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新生活の不安

 春、四月。


 私は楠姫城市の東部にある市役所への通勤が始まった。


 大学のあった”学園町”駅、は普通電車しか停まらないので、”西のターミナル”駅で乗換えをしていたけれど。市役所の在る”東のターミナル”駅は、当然のように快速電車が停まるので、思いのほか楽に通勤ができていた。


 それでも。慣れない環境で、新しい人間関係を一から築き上げるのは、やはり疲れる。

 疲れた頭で帰りの電車に揺られながら、夕闇に染まりかけた窓の外を眺める。


 飛ぶように流れて行く景色の中、見慣れた駅。

 あ、”学園町”を通過した。ユキちゃん、今日はバイトだったっけ。

 四年間で積み重ねた思い出に呼ばれるように、思わぬ拍子に彼の姿が浮かんできては……二人の行く末の不安に取り付かれる。


 卒業するときにユキちゃんを振る、なんてことはできるはずも無くて。ズルズルとなし崩しのように彼との付き合いは続いている。

 『嫌』と”言えない”からじゃなくて、”言いたくない”から、というのが、私の思いなのだけれど。

 ユキちゃんは、どう思っているのだろう。


 『四年も時間をやったのに、まだ、ちゃんと嫌やって言えへんの?』

 この四年で、浴びるように耳にしたユキちゃんの方言は、私の心の中で彼の口調が再現できそうなほど私と同化していた。

 呆れてる、だろうなぁ。


 いつまで、彼は私の隣にいてくれるのだろう。



 ゴールデンウィークの直前に、社会人なって初めてのデート。

 この日は、初めてのデートで行った水族館へ行く予定で、西のターミナルで待ち合わせをした。


「えっちゃん、痩せたのと違う?」

 いつもの様に一足早く待ち合わせの場所にいたユキちゃんは、顔をあわせるなり『おはよう』もなく私の顔を覗き込む。

「ええっと。そう?」

「うん。なんか、この辺が……」

 伸びてきた彼の手が、頬を包んで。首筋へと流れて行く。

「ほら、手ぇに骨が当たるやん」

「鎖骨に触れなかったら、太りすぎじゃないかな?」

 そこまで”おデブちゃん”じゃないと思うのだけれど。

「あ、分かった?」

 泣き黒子が、楽しそうに笑う。

「そやけど、ほっぺた、ちょっと痩せた感じやで? 仕事、きついん?」

 水族館へと向かうバスに乗るために、バスターミナルへと歩きながら手をつなぐ。 

「きつい、というか……まだ、慣れなくって」

「ああ、そうやなぁ。俺らと違って、周り知らんヤツだらけやもんなぁ」 

 つないだ私の右手の甲を、彼の手がカスタネットのようにトントンと叩く。

 これは、少し心配をしてくれているときのリズム。


 前に来たときには無かったアシカのショーや、ラッコの水槽を眺めてから、この日もタッチプールへと足を運んだ。

 さすがに少し肌寒い日だったせいか、屋上に設えられたプールの周りは閑散としていた。

「えっちゃん、今日はナマコ触ってみる?」

「……」

 恐る恐る差し出した手のひらに、ユキちゃんがナマコを乗せる。

「やっぱり、嫌」 

 直前で怖くなって、手を引っ込める。

 受け止められそこなったナマコが、トポン、と水音を立てて沈む。

「あーあ。かわいそうに」


「空気中に出すと生物が弱るので、水中で触ってあげてくださいね」

 通りがかった飼育員の人に注意を受けて、二人で謝る。

「ほな、えっちゃん。俺が持っとくから、撫でてみ?」

 お豆腐屋さんが絹こし豆腐を掬う時のような手つきで、ユキちゃんがナマコを手のひらに乗せる。ユラユラと揺らめく水面越しに、ブニョブニョしていそうなナマコの体が見える。

「噛まへんって。怖ないで?」

 ユキちゃんの笑いを含んだ声に背中を押されるように、そっと人差し指でつついてみる。

 あ、思ったよりも……。

 手を広げて、撫でてみる。

「な、平気やろ?」

「うん」


 お昼ごはんも、前に来たときと同じようにファストフードへ。

 五月の半ばにデビューの予定のユキちゃんは、卒業以来バイトで生活費を賄っている。初任給が出た私が出してもいいのに。

「彼女におごってもらうって、恥ずかしいやん」

 と、断られた。

「そやから、って、学生みたいにファストフードも情けないわなぁ」

 と言いながら、二人分のトレーを手に空いた席を探す。


「えっちゃん?」

 チーズバーガーを三口ほど食べたところで、ユキちゃんが何かを探るように、私の名前を呼んだ。

「はい」

 食べかけのハンバーガーをトレーに戻したユキちゃんが、じっと私の顔を見ている。

「なんか、悩んどる?」

「はい?」

「なんか、今朝会うてから、ため息多いで?」

 いけない。

 ユキちゃんといて、楽しいのに。ふとした瞬間に、この楽しさがいつまで続くのか不安になっていたこと、ユキちゃんにばれていた。


「悩んでは……」

 否定しようとした私の目を覗き込みながら、ユキちゃんの声が被さってきた。

「例えば……甲斐性のない俺と付き合っとるのが嫌になったり、とか……してるのと違う?」

 あまりの言葉に、ただ彼の顔を見返すしかできない。 

「世の中の女の子って、彼氏に色々買ってもろたり、ええ所連れて行ってもろたりしとるやん? 考えたら、俺、ほとんどそういうことして来んかったし。挙句に、えっちゃんに『ご飯、おごる』言わせとるし……」

「そんな、ユキちゃん」

「俺、えっちゃんに、釣り合っとうかなぁ」

 途方にくれたようなユキちゃんの声。


 ユキちゃんも、不安、なの? 


