さんを、これ以上見ないでほしい。
「『世の中は全て、自分の思い通りになる』って思ってるのが、こう……伝わってくる子やな。アレやったら、偽のラブレターで男踊らすのに、躊躇せんやろ」
生卵を崩しながら、ユキちゃんが言う
「そう、なんだ」
「俺は、嫌やな。ああいう子。サクの好みやから、俺が文句つける筋やないけど」
嫌、なんだ。
きれいな子でも。
少しだけ。ほんの少しだけ、だけれど。
うれしいと思ってしまった自分は、すごく醜い。
こんな醜いことを思う自分を、ユキちゃんにだけは知られたくないと、思った。
私のそんな内心のモヤモヤを知るわけもないユキちゃんは、しばらく黙ってご飯を食べていた。
「えっちゃん、割り食ってもたな」
「はい?」
「主犯格は、良心の呵責を感じてなさそうやのに、えっちゃん一人が嫌な思いしとるやん」
「いえ、私も悪かったから……」
待ち合わせが怖いのは、自分も悪かったから。
「うーん。悪かったとしたら……タイミングが”悪かった”、だけと違う?」
お漬物をポリポリとかじるユキちゃんが、目で笑う。
「タイミング?」
「そう。えっちゃんが悪かったのは、悪巧みのど真ん中に突っ込んでしまったことだけや。後は、何も反省するようなこと、ないで」
そうかなぁ?
でも、ユキちゃんがそう言うなら
その言葉を信じたい。