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初めての経験

 現代社会に生きていれば、性的な情報なんてものは耳学問で入ってくる。

 ファッション誌の特集だったり、ドラマや映画の濡れ場だったり。


 ”初めて”の相手は、ユキちゃんだろうと。

 漠然と心のどこかで、思っていた。


 漠然とした想像は、あくまで想像でしかなく。

 現実の体験との差に、私は翻弄された。



「えっちゃん。ホンマにごめん」

 事後の処理を終えたらしいユキちゃんが、下着姿で頭を下げる。

 お布団でグルグルに包み込まれている私の枕元に正座をして。

「怖かった、の」

 初めての体感が。

「うん。ごめん」

「気持ち悪くって」

 あんなことを、名前も知らない初対面の人にされそうになってた事実が。

「う、ん」

「嫌、だった」

「ご……め」

 洟をすするような音を立てて、ユキちゃんが目をこする。

「あんなことをする相手、ユキちゃんでないと、嫌なの」

「ホンマにごめん。許してなんて、言うたらアカンけど。って、え?」

 ポカンとした顔で私を見るユキちゃんの、膝の上で握られた左拳に、お布団から出した右手を伸ばす。

「”嫌だ”って思ったの。ユキちゃん以外の人に、あんなことされるのは、絶対に嫌だって」

「えっちゃん」

「本当の意味で、何が”危ない”のか理解したと思うから。心配をかけて、ごめんなさい」

 そう言った私の右手を両手で掴んだユキちゃんが、その手に額を押し当てた。

 大きな身を屈めた彼のその姿は、まるで、お祈りをしているかのようだった。

「えっちゃん、えっちゃん、えっちゃん」

 疼くような痛みが、指先から流れる。


 顔を上げたユキちゃんが、握り締めた私の指先にキスを落とす。

「えっちゃん」 

 ぎょっとした顔で、私の指先を見つめる。

「ごめん。怪我させてしもた」

「はい?」

「つめ、はがしてもた」

 消毒をしているひざ小僧を、指の隙間から見ていた弟のような表情で、怖々と指先を眺めている。

 そんな彼の両手から、右手をそっと抜いて、爪を見てみる。

 あー。さっき痛かったのは、これか。

 中指の爪の先端から二ミリ程のところに、白い線が入って血がにじんでいる。

 爪が、軽く剥がれかけていた。

「ユキちゃん、絆創膏ある?」

 これなら上から押えておけば、くっつくかな?

 弾かれたように立ち上がったユキちゃんが、押入れから救急箱を出してきた。 

 傷ついた指先を吸うように舐めて。貰った絆創膏でぎゅっと締め気味に押さえる。

 うん、これで大丈夫。三日もすればくっつくはず。

「えっちゃん。痛ぁない?」

 自分が怪我をしたような顔で、ユキちゃんが尋ねる。

「はい。こうしてれば、くっつくから」

「やけど……」

 項垂れたユキちゃんの左肩も赤くなっている。

「ユキちゃんこそ。ココ、どうしたの?」

 私の指差しを視線で辿って。

「あー」

「?」

「さっき、ぎゅって、えっちゃんが」

 私が? ぎゅって?


 記憶を辿って、頭に血が上った。

 多分。破瓜の瞬間。

 力いっぱい何かを掴んだ。

 気がする。

「あ」

「どないしたん?」

「あの時に、爪が撓んだんだ」

 ユキちゃんの肩と私の爪がぶつかって。私の爪が負けたんだ。

「撓んだ?」

 そう尋ね返したユキちゃんに改めて、爪を観察される。

「なるほど。薄いだけやなしに、反ってるんや。で、剥がれるんやな」

 絆創膏の上から、もう一度キスをして。

「約束する。えっちゃんを傷つけるのは、これで最後」

 二度と、無茶せえへんから。

 そう呟いた、ユキちゃんの”約束”