 その日の帰り道。

 相変わらず実家暮らしの私が鵜宮市へと帰るのとは逆に、ユキちゃんの住む”学園町”はここから三駅東。乗る電車の向きが反対になるので、今日のデートは駅の改札をくぐった”ここ”まで。

 私は『さようなら』を言おうと、互いのプラットフォームへ向かうエスカレーターの手前で足を止めた。

 そのタイミングを待っていたように私の手を掴んだ彼は、エスカレーターから数歩離れた柱の陰へと私を連れて行った。


「ユキちゃん?」

「ごめんな。不安定な仕事選んでもて」

 コツンと、つむじにユキちゃんが頭をぶつけた感触が伝わる。

 ユキちゃん、お昼からずっと一人で抱え込んでいたんだ。

 私のほうこそ、ごめんなさい。ユキちゃんに不安を伝染させてしまった。

「えっちゃん。俺、一日も早よ、売れるようにがんばるから」

 痛いくらいの力で抱きしめられる。

「絶対、えっちゃんの隣に胸張って居れるようになるから」

 待っとってくれるかなぁ 

 耳元で聞こえたささやき声は、いつにない気弱な響きを含んでいた。


 

 互いに不安に巻かれたまま、織音籠(オリオンケージ)はデビューの日を迎えた。 


 確かに、ユキちゃんの言うように。

 デビューしたからと言って、すぐに売れるわけではないらしい。彼らは地道にアルバイトで生活費を稼ぎながら、活動をおこなっていた。


「ごめんな、今日もこんなデートで」

 ユキちゃんが垂れ気味の目じりを下げながら、頭も下げる。

 世間は、梅雨。今日は、朝から雨の土曜日。

 市役所は休みなので、ユキちゃんのバイトまでの時間、彼の部屋へと訪ねて来ていた。

 お昼ごはんも、駅からここに来るまでに買ってきた材料でお好み焼きを作ってみることに。

「ううん。いいの」

「そやけど」

 お好み焼きには一家言あると言う、ユキちゃんの指示に従ってキャベツを大量に刻む。

「あのね。ユキちゃん。大学だったら、ずっと一緒にいられたでしょう? 社会人になって、会える時間が減ってしまったから、会えるだけでも貴重なの」

「えっちゃん!」

「ユキちゃん、包丁! 包丁!」

 いきなり抱きついてきたら、危ないよ。

 包丁をまな板の上に置いて、横から抱きついた姿勢で固まっているユキちゃんの背中を左手で軽く叩く。

 タム  タム  タタタム  タム  タタタム


 ポム  ポポ  ポムポム  ポポム ポム

 返事をするように、ユキちゃんの右手が私の頭の上で弾む。


 外界から雨に閉じ込められたような部屋の中。

 ユキちゃんの息の音だけが聞こえた。



 『”織音籠のYUKI”としての生活よりも、”フリーターの小島和幸”である時間のほうが、はるかに長い』と自嘲気味に彼が言っていたのは、卒業からどのくらいの期間だっただろう。


 デビューの翌年、ジン君の大学の先輩に当たる人がローカル局のラジオパーソナリティーになったのをきっかけに、彼らの名前が電波に乗るようになった。”先輩”が事あるごとに、自分の番組の中で織音籠の宣伝をしてくれていたらしい。

 残念ながら、平日の夕方の番組で、私が生でその放送を聴くチャンスには恵まれなかったけれど。


 卒業前にユキちゃんが言っていた、”足場”が少し固まりだして。彼らは、もう一歩高みへと飛び立つ準備を始めた。



「えっちゃん、久しぶり」

「ゆりちゃん」

 四年の学園祭以来、になるのか。久しぶりにゆりちゃんと会った。


 今夜は、織音籠がワンマンでライブを行っていて、”他の彼女”も来ないから、とユキちゃんに誘われるまま、ライブの後の楽屋を初めて訪ねた。

 初めて目にする、ライブ直後のユキちゃん。全身から湯気が上がっているような錯覚を覚えるほど上気して、いつもより口数も多い。

 それは、他の誰もが同じで。いつもみんなより一歩大人な雰囲気のマサ君まで。

「ねぇ、ゆりちゃん」

「どうしたの?」

「なんだか、マサ君がいつもより幼くない?」

「ああ、音楽馬鹿だから。仕方ないわ」

「そうなの?」

「そうなの。まっくんは音楽を食べて生きているから」

 既に生き物じゃないのよー、と言って笑っている ゆりちゃんは、黙ってマサ君の手元にペットボトルのお茶を差し出す。

 それを当然の顔で、受け取って口をつけるマサ君。

 相変わらず、夫婦、だ。


 高揚した空気に当てられたようにボンヤリしていると、右肩に手のひらの感触。

 タム  タム  タム タム  タタム  タム

「ユキちゃん」

「どないしたん? 大丈夫?」

「うん」

「しんどかったり、せぇへんな?」

「うん、大丈夫」

 そう、返事を返したのに身をかがめたユキちゃんが耳元でささやく。

「みんな、アドレナリン放出しまくっとるから、多分、めっちゃ”男”の状態やけど。ホンマに大丈夫やねんな?」

「テレビゲームに集中しているときの弟たちと変わらないから、大丈夫」

「そうなん? さすが、お姉ちゃんやな」

 クスリ、と笑いを零して彼が後片付けの手を動かし始める。


 羽ばたきを始めたユキちゃんの隣。

 まだ、私は居ることを許されている。

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