未来への焦り
三年生になって、ちらほらと就職の話題が出てくるようになった。
本気でプロになることを目指しているらしいユキちゃんたち織音籠は、夏休みにインディーズからCDを出すことが決まった。
それをきっかけにして、《JIN》《RYO》《MASA》《SAKU》《YUKI》と互いに呼ぶことになったと笑っているユキちゃんに、あいまいに頷いて見せながら、なんだか一歩、ユキちゃんが遠くなるような不安が沸き起こる。
しっかりしないと。置いていかれる。
そう、自分に言い聞かせながら、私も夏休み明けから就職課で情報を集める。
世の中は、空前の好景気。近年、男女雇用機会均等法なんて法律もできて、大学に集まってくる求人情報の華々しさに見ているだけで……めまいがしてくる。
私は、何がしたいのだろう? どうなりたくって、この大学を選んだのだった?
ため息をつきながら求人票を漠然と眺めるだけで、日が過ぎて行く。
「えっちゃーん」
『練習の前に一度アパートへ戻るから』と、ユキちゃんが一足先に帰ってしまったある日。その日も、少し求人を眺めてから、駅へと向かう道を歩いていた私は、後ろからかけられた声に振り向いた。
「あ、ゆりちゃん」
「ひさしぶりー」
手を振りながら、歩み寄ってきたゆりちゃんと、駅前のドーナツショップでお茶をすることになった。
「あれ?」
お店の外からは気づかなかったけれど、店内ではジン君とリョウ君が仲良く座っていた。
「ジンくん、亮くん」
ゆりちゃんがテーブルに近づいて、声をかける。
「お。ゆり、と悦子さん」
ジン君が目で笑いながら、片手を挙げて挨拶をしてくる。その向かい側に座ったリョウ君もテーブルに置いていた眼鏡をかけてから、にっと笑った。
彼らに会釈をしている私の横で、店内を見渡していた ゆりちゃんが尋ねる。
「まっくんは?」
「練習の時間まで、図書館でレポート書いてるってよ」
「ふぅん」
そんなリョウ君の答えに、ちょっとだけ ゆりちゃんが寂しそうな顔をした。
「ゆり達も、ここ来るか?」
「お邪魔してもいい?」
「ん、どうぞ」
ジン君が立ち上がってリョウ君の隣に移動したので、四人がけの席で彼らと向かい合って座ることになった。
ドーナツとコーヒーを買って、席に戻る。
他愛ない世間話をしているうちに、今年の総合大での学園祭の話になった。
「今年はな。ステージ、トリだぜ」
自慢げに胸を張りながら、リョウ君が言う。
うわぁ、すごい。
トリって、一番、実力があるって認められたということだよね。
そのうえ。
「さっき、実行委員から話が来たところの、取れたてホヤホヤの情報」
リョウ君がジンジャーエールらしいジュースのストローに口を付けながら、付け足す。
ということは……。
「まっくんやユキくんも知らないんだ?」
「俺も、今聞いたところ」
ゆりちゃんの言葉に、ジン君が咽喉の奥で笑いながら付け足す。
そうか。ユキちゃんよりも早く、聞いちゃったんだ。
ユキちゃん、このこと聞いたら、多分すごく張り切るんだろうな。
そうかぁ。また一歩、進んで行くんだ。
時間だから、と立ち上がったジン君たちを見送って。
ゆりちゃんと、二人っきりになった。
「えっちゃん、最近はライブ行ってる?」
「ええっと、時々?」
「そっかぁ。良いなぁ」
「ゆりちゃんは?」
「学校が忙しくって。前に行ったの、いつだったっけ」
「じゃぁ、学園祭、楽しみだね?」
「それもねぇ。総合大だけなのよね、行けそうなのが」
「そうなの?」
「うん、病院実習が入っちゃった」
口を尖らせながら、アイスティーを混ぜている。
「看護婦さんになるのって、やっぱり大変なのね」
「うーん。覚悟はしてたけどね」
看護大学に通う ゆりちゃんは、マサ君と学校も違うし。ゆりちゃん、大変だなぁ。
「寂しく、ない?」
「ちょっとだけ、ね。まっくんが音楽をやりたいのと同じで、私が看護婦になりたいのは、昔からの夢だし」
そうか。ゆりちゃんは、ちゃんと夢に向かって努力をしている。ユキちゃんたちと同様に。
私一人、置いていかれている。
”織音籠の隣”に、いつまで私は居ることが許されるのだろう。
”ユキちゃんの隣”は、いつまで私の居場所であってくれるのだろう。
悶々と考えているだけでも日は過ぎて。
気がつけば、来週は総合大の学園祭の日になっていた。
「えっちゃん、来週ヒマ?」
突然休講になった二時限目。学食で缶コーヒーを飲んでいると、思い出したようにユキちゃんが言い出した。
「来週って?」
「総合大の学園祭の日。その日だけ、ゆりさんがステージを見に来れるらしいから、また皆で飲もうかって」
ああ、そう言えば。この前ゆりちゃんも、そう言っていたっけ。
「みんなって……」
リョウ君はトミさんと別れたらしいけれど、次の彼女がすぐにできて。また、その子もトミさんみたいな子だとか。サクちゃんは、室谷さんの後、何人の彼女がいたのかユキちゃんも数え切れていないとか。
聞くとも無く聞こえてくる、そんな話に出てくる”彼女”たちも来るのかな?