 これだけは、信じられるようになりたい。

 心から、思った。



 ユキちゃんと”初めて”を交わしたこの夜。

 幸い両親も弟達も朝から父方の祖父の家へと帰省していて、私の外泊を咎める人はいなかった。

 終電を逃したことに慌てるユキちゃんに事情を話して、その夜は彼の部屋に泊めてもらった。 

 ユキちゃんの大きなパジャマを借りる。


「えっちゃんは、お祖父ちゃんのところ行かへんの?」 

「はい。三ヶ日にアルバイトを入れたから」

「お正月に? そんな仕事、あるん?」

「巫女さん?」

 夏祭りで行った学園町の厄神さんで、巫女さんの募集をしているのを、偶然、学生課で目にして申し込んだ。

「なるほど。えっちゃん、着物似合うもんなぁ」

 ふわぁー、とあくび混じりのユキちゃん。

 二人でくっついて、ひとつのお布団にくるまって。

「えっちゃん、寒ない?」

「大丈夫。ユキちゃんは?」

「えっちゃんが、温いから」

 なんだか、昔聞いた山陰のほうの怪談みたい。

 そんなことを考えながら、間近に見えるユキちゃんの泣き黒子に。

 お休みなさい。



 忘年会を早引きしたせいで、私のスキーの参加確認は保留になっていた。坂口さんに連絡を入れて、欠席にしてもらったのが、翌日の昼過ぎ。誰もいない家に、少しの罪悪感と供に帰ってから、だった。

 そして、その次の日から帰省したユキちゃんと、次に会ったのは冬休み明けだった。


「ユキちゃん、ピアス」

「うん。まだ、ファーストやねんけどな」

 彼の耳たぶに光る金色のピアス。

「ユキちゃん、遅くなったけど。クリスマスプレゼントにピアスを買ってもいい?」

「俺の?」

「はい」

 悩みに悩んだクリスマスプレゼントは、悩みすぎて何も渡せないままウヤムヤになってしまっていた。


 それでも年末のユキちゃんの部屋に泊まった翌朝。

 改めて、ユキちゃんに相談すると、

「ファーストキスどころか、昨日の晩、それ以上のモン貰ったから、クリスマスプレゼントはいらん」

 と言われた。

「それ以上って?」

「えっちゃんの”初めて”」

 ユキちゃんは、クリスマスに蒼い誕生石のイヤリングをプレゼントしてくれていた。それと、”初体験”が対等? 

