夏のできごと
あの日、店を出たところで、ユキちゃんは二人に頭を下げた。『ありがとう。えっちゃんに友達ができた』と言って。
「ユキ。お前、どこまで過保護なんだ」
呆れたようなマサ君の声が、心に刺さる。
私は、やっぱり幼いなぁ。
彼氏に友達の心配までさせるなんて、情けない。
なのにユキちゃんは、マサ君の言葉に晴れ晴れとした顔で笑うと、きっぱりと言い切った。
「俺の全力。守れる限り」
と。
この一年、たくさんユキちゃんに守ってもらってきた。
今の私は、ユキちゃんに全力で守られている半人前。
それが私の”身の程”で。それを知った。知ることができた。
だったら、ユキちゃんに釣り合うために必要なことは、守られなくっても大丈夫なように、成長すること。
その決心を胸に、納涼会に参加した。
今年は、一年生が二十人!? それも、妙に女の子が多い。
「ヨッコちゃん。今年は急に、人数が増えたのね?」
今日は右隣にヨッコちゃん。左隣にいたユキちゃんは、乾杯するなり三年生のところに呼ばれている。
「野島君 効果」
「ユキちゃん?」
「ゴールデンウィークにライブがあったでしょ? あの後、ガバっと人数が増えたみたいよ」
四月の勧誘では私もチラシを配ったりしたけれど、新入生は五人ほどだった。それが織音籠のライブの後、サークルにユキちゃんが所属していると口コミで広がって一気に新入生が増えたらしい。
「新歓コンパのときは、人数が少なかったから、会費が楽で良かったよな」
ヨッコちゃんの正面に座った広尾君が、から揚げを摘みながら肩をすくめて見せる。
「この人数を、上級生だけで割り勘したくないよな」
正面の木下君もそう言って、枝豆を豪快に鉢から握り取った。
「あの」
小さい声が左から聞こえた。
ばっちりとメイクを施した一年生が、ビール瓶を両手で捧げるように持って、空いていたユキちゃんの席にいた。
「はい?」
「ユキの彼女って、本当ですか?」
そんなことを尋ねながら、空いている私のグラスにビールを注ごうとする。
「あ、ごめんなさい。私、飲めないので」
「あの、でも。泡が……」
乾杯のときに、『形だけ』と入れられたビールの泡の名残が、うっすらとグラスに輪を残していた。
「ええっと、あの。これは」
「野島が飲んだんだよ」
木下君が助け舟を出してくれた。
「酒を飲めないカノジョの分を片付けてったんだよ。無理に飲ませたら、後が怖いぞ」
「そう、なんですね」
ショボンと、しおれる一年生。
かわいいと言うか、かわいそうと言うか。
そんな彼女に、木下君と、その隣の総合大の男子がグラスを差し出す。
「野島以外にも、男は居るって」
「ほら、ここにも、かわいそうな独り身が」
おどけたように言う彼らに、くすくす笑いながら一年生がビールを注ぐ。
「夏の合宿、行くの?」
「はい。二泊でしたっけ。楽しみです」
「ご飯もおいしいし、きれいなペンションで……」
『ユキの彼女』から合宿の話へと話題が移ったことに、ほっとして。取り皿を手にした私と、木下君の目が合った。
「野島に、貸し、な」
私だけにかろうじて聞こえるような声でそう言った木下君は、一年生に向き直ると、彼女のグラスにビールを注いだ。
「えっちゃん、大丈夫?」
やっとユキちゃんが戻ってきたころには、かなり皆が出来上がってきていた。席もグチャグチャの無礼講。
「はい。今日は」
「ちゃんと、酒、断ってたよ。な?」
広尾君がユキちゃんに報告しながら、焼き鳥の串を手に取る。
同じ二年生からはお酒を勧められることは無かったし、たまに現れる一年生も何とかやり過ごせた。
「がんばったんやな、偉い偉い」
頭のうえで彼の手が跳ねる。
ポムポムポポポム。
『今年の夏祭りはどうしようか』『帰省はいつ?』そんな話をヨッコちゃんたちとしていると、私の正面に、今度は一年生の男の子が来た。木下君は、三年生の坂口さんのところへ行ったまま戻ってきていなくって、席が空いていた。
「野島さん、一杯どうぞ」
さっき運ばれてきたばかりのビール瓶が、ユキちゃんに差し出される。
「ゴールデンウィークのライブ、行きました」
「ホンマ? ありがとうな。今度、またあるから、よろしく」
「はい。行かせて貰います」
そんな会話を交わしながら、互いにビールを注ぎあっている。
ヨッコちゃんの言う『ユキちゃん効果』なのか、やってくる一年生がみんなユキちゃんを話題にする。
こうやって、一年生を虜にした織音籠のライブ。私も、見に行きたい。見てみたい。そろそろ、行っても大丈夫かな?
