恐怖感
ジン君と出会った二週間後が、ユキちゃんのライブデビューだった。
「ジンが怖いのやったら、無理に来んでもええから」
なんでもないことのように、ユキちゃんが言う。
「俺が音楽しててもしてなくっても、えっちゃんには関係の無いことやん?」
「関係、ない?」
そんな風に言われると、なんだか寂しい。
「うん。えっちゃんの彼氏の『ユキちゃん』に変わりないやん?」
「そう、なの?」
「そうやの」
そうか。大学生でも、ドラマーでも。ユキちゃんはユキちゃんで、私たちの関係は変わらない。のか。
そう考えると、”ユキちゃんの隣”という私の居場所が、確立したような安心感。
で、ライブをどうしようか。
ユキちゃんの晴れ姿を見たい気持ちと、またあの恐怖感に囚われることを恐れる気持ちとで揺れる。
「えっちゃんの具合が悪なるのをステージの上から見たりしたら俺、演奏投げ出しそうやし」
「……」
「ちょっとずつ慣れたらええやん。これっきりやないし」
そう言って、私の頭を軽く叩いた。
ポンポポポン。
久しぶりのステージは緊張した、と言いながら清々しい顔をしているユキちゃんにも、後期試験はやってくる。
そして、それが終わるとスキー合宿があって、二月の下旬に追い出しコンパ。
この日は”名前だけ会員”の四年生も出席しての大人数で、いつもとは違う店で行われた。
佐々木さんの前の代。四年生の代表者だった人の音頭で乾杯をして、あっという間に無礼講になだれ込んだ。
「野島君。この前のライブ行ったわよ」
根岸さんが、グラスを片手にやってきて、ユキちゃんの右隣に座る。今日は私の右隣がユキちゃん。左隣は、空スペースになっていた。
「俺も行ったぞ」
後ろのテーブルから、かかった野太い声は多分、三年生。
「ありがとうございます。また、次もよろしくー」
軽く腰を浮かせて、ペコペコ頭を下げるユキちゃん。
今年の総合大のステージに出ていた大山さんがビール瓶を持ってやって来た。ユキちゃんの正面に座った大山さんと入れ替わるように、根岸さんが腰を上げたのが見えた。
「野島。来年はお前も学祭のステージ、出るのか?」
ユキちゃんのグラスにビールを継ぎながら、大山さんが尋ねる。
「多分。三ヶ所巡りとちゃいますか?」
「三ヶ所?」
「はい」
大山さんに返杯しながらの、ユキちゃんの説明によると。
ジン君が近所にある外大、他の三人が総合大の学生なので、今年の学祭では総合大と外大の二ヶ所で演奏したらしい。
来年は、ユキちゃんを代表で申請すれば経済大でもステージに出られるかな、と彼らは話し合っているという。
「一番最後に入って、代表なの?」
転校生がいきなり学級委員、みたいな感じ、よね?
隣から口を挟んだ私に、ユキちゃんは箸で摘んだ揚げ物を取り皿に戻して答えてくれる。
「いや、申請先に合わせて。今年も外大はジンで申請したけど、総合大のほうはそれでは通らんし」
「ふぅん」
あ、このエビチリおいしい。
「ユキちゃん」
「うん?」
「これ、すごくおいしい」
「ホンマ? ちょっと入れて」
「うん」
「えっちゃん、こっちの磯辺揚げもおいしかったで。入れよか?」
「あ、じゃぁ。お願いしていい?」
互いのとり皿を交換して、大皿から料理を取り分ける。
「おまえら、ホンマに仲いいなぁ」
ユキちゃんの方言を真似たような微妙な言葉遣いで、私たちを冷やかしながら私の正面に二年生の高見さんが座った。
どうも、と、軽く会釈を返す。
「えっちゃんは、スキーに行かなかったんだっけ?」
「あ、はい」
「楽しかったぞー。根岸さんが、写真持ってきてるから、後で見せてもらったら?」
そんなことを言いながら高見さんは、さっきの大山さんが置いていってしまったビール瓶を手に取った。
「えっちゃん、ほら」
軽く傾けた瓶を、私のほうに差し出してくる。
今日は、乾杯のビールもユキちゃんに飲んでもらって。私は最初から、ウーロン茶を飲んでいた。
「いえ、私は……」
「ん?」
ほら、ほら、と。
急かすように差し出される瓶の口に、視線が吸い付く。
『こんなことをしようと思って、アイツら酒飲ましとるのやで? ヤられても、多分文句言わへん子やろって』
耳の奥に響く、ユキちゃんの声。
目の前の光景が、現実味をなくして。
耳が捉える音も、水中で聞くようにぼやけて。
息が、できない。
命綱のように、目の隅に見えたレンガ色のチェックのシャツにしがみつく。
「えっちゃん?」
かろうじて聞こえた、ユキちゃんの声。
助けて。
ユキちゃん。
「えっちゃん? どないしたん?」
「気持ち、悪い……」
掠れた自分の声。
「ちょ。高見さん? 何しました?」
ガヤガヤガヤ。
耳の中でぼやけた音がハウリングしている。