「ああ、ゆりさんとメンバーだけな。場所も、俺の部屋」
ああ、良かった。なんて思っているから、いつまで経っても成長できない、のかもしれない。
「で、都合、どない?」
「バイトも無いので、大丈夫」
「ステージの後やから、ツマミは乾き物と”JINの炒飯”だけやねんけど」
「うん」
「えっちゃんも、そろそろ飲んでみる?」
一年以上の練習の結果、缶ビールを二本と少しなら大丈夫なことが分かってきた。グラス換算が、まだまだ難しいけれど。
「無理そうだったら、途中で助けてね?」
「あたりまえやん」
トントコトントン トコトコ トントン
相変わらず両手の人差し指でテーブルを叩きながら、ユキちゃんが頷く。
社会人になったら、飲み会のたびにユキちゃんに助けてもらうわけにもいかない。
あ、それ以前に。接待とか……あるのよね?
ああ、ダメだ。
社会に出た自分が、仕事や人間関係をスムーズにこなしている姿なんて、欠片も思い浮かばない。
今日もユキちゃんにあけてもらった缶コーヒーを握りながら、心が物思いに沈んで行く。
〈 今まで歌ってきた曲は、俺が詞を書いてMASAが曲をつけているのですが。次の曲は…… 〉
ステージ上のジン君が、客席を見渡すようにして言葉を切る。
総合大の学園祭。
ステージの大トリを務める織音籠に、この日もあちらこちらから歓声が飛び交う。『JIN』『RYO』に混じって聞こえる『YUKI』の声に、心がチクチクする。
夏に出たCDがそこそこ評価を得ているとかで、ライブのお客さんも増えたらしいけれど。
遠い、なぁ。ユキちゃんが。
飛び立つ準備をしている、彼らの足元までが遠い。
〈 SAKUが初めて詞を書きました。曲はRYOで 〉
スルリと、耳に流れ込んできたジン君の言葉。
ん?
ステージ上では、サクちゃんが珍しく客席に背中を向けている。向かい合うようになったユキちゃんが、『シッシッ』と、虫を払うようなしぐさで笑っている。
ああ、そうか。去年サクちゃんたちが言っていた”宿題”。完成したんだ。
ユキちゃんのカウントで曲が始まる。
ジン君の変わらぬ声のパワーが、私のいじけたような心を融かす。
負けるな、負けるな、と。
立ち上がれ、飛びたて、と。
ユキちゃんの隣に居続けるなら。
”私が”、がんばらなきゃ。
その日の夕方から始めた”打ち上げ”で、私は久しぶりにユキちゃん以外の人が居るところで、お酒を口にした。
去年、彼らと初めて一緒にご飯を食べてから、こうやって食べたり飲んだりする機会が何度かあったけれど。
相変わらず、ゆりちゃんとマサ君は仲良く、ビールを分け合って飲んでいる。そんな彼らを『夫婦みたいだ』と、からかいながらジン君はウーロン茶を飲んでいる。彼は、咽喉をつぶしたくないから、とアルコールは口にしないらしい。『酒もコーヒーも、一生分飲んだから』と言って、ジン君は咽喉の奥で笑っていた。
そうか。彼らは漠然と、『プロを目指す』なんて、言っていないんだ。
意識して咽喉を守る生活をしているジン君。作詞のための準備を日ごろから積み重ねているサクちゃんやジンくん。常に体内から溢れ出すリズムを刻み続けているユキちゃん。法学部のリョウ君は、自分の講義だけじゃなく、音楽理論の学科に居るマサ君の授業にまでもぐりこんで、作曲の勉強をしているとか。そして、マサ君は、ゆりちゃんに言わせると、『暇さえあれば楽器を弾いてる 究極の音楽馬鹿』らしいし。
五人分の努力が縒り合わさって出来上がる織音籠なのだから。並大抵の努力だったら、置いていかれるのは当たり前じゃない。