今度のライブ……いや、無理をせずに、学園祭までまったほうがいいかな?
「灰島さん、でしたっけ?」
名前を呼ばれて、物思いから覚めた私の前に、ビール瓶が差し出される。
「どうぞ」
目で、グラスを取るように促される。
「おい」
口を挟もうとしたユキちゃんの手を、きゅっと握る。
私の顔を怪訝そうに見たユキちゃんに、一度笑って見せて。
「ごめんなさい。飲めないので。他の方に」
「またまた、ご冗談を。そんなこと無いでしょう?」
「いえ、本当に。飲めない体質で……」
グラスに手で蓋をしたところで、一年生が諦めたように瓶をテーブルに戻した。
ほら、がんばれたでしょう?
もう一度見たユキちゃんが、うれしそうに笑って私の手を握り返してきた。
くーっと、ビールを飲み干すと、グラスをテーブルに戻す。タン、と心地よい音がする。
ココ、コンコン
軽くテーブルを叩く指の音。
「えっちゃんの分、俺がもう一杯貰ってもええ?」
グラスを差し出したユキちゃんに、一年生がビールを注ぐ。
ついで貰いながら、ユキちゃんが相手の子に言い含めるように話し始めた。
「あんなぁ、嫌がっとる相手に酒を無理強いしたらアカンよ。大人やねんから」
「はぁ」
突然のお説教に、一年生はあいまいな返事をする。
「楽しんで飲んだほうがええやん? お互いに。それに、お酒の神さんにも失礼やし」
「なんだ、それ」
いつの間にかユキちゃんの正面に来ていた三年生が、手酌でビールを注ぎながら話しに混ざってきた。ついでのように『えっちゃん、小エビを山盛り入れてくれ』と、頼まれて、新しい取り皿を手にする。
「日本酒って作る時に、お清めをするやないですか」
「へぇ。そうなの?」
私の前の大皿から小エビのから揚げを取り分けながら、つい、私も話に参加する。
「あれ? 知らん?」
「はい」
「小学校の社会見学で、酒造工場に行かんかった?」
『行ったやんな?』と尋ねられた一年生が横に首を振る。私も行ったことが無い。
「普通、小学校では行かないだろ?」
リクエストどおり、小エビを山盛りにした取り皿を手に、三年生も苦笑いをしている。
「あれ? 俺のところでは、行ったけど」
「お前、灘五郷の近くだからだろ?」
「あー、そうなんや」
ユキちゃんの出身地は、市内に酒造メーカーの集まっている一角がある日本有数の酒どころらしい。
「まぁ、ええわ。とにかく、お酒は作るのに神さんにも助けてもらってるのやから、粗末に飲んだらアカンって話です」
そう話を締めくくって、おいしそうにビールを飲み干した。
納涼会の後、二次会へと行くみんなと別れて、ユキちゃんと駅まで並んで歩く。
「今日は、大丈夫やったな」
「はい」
ひとつ、成長できた。ユキちゃんが横にいなくっても、お酒を断れた。一年生との会話は……もう一がんばり、かな。
だから。次のステップへ。
「ね、ユキちゃん」
「うん?」
「今度、ライブに行ってみたい」
さっき心に宿った『演奏するユキちゃんを見たい』という思いは、数十分のうちに大きく育ってきていた。
今なら。今、ユキちゃんに言ってしまえば。
踏ん切りがつきそうな気がする。
「そう? 来れそう?」
「分からないけど。ジン君も怖くなくなってきているし」
『一人ずつなら』と、ユキちゃんが作り出してくれた彼らとの接点重ねるうちに、ジン君と話をすることもできるようになった。ジン君は体が大きくって声が低いけれど。よく見たら大型犬のような愛想のあることも分かってきた。
「それやったら、ゆりさんと一緒に来てみる?」
「ゆりさんに悪くないかな?」
「アカンかったら、断るやろ。マサが、ちゃんと」
「そう?」
「だって、夫婦やし」
思い出したように吹く夜風の中で見たユキちゃんの横顔は、垂れ気味の目じりが、なんとなくいつもより下がっているように見えた。
翌月の夏祭りは、ユキちゃんと二人で行った。サークルの皆は、固まって行くみたいだけれど、ちらほらと一年生が混じると聞いたユキちゃんが『邪魔されたくない』と言い出して、私たちは別行動になった。
去年と同じように、浴衣を着て、駅で待ち合わせて。
「あ、リョウや」
神社へと向かう人の流れの向こうに、頭半分出るような感じで歩いているリョウ君がいた。
居たけど。
「どうしたの? あの髪」
「すごいやろ?」
金髪は相変わらずだけど。オレンジと緑が微妙にミックスされている。
「この前、オフクロさんには、『インコか』って言われたらしいで」
「インコ?」
手乗りインコって、あんな色だったっけ?