ココから、助けて。
連れ出して。
脇に手を通すようにして、立ち上がらされる。
その間も、ぎゅっとユキちゃんのシャツの袖を握り締める。
ユキちゃんの胸に額を押し付けて深呼吸をする。
「えっちゃん、大丈夫?」
まだ、しゃべることができず、一つ頷く。
座敷から連れ出されて、廊下にいるのが少し落ち着いた頭で何とか理解できた。
背中を軽く摩ってくれているユキちゃんの声。
「吐きそうやったら、トイレ、行く?」
「吐きそう、ない」
はぁ、ふぅ、はぁ、ふぅ。
吐いて、吸って。吐いて、吸って。
息が整うまで、ユキちゃんはそのまま待ってくれた。
「で、なにがあったん?」
「高見さんに、ビールを注がれそうになって……」
「うん?」
「断ろうとしたら、音とかがおかしくなってきて……」
摩っていたユキちゃんの左手は、いつの間にかゆっくりと背中を叩いていた。
タム タム タム タム
「なぁ、えっちゃん」
「はい」
「ジンが怖かったのと、関係ありそう?」
「……」
宥めるように叩かれる手の感触で、私の意識に霞がかかる。
「関係、あるのやな?」
そこへと畳み掛けられた言葉に、私は催眠術にかかったようにボンヤリと頷いてしまう。
「えっちゃん。今日は、ちゃんと聞かして?」
体を離して覗きこむユキちゃんの真剣な顔に、私は目が覚めた。
ああ。いけない。ボンヤリしてちゃ。
どうしよう。
どう言っても、ユキちゃんを責めることになってしまう。
ユキちゃんが引き金になっている、なんて。
「あんなぁ。俺、末っ子やから、昔から『幼い』って言われとるけどな。それでも幼いなりに、好きになった子くらい守りたいねん。困ってたら助けたいねん」
わかるか、と言われるけど。
「ユキちゃんが幼かったら、私はもっと幼い」
男性の下心に気づかずに、何度も潰されそうになるくらい。何も知らない。
「そんなことない。えっちゃん、お姉ちゃんやもん。イロイロ我慢しとるところ、あるやろ?」
我慢と、幼いのは関係ないんじゃないかな?
「ほら。我慢せんと、言ってみ?」
『俺の前でくらい、子供のえっちゃんになり』
耳元で囁いたユキちゃんの声は、
何かの呪文のように私の鍵をこじ開けた。
ふすまを開けて、座敷内に『ちょっと外の風に当たってくる』と言い置いたユキちゃんと、店の外へ出た。
立ち話なので、なるべく簡潔に。ユキちゃんを責めないように淡々と。
そう気をつけながら、私が抱えてしまった恐怖感を説明して。
「うーん。ごめんなぁ。ちょっとやり過ぎたよなぁ」
話し終えると、ユキちゃんが頭を掻く。
「ユキちゃんは、悪くないから」
「いや、めっちゃ悪いやん」
腕組みをした指先が踊る。
トントントトトン、トトトト、トトトン
「とりあえず、俺より小柄で、酒が絡んでなかったら大丈夫なんやな?」
「はい」
講義で一緒になる木下君たちも問題ないし。今日だって、お酒が出てくるまでは大丈夫だった。
「酒の方は、飲み会を欠席したら済む話しやけど……。体格、かぁ」
「ユキちゃんくらい大きい子は、そんなに居ないから大丈夫だと思う」
「いや、それがなぁ。ウチのバンド、デカイやつだらけやねん」
「はい?」
「この前のジンが一番デカイねんけどな。ほかも、俺と似たり寄ったり」
「はぁ」
百八十を少し越えると言っていたユキちゃんと同じくらいの子ばっかり五人、のバンド。想像しただけで、身がすくむ。
「ちょっと、怖い、かも」
「そうやんなぁ」
相槌を打つユキちゃんの、泣き黒子が困っている。
「それは、またゆっくり考えよか。で、えっちゃん。爪、見せて?」
唐突な話題に、首を傾げながら両手を差し出す。
「あー、やっぱり」
「どうしたの?」
「爪が、また」
ほら、と右手の甲を向けられる。人差し指と中指に血が滲んでいる。
「さっき、力いっぱい袖を握ったやろ。その時に、やってしもたな。今日は絆創膏、持っとる?」
「多分」
2日ほど前に家の近所の商店街で、くじ引きをした時の残念賞がカバンに入ったままだったはず。
みんなには風邪気味でめまいがしたと言い訳をして、それを口実にお酒は注がないで欲しいと頼んで。 何とか、その日はお開きまで持ちこたえた。
『ゆっくり考える』と言っていたユキちゃんの予想を超えた出会いがあったのが、雛祭りの頃だった。
土曜日の夕方。西のターミナル近くのパン屋さんでのバイトを終えた私が、店の裏口を出て駅へと向かう路地を歩いていた時だった。
「えっちゃん!」
曲がり角から聞こえた声に右側の路地を覗くと、ユキちゃんがいた。
ジン君と。それから大きな三人の男子も。そのうち二人はギターケースを背負っていた
これが……織音籠? ユキちゃんの仲間たちなの?
