卒業
経済大での学園祭も終わって、織音籠に二枚目のCDを出す話が持ち上がってきている頃。
この日も就職課に足を運んだ私は、ひとつの職業に気がついた。
地方公務員。
なぜ、今まで気づかなかったのか。
なぜ、その職業に意識が引かれたのか。
自分でも説明のつかないことだけれど。
過去の就職状況のデータが収められたファイルを眺めていて、『これだ』と確信した。
私の進む道は、これだ。と。
目標が定まって、冬休みは採用試験に向けた勉強のために費やす。
もう少し、早めに始められたなら……と、反省もするけれど。とにかく最善を尽くす、”努力”を。
そして迎えた四年の夏。
私は大学の在る市への採用が決まった。
「えっちゃんは、公務員かぁ」
「らしいと言えばらしいよな。堅い仕事で」
ヨッコちゃんや広尾君にそんなことを言われながら、訪れた西隣の県のペンション。
今年もここで、夏の合宿が行われている。
四年生になった私たちは、かつての先輩たち同様、差し入れを持っての陣中見舞いに来ていた。
差し入れのジュースに歓声を上げた後輩たちが一通りジュースを手にしたところで、一人の二年生の女子が、尋ねてきた。
「あの、きょうはYUKIは……」
「えっちゃん?」
木下君、私に振らないでください。
「ライブ、じゃないよね?」
亜紀ちゃんの言葉に、頷く。
「打ち合わせ、と」
正確には、春からお世話になる事務所との打ち合わせ、があると言っていた。
「そうですか」
すごすご、といった様子で友達の方に戻る彼女を、私達は黙って見送る。
「相変わらず、野島効果はすごいな」
残った缶ジュースを一つの袋にまとめている私の横で、自分もコーラを開けながら木下くんが呆れたような声をだす。
去年も、二十人近い新入生がサークルに入った。今年はさすがにユキちゃんが四年生で、ほとんど顔を出さないだろうから、と、若干少なめではあったらしいけれど。それでも今年の合宿は、ここのペンションの定員ぎりぎりだったらしい。
「野島君、去年も滅多に出席しなかったのにね」
合宿は夏も冬も欠席で、飲み会は……納涼会と忘年会だけ、だったかな? ああ、いや違う。この春の追い出しと、新歓も出ていたっけ。
「ほとんど、ツチノコかイエティか、ってな」
恭子ちゃんの言葉に、木下くんがひどい例えをだす。
出席しないユキちゃんにめげず、後輩たちは飲み会のたびに『YUKIは?』『来ないのですか?』と尋ね、たまにユキちゃんが出席したなら、まとわりついて離れない。
「そういえば。野島、デビュー決まったって?」
オレンジジュースのプルタブを開けようと苦戦している私に、広尾君が尋ねてきた。
「はい。来年の春頃、みたいで。今日も、その関係の打ち合わせって」
「じゃぁ、えっちゃんたち遠距離になるの?」
隣にいた亜紀ちゃんが、会話に混ざってきた。
「どうだろう? このまま、こっちに居るようなことも言っていたのだけれど」
東京は物価が高いし。何より、空前の好景気と言われているこの景気が、いつまで続くか判らないからと、ユキちゃんは言っていた。確かに、『降り止まない雨がないように、下落しない好景気も存在しない』と、私達が所属するゼミの教授が、雑談の中で言っていた。
マーケット戦略的にも地元に居る方が……と、言ってたのは先週のこと。それを聞いて初めて、ユキちゃんがマーケティングとか経営学とかの講義に重点を置いて履修していたことに気づいた。
いつから、彼はプロになる日を視野に入れて、準備をしてきたのだろう。
ぼんやりと履修を決めて、それなりに講義を受けていた自分との、四年間の積み重ねで生まれただろう差に愕然とした。
「えっちゃん?」
「はい?」
「大丈夫?」
「ええと。はい」
ああ、話の途中で、つい。物思いに浸ってしまっていた。
ヨッコちゃんの声で我に返った私は、慌ててプルタブにかけていた指先に力をこめる。
「痛っ」
「えっちゃん?」
右手の人差し指を見る。
あーあ。やってしまった。
ジワジワと、爪の先に血が滲んでくる。
「切った?」
心配そうに覗き込んでくるヨッコちゃんに、傷ついた指を吸いながら首を振る。
「ひゅめ、はがひてひまっへ」
「え?」
「爪、はがしてしまって」
口から指を出して、言い直す。うーん。血が止まらない。ペンションの人に、救急箱を借りられるかな?