「セキセイとは違って、あれやで。南国の、長ったらしい名前のインコ」
「ああ」
確かに、熱帯のジャングルに居そうな鳥に色合いがよく似ている。
そんな話が聞こえたわけでもないだろうに、リョウ君がこっちを向いた。
ユキちゃんがヒラヒラと振った手に応えるように、リョウ君の右手が軽く上がる。
人と人の隙間から、トミさんらしい女の子が横に居るのが見えた。
「また、顔を合わせたら、ややこしそうなのが一緒に居るな」
『ちょっと、やり過ごそう』と言いながら、鳥居の根元で一休みをする。
「なぁ、えっちゃん」
「はい」
屋台で買ったラムネを飲みながら、ユキちゃんが話しかけてきた。
珍しいことに、視線が地面に落ちたままで。何か、気になるものでもあるのかと、私も地面を見る。
落ちたタコ焼きにアリが集まっている。
「って、聞いてる?」
「え? あ」
「もう。人が一生懸命に話しとるのに……」
グビっとラムネを飲んだユキちゃんが、今度はまっすぐに私を見る。
何? 何を言われるの?
「今夜な、うちに泊まって、って。アカンかな?」
「さすがに、両親が……」
「そうやんなぁ」
「それに、明日浴衣で帰るのは……」
「着付けが、無理?」
「いえ、それはできるけれども。ちょっと恥ずかしいというか」
”朝帰り”をアピールして電車に乗るのは、躊躇われた。
「あぁぁ。ホンマや。俺、何考えとるんやろ」
飲みかけのラムネのビンを額に当てて、呻くユキちゃん。
「仕切りなおしの、ええチャンスやと思ったのに……」
仕切りなおし、の言葉に、鼓動が跳ねる。
忘年会の後のウヤムヤに交わした”初めて”以来、ユキちゃんと、そういう交わりは無い。
そう言う意味で言っている、と思うのは……イヤラシイだろうか。
「そろそろ、行こか」
暑さだけでない”熱”に、逆上せそうになりながら、手を引かれて鳥居をくぐる。
言葉少ないユキちゃんと並んで参道を歩く。
お参りを済ませて。
「えっちゃん。ちょっと」
そう言いながらユキちゃんは、社務所のほうへと足を向ける。
お正月のバイトで顔なじみになった本職の巫女さんが働いている横を通り過ぎて、人気の無い神輿堂のほうに来てしまった。
神輿堂の更に裏で、ユキちゃんが立ち止まる。
「えっちゃん」
ささやくような声とともに、左頬に手のぬくもりが添えられた。その手に導かれるように見上げたユキちゃんは、夕焼け空を背に怖いような顔をしていた。
一瞬、肩に力が入る。
「怖い?」
大丈夫。私を守り続けてくれたユキちゃんだから。大丈夫。
自分に言い聞かせて、首を振る。
「嫌やったら、ちゃんと言い」
諭すようなユキちゃんの声に、もう一度首を振って自然と閉じた私の視界は。次に来るモノを、期待したのか。怖れたのか。
額に温かいものが触れ、次に左のまぶた。
そして、唇。
一瞬のような、長い時間のような触れ合いを経て、ぬくもりが離れていく。
「大丈夫やった?」
「はい」
気遣うようなささやきに、咽喉声で応える。
きゅっと、ユキちゃんに抱きこまれる。我が家の洗剤とは違う香りのTシャツ越しに、ユキちゃんの鼓動を感じる。
規則正しいリズムに、知らず知らずに笑いがこぼれる。
「どないしたん?」
「ユキちゃんがテーブルを叩くのと、心臓の音と、リズムが違うなって」
「当たり前やん。あんなリズムで心臓動いたら、死ぬわ」
背中に回った手が、帯の上で軽く背中を叩く。
タン タン タン タン
「これが、えっちゃんの今の心臓」
「そう?」
「うん」
「ユキちゃんの音じゃなくって?」
「俺、このペース?」
「はい」
うーん、とうなりながら、ユキちゃんが背中を叩き続ける。
「やっぱり、早いなぁ」
「はい?」
「心拍のリズム。これやったら……百十くらいかな? 動いてないから、普通七十くらいやねんけど」
背中を叩くリズムが緩やかになる。
「これが、七十くらい」
「どうして?」
「うん?」
「七十とか、百十とか。どうして分かるの?」
「トレーニングの成果やん。俺、ドラム叩いてるねんで? 大体の目安で叩けんかったら、曲バラバラになるやん」
「へぇぇ」
タン タン タ タ タン?