「ごめん。ちょっと、そこで待っとってな」
仲間にストップをかけたユキちゃんが、三メートルほどの距離を急ぎ足で近づいてくる。
「えっちゃん。ここからやったらアイツら怖ない?」
「はい」
「もう少し、近づける?」
「……たぶん」
ユキちゃんに肩を抱かれた状態で、彼らに歩み寄る。
「アカンところで、ギブするんやで」
「はい」
一歩一歩、慎重に近づいて。互いに手を伸ばして届くかどうか。
そのくらいの距離で私の足が止まる。
「ここまで?」
「はい」
「この前ジンは逢うたけどな。この子、”照れ屋さん”やから。ちょっと離れとったってな」
互いの間に立ったユキちゃんが、そんなことを言いながら互いを紹介してくれる。
金髪で肩までのワンレングスの子がキーボードの山岸 亮 君、ちょっと怖そうな釣り目の子がギターの中尾 正志 君。そして、やんちゃそうな顔立ちでベース担当の原口 朔矢 君。
「ユキ。彼女、隠してんじゃねぇよ」
「隠すに決まってるやん。サクに見せたら取られるもん」
「他人の彼女、取ったりするかよ」
目じりにしわを寄せて笑いながら、原口 ーサクー 君がユキちゃんを小突く。ユキちゃんが小突き返す。
「おい、サクもユキも。いい加減にしておけよ。道の真ん中だぞ」
子供のケンカのような、二人のじゃれあいを止めたのは中尾 ーマサー 君。
ユキちゃんたちは、叱られた子供のようにシュンとした表情で、”気を付け”をする。
面白い。一種の力関係があるんだ。
「で、ユキはこの後どうするんだ? デートか?」
そう尋ねた低くてよく通る声は、この前出会ったジン君。
「えっちゃん、この後予定ある?」
「いえ、あとは帰るだけ」
「ご飯、食べに行く? あ、俺と二人って意味やで」
一瞬、みんなで行くのかと思って肩に力を入れてしまった私に、ユキちゃんはそんなことを言い足してくれた。
お誘いはうれしいけど。
「多分、家に夕食が……」
「あ、そうか。それもそうやな」
うんうん、と頷いたユキちゃんが振り返って言う。
「マサ、聞いた? 自宅生は、ちゃんと家で飯、食うねんで?」
「家でも食ってる」
「『家でも』ってなんやねん」
一日に何回、食う気や。と笑ったユキちゃんは、私の手を取った。
「そしたら、このまま駅まで一緒に行こ?」
「ええっと。いいの?」
「うん、練習終わったし。どうせ俺らも電車乗って帰るもん」
『じゃぁ、行くぞー』と、いう山岸 ーリョウー 君の声に従って、ゾロゾロと駅へと向かう大柄な子達の集団。その後ろをついて歩くようにして、私たちも歩き始めた。
歩きながら、ユキちゃんが小声で話しかけてくる。
「えっちゃん、どう? 実際に逢ってみたら、大丈夫そう?」
「あれくらい、離れていれば。とりあえずは」
まだ少し胸はドキドキしているけれど。
「『これ以上近づくのは嫌や』って言えとるから、信用するけど。無理、せんとってな?」
ユキちゃんはそう言いながら、指を絡めるように握り合った私の手の甲を指先で叩いていた。
彼らといるユキちゃんは、大学での彼とどこか違っていて。
言葉にできないその”違い”が、彼を仲間とつなぎ合わせいる。
私には入り込めない、ユキちゃんの”居場所”。
せめてその隣に立つには、彼らと、普通に話ができるようにならないと。