「手当て、してもらってくるね」
ついて行く、と言ってくれるヨッコちゃんにお礼を言って、二人でペンションへと向かった。
「えっちゃんは、もしも野島君と遠距離になっても平気?」
指先に消毒液を吹きかけながら、ヨッコちゃんが尋ねてくる。
「ええっと……」
不安は、やはりある。
ユキちゃんと出会ってからの、この三年半。一月以上、離れていた試しは無いし、何よりも”芸能人”になろうとしている彼の隣にいるのに私はふさわしいのだろうか。
”身の程”をしるから。早晩、つりあわなくなるのは、目に見えていた。
「世の中の人たちは、どうやって乗り越えてるのかなぁ」
絆創膏を救急箱から取り出しながら、ヨッコちゃんがつぶやく。
会話になってない、気がする。
「ヨッコちゃん? どうしたの?」
「あのね……」
『ナイショにしてたけど』と、前置きをして彼女が話してくれた内容に、爪の痛みも吹き飛んだ。
ヨッコちゃんが、広尾君と付き合っていたなんて!
「知らなかった……」
「うん。えっちゃんたちが、ベタベタに仲がいいから。少々、くっついていても誰も、気づかなかったわね」
そうか、広尾君と。
「私は、地元の企業に内定を貰ったけど。彼は、全国展開をしている会社だから、どうしても転勤があるみたいで」
救急箱を片付けながらヨッコちゃんが、ふっとため息をつく。
貼ってもらった絆創膏の上から、爪をなでながらそんな彼女の憂いを含んだような横顔を眺める。
「広尾君は、どう言っているの?」
黙って首を横にふるヨッコちゃん。
「何も」
「何も?」
「うん。どうするのか、も、どうしようか、も無くって」
「そうなんだ」
なんだか、私もため息をついてしまう。
「えっちゃんのところは、そんなこと無いでしょ?」
今度は私が、首を振って彼女の言葉を否定する。
「野島君も?」
「はい」
「そうか。野島君でも、そこまで気が回らないなら、仕方ないのかなぁ」
そう言って、立ち上がったヨッコちゃんは、『救急箱を返してくる』とダイニングから出て行った。
私もゴミを捨てて、立ち上がる。
廊下に出て、思い出した。
ここの廊下だった。三年前、ユキちゃんと付き合う、きっかけは。
『卒業までに、俺を振れるようになり』
あの日のユキちゃんの言葉を思い出す。
卒業まで、残り半年。
彼は、もう。
終わりにするつもり、で、何も言わないのだろうか。
結局、ユキちゃんたち織音籠は、このまま地元をメインに活動をしていくことに決まった。
「デビューして、即、人気爆発、なんてわけないやん」
今日もユキちゃんは、ファストフード店のテーブルを指先で叩きながら、アイスコーヒーを飲んでいる。
気がつけば私も、すっかり彼のこの癖に慣れてしまった。
慣れたどころか、なんとなくだけれども。リズムで、彼の機嫌もわかるようになってきた気がする。
今日は、かなり上機嫌。
「そう?」
「当たり前やん。俺らのこと知っとるの、このあたりの人間だけやもん」
「ふーん?」
相槌を打ちながら、私もオレンジジュースに口をつける。
「そやから。まずは足場を固めてやな……」
垂れ気味の目じりをさらに下げるようにして、ウキウキと未来を語るユキちゃん。
ねぇ。ユキちゃん。
あなたの語る”未来”に。
私の姿は、あるの?