 そう考えてしまった私の頭に、”売春”の二文字がよぎった。

「ユキちゃん。それはプレゼントじゃない。私は、”それ”をプレゼントにはしたくない」

 私がありったけの勇気を出して言った拒否の言葉にユキちゃんは、それはそれはうれしそうに笑って。

「今の『いやや』が、プレゼントでええ」

 そう言ってその話題はおしまいになった。


「ピアス、なぁ」

「はい」

 うーんとちょっと考える目をしながら、相変わらず食堂のテーブルを人差し指で叩いている。

 トコトコ コンココ トットコ トントン

 かすかな振動に、てんぷらうどんの表面が波打つ。おうどんを一口ツルツルと啜ったところで、ユキちゃんの手が止まった。

「それやったら、今度の休みに一緒に店、行こか」

「はい?」

「アレルギーを起こさんために、最初のうちは材質とか、気を付けたほうがええらしいから、俺も一緒に行って選ばして?」

「はい!」

 良かった。

 ユキちゃんが一緒に選んでくれたら。私の頼りないセンスの数倍、本人の着けたいのが買える。



 約束した日曜日の午後、西のターミナルで待ち合わせをして。

 改札へのエスカレーターを降りると、当たり前のようにいるユキちゃん。

「明日は、お天気?」

「ええ天気になるで。絶好のマラソン日和」

 外は、今にも泣き出しそうなのに。相変わらずそんなことを言ってみせる。

「あー。明日は体育……」

「やな」

 必須教科である一般教養の体育は、”教養”の範疇を越えた高校の体育の延長のような講義。マラソンと称して、グラウンドを走らされる。

「雨、降ってくれないかなぁ」

 改札を抜けて恨めしく空を見上げていると、

「それでもサボらんのが、えっちゃんのええ所」

 ユキちゃんは笑いながら私の手をとって、駅前のショッピングセンターへと歩き出した。



「ユキ」

 低い声に呼ばれたユキちゃんが、足を止めた。軽く手を上げながら、大きな歩幅で近づいてくる同じ年頃の男子。

「ジン。どないしたん?」

「ん、本屋」

 目の前に立つ『ジン』と呼ばれたその子の体格に圧倒される。

 ユキちゃんよりまだ背が高いし、肩幅もがっしりしている。

「ユキ、彼女?」

「そ。えっちゃん、いうねん。えっちゃん、うちのヴォーカルのジン」

「はじめまして。今田 (ひとし)です。Call me ”ジン”.」

 軽く腰を折るようにしながら、覗き込む彼に自己紹介をしようとして。

 は、と、声が掠れた。

 頭が貧血の前触れのように、サーっと冷たくなる。息が吸えない。


 倒れる……。


 ユキちゃんが右手で、抱き込むように支えてくれた。

「ジン、近寄りすぎ。えっちゃんの半径一メートルは、俺以外立ち入り禁止」

「なんだ? それ」

 頭の上で交わされる会話を聞きながら、胸元を擦って空気を通そうとしてみる。

 ハフッ  ハフッ  ハフッ


「えっちゃんの周りには、男入れたないの。ジンかて例外ちゃうで」

「おまえなぁ」

 ククククと笑う気配がして、ジン君の立つ位置が左にずれた。

 ユキちゃん側に一歩、ジン君がずれてくれて視界が広がる。広がった世界から、新しい酸素が流れ込んでくる。

 溺れかけた人のように、全身で息をする。

「また、明日な」

「ん。じゃぁな」

 そんな声に俯いていた顔を上げた。

 息はまだ、少し荒いけれど。

「悦子さん。近いうちにユキも出るようになるから。良かったら、ライブ聞きに来てやって」

 そう言い残したジン君は、曲がり角で軽く振り向いてヒラヒラと手を振ると、大きな歩幅で歩いていった。    



「どないしたん?」

 私の息が落ち着いたのを見計らったように、ユキちゃんが尋ねてきた。通行の邪魔にならないように、とコンビニの前の駐輪スペースに連れて来られていた。

 どうした、と言われても。自分でもわけが分からない。

 ただ

「なんだか、怖くって」

「怖い? ジンが?」

 説明のつかない怖さ、だった。

「大きい、って思ったら。体が動かなくなって……」

 息が詰まった。


「えっちゃん。手首どないした?」

「はい?」 

 しばらく互いに黙っていたら、唐突にユキちゃんが言う。

 手首?

 視線を手首に落とす。

 無意識に、右の手首を握りしめていた。その手を離した瞬間、フラッシュバックのようにいくつかの事柄が閃いた。


 電灯を背にしたユキちゃんの怒ったような顔。

 我が物顔で口内を蹂躙したキス。


 『振りほどいてみ? 跳ね除けてみ?』

 ユキちゃんの、怖い声。


 握り締められて、びくともしなかった

 両  の  手  首 


 忘年会のあの夜の。

 あの光景。


 ユキちゃんよりも、背も高くて体格のいいジン君。

 その厳然とした彼我の体格差が、あの日のユキちゃんの言葉と重なって、私の心の中に生まれた『逃げられない』という恐怖感。



「えっちゃん?」

 探るような、ユキちゃんの声。 

 でも、言えない。言ってはいけない。

「何か隠してるやろ?」

 黙って、首を振る。

「『違う』と、違う」

 嫌、です。

 さっきより激しく、首を振る。

「アカン。話して。何、隠しとる?」

 ユキちゃんは私の手をとると、見せつけるように右手の指輪を撫でる。

「な、えっちゃん。俺、これ以上の傷は増やさせへん、て言うたやん? 守るために、知っとかなアカンこともあるのと違うかな?」

 でも、これだけはダメ。

 言ってしまったら。

 ユキちゃんを傷つける。


 黙って立ちすくんでいる重苦しい空気を破ったのは、間の抜けたような自転車のベルだった。

「あのー、そこ、自転車止めてもいいですか?」

 困った顔の男子高校生に、私たちはコンビニの駐輪スペースにいることを思い出した。 

「あ、ごめんな。すぐ退くわ」

 顔の前に立てた右手で、軽く謝りながらユキちゃんが、私を促して歩き始める。


「えっちゃん。今日は、がんばって『嫌や』って言い続けたから俺も退くけど。そのうちに、ちゃんと話してな?」

 そう言ってユキちゃんは、私の手を引っ張るように青に変わった信号を渡り始めた。

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