タン タタ タンタン タンタン
「ユキちゃん、遊んでる?」
「そろそろヤバイ。神さんに怒られること、してまいそうや。真っ暗になる前に、参道へ戻ろ」
そっと体を離したユキちゃんは、目をそらすようにしながら私の手をとった。いつもより熱い気がするその手に引かれて、夕明りを頼りに参道へと戻る。
社務所の横に出て、今夜も忙しそうに働いている本職の巫女さんたちの『ようこそ、お参りいただきました』の声を聞いて、夢幻の世界から立ち戻った気がした。
そっと、唇に指先で触れる。
『怒られること、してまいそう』
ユキちゃんの声が、耳の底でこだまする。
「えっちゃん、何食べる?」
参道も中ほどまで来たところで、ユキちゃんが振り返る。社務所から、ここまで互いに無言だった。
「ユキちゃんは?」
「そうやなぁ」
タコ焼きの気分やないし……と、呟きながら、大きな木の根元で思案するユキちゃん。歩く人たちの邪魔にならないように、人の流れを避けてのんびりと周りを眺める。
「あ、焼きトウモロコシ」
「えっちゃん、トウモロコシ好きなん?」
「はい」
「ここで、待ってて。買ってくるわ」
「ええっと。はい」
「知らん人に付いて行ったらアカンで?」
「大丈夫」
笑いながら私の頭を撫でたユキちゃんが、ジーンズのポケットからお財布を出しながら屋台へと向かう。それを見送って、ふと見た参拝客の列の中に室谷さんがいた。
あ、リョウ君だけじゃなくって、サク君も来ているんだ。そういえば、この前 ゆりさんは『サクちゃん』なんて呼んでいたなぁ。
そんなことを考えながら、眺めていた室谷さんが、隣の男性の腕に絡みついた。
あれ? サク君じゃない?
「えっちゃん、お待たせ。って。どないしたん?」
「あ」
「……洋子さんか。早いなぁ」
私の視線をたどったのか、あっけなくユキちゃんが室谷さんを見つけた。
「いい、のかな?」
「ええんちゃう? この前、『別れた』言うて、サクが落ち込んでたし」
「はぁ」
「そやけど、早すぎるやろ? やから、恋愛ゲームや、言うねん」
『別れたらぁ、次の奴ぅ』と節を付けて歌うユキちゃんが差し出すトウモロコシを、火傷しないように気をつけながら受け取る。
そうか、次の人、か。
目の前で、自分の分のトウモロコシに齧りついているユキちゃんを眺めながら、私も一口齧る。
ユキちゃんの次の人、なんて……想像もつかない。
三分の一ほど食べたところで、何の拍子かトウモロコシから滲んだ汁が腕を伝い落ちる。『袖が汚れる』と慌てた私は、つい腕を舐めてしまった。
ユキちゃんの咳払いに、自分の行儀の悪さに気づいて、時間を巻き戻したくなる。
「えっちゃん……」
「ごめんなさい」
見なかったことにして欲しいな。
「いいや、許さへん」
そろり、と見上げたユキちゃんの泣き黒子に睨まれた。
「責任とって、俺の部屋においで?」
「はい?」
責任?
「人がせっかく、キスだけでガマンしようと思っとるのに。どこまで、煽るん?」
左手に食べさしのトウモロコシを持ったユキちゃんの、空いている右手が腰に回された。ぐいっと篭められた力に、たたらを踏むように抱き寄せられる。
「泊まらんでもええ。終電には帰したるから、このまま、俺の部屋、行こ?」
神さんに怒られるようなこと、しよ?
耳元で囁く声に、持ち合わせの少ない抗う気力を根こそぎ奪われて。
二人でトウモロコシを齧りながら、私にとって半年ぶりになる