いったい、どうなるのか。どうなっていくのか、まったくの闇に閉ざされたように思える卒業後の世界。
嫌だ、嫌だと思っていても、夏休みが終わってしまうように。
時は無情に過ぎていく。
卒業を目前に控えた二月の終わり。
織音籠は、総合大の講堂で特別に卒業ライブをさせてもらうことになった。
「マサ君、ゆりちゃんは来れそう?」
ライブまで後一週間、という土曜日。『練習の後でご飯、行こ?』と言うユキちゃんと、スタジオのロビーで待ち合わせていた。
まず最初に部屋から出てきたのが、マサ君だった。
「由梨は、国家試験の直前だから。来ないな」
マサ君は、飄々と言いながら背負ったギターケースをゆすり上げる。
確か『忙しくって、なかなかライブに行けない』と、ゆりちゃんが言っていたのは去年の学園祭の頃だったけれど。
「ずっと、忙しいんだ」
「まぁな。人の命を預かるんだし」
「マサ君は寂しくないの?」
マサ君が『寂しい』と言ったからといって、ユキちゃんが『えっちゃんに会えなくなったら、寂しい』と言ってくれるわけではないけれど。
夏から、ずっと心の底にこれからのユキちゃんとの先行きに対する不安がとぐろを巻いている私は、つい、訊いても仕方の無いことを尋ねてしまった。
私の質問に、窓の外を眺めるようにしばらく考えたマサ君は
「アイツの夢を邪魔したら、一緒に居られなくなるからな。少しの間の我慢ぐらい、一生のことに比べたら」
そう言って、やわらかく笑った。
はぁ。
さすがは、”夫婦”の ゆりちゃんとマサ君。
『一生のこと』を考えられるなんて。同い年のはずなのに。どうして、そんなに大人なんだろう。
「えっちゃん、お待たせー」
「ユキちゃん」
後ろから、ムギューと擬音を入れながら抱きつかれた。
「MASAと、何の話をしとったん?」
つむじにグリグリと頭を押し付けられる。
「由梨が忙しい、って話」
「ああ。そう言えば。最近、ゆりを見ないな」
私の代わりに答えたマサ君に、後ろから、ジン君の声もする。
「国家試験の前だからな。俺も電話で声を聞くくらいだよ」
「結局、彼女とラブラブできてるのは、YUKIだけかよ」
マサ君と並んだサクちゃんが、唇を尖らせるように文句を言う。その言葉に、私の前に回ってきたジン君が咽喉の奥で笑いながら、突っ込んだ。
「SAKU、お前『ラブラブ』って」
「悪いかよ」
「死語だろうが」
「俺が蘇らせてやるぜ」
にやりと笑いながら、サクちゃんがガッツポーズをする。
「No.Thank you.だな。誰が歌うと思っているんだ」
「お前しかいねぇよ」
ギャイギャイと、騒ぎたてる彼らをマサ君が諌める。
「よう、悦子さん。久しぶり」
一足遅れて、リョウ君が現れた。
ユキちゃんから聞いていたけれど。メタルのハーフリムだった眼鏡が、光の加減でパープルに見えるフルリムに変わっていた。
デビューが決まった時に実家のお父さんに殴られて、眼鏡が壊れたらしい。
それでも何とか説得をして、全員そろって春のデビューが迎えられることになった。
「はい。お久しぶりで」
「相変わらず、仲いいな」
そう言ってリョウ君が目を細めるように笑うけれど。
本当に、『相変わらず』? 『仲いい』?
「うらやましいやろー。お前らみたいに、”彼女”を、とっかえひっかえしてへんもん」
「MASAだって、してねぇぜ?」
サクちゃんの言葉を笑って誤魔化したユキちゃんに、操り人形のように歩かされて玄関へと向かう。
「じゃぁ、悦子さん、またな。卒業ライブ、楽しみにな」
道を明けながらのリョウ君の言葉に会釈を返して。
そのまま私たちは、スタジオを後にした。