缶ビールに口をつけながら、今日のジン君の歌を反芻する。
がんばる前から、負けてちゃいけない。
立ち上がらなきゃ。飛び立たなきゃ。
”ジン君炒飯”をツマミにしながら、思い出したように飲んでいたはずのビールが、空になった。
新しいビールを手に取る。
ユキちゃんは、ジン君とおしゃべりに夢中だし。
えい、今のうちに。プルタブをあけてしまおう。
「えっちゃん。貸してみ?」
あーあ。見つかってしまった。今日は、一度で開けることができなくって、三度ばっかり空振ってしまっていた。
「ユキちゃん、大丈夫だから」
次は、開けれそうな気がする。
「俺が怖いから、アカンって」
有無を言わさず缶が取り上げられて、あっさりと開けられる。
「これで、最後にしとこな?」
手渡された缶を、ちょっとほてり気味の頬に当てる。ひんやりして、気持ちいい。
この一本は、ゆりちゃんみたいに、ゆっくりと飲もう。
「うん。ありがとうね。ユキちゃん」
ユキちゃんの手が、頭の上で跳ねる。
ポーム ポムポム
私の右隣で、落花生を割っていた ゆりちゃんが、
「ユキくん、怖いって何が?」
と尋ねながら、割った中身をマサ君の前にバラバラと置く。マサ君はといえば、当たり前のような顔で薄皮を落として、口に入れる。
うーん。やっぱり夫婦だ。
ゆりちゃんたちの”当たり前”に、当てられている私の右手を、テーブルに体を乗り出したユキちゃんが取る。
「ゆりさん、えっちゃんの爪、見たってくれる? 薄いし反ってるし。この爪でカツンカツン、プルタブやっとんの見たら、いつ剥がれるか割れるか、ってケツの穴きゅーっ、てなんねん」
私の手が、ユキちゃんから、ゆりちゃんへと手渡されて。ゆりちゃんにしげしげと眺められる。
「わー、本当。子供の爪みたい」
「やろ? 俺の精神衛生上、悪いから、プルタブは俺に開けさしてって、頼んでんねんけどな。気ぃついたら、自分でカツンカツン」
イヤー、と、身を捩るユキちゃん。『考えただけで、鳥肌が出る』と、いつだったかも言われたっけ。
そんなユキちゃんを、隣に座っているサクちゃんが、『惚気んな』と、つついている。
ふっと、落花生を割る手を止めたゆりちゃんは、両手を払って神妙な顔で座を見渡す。
男の子たちは、そんな彼女の変化に気づかず、ワイワイとはしゃいでいる。
「サクちゃん、ごめんね」
突然の ゆりちゃんの謝罪に、会話がぴたっと止まる。
「ゆりさん、何?」
「彼女、連れて来たかったんじゃない?」
「ああ、来週の打ち上げには参加するから、気にしなくっていいって」
目じりにしわを寄せるように笑ったサクちゃんが、スルメに手を伸ばす。
ゆりちゃんは、それでもどこか居心地悪そうに、ビールのグラスをこねくり回している。そんなゆりちゃんを、心配そうにマサ君も見ているのだけれど。
見ているだけ? なの?
そんな二人に、助け舟のように口を開いたのがリョウ君だった。『今日は、織音籠ファンクラブ名誉会員のゆりと悦子さん、限定ご招待の打ち上げ』だと。
「ファンクラブ、いつできたわけ? それに名誉会員ってなによ」
息を吹き返したような ゆりちゃんの言葉に、一気に会話が戻る。
「名誉会員はサッカーで言う、『十二番目の選手』やな」
「それとか、あれだろ。織音籠の誕生前からのファン」
ユキちゃんとマサ君の言葉が、くすぐったくって。ゆりちゃんとつい、顔を見合わせてクスクス笑う。
そっかぁ。私”名誉会員”で、”サポーター”なんだ。
私は、織音籠の隣に居ることが許されている。
その事実に恥じないように。
自分の道を探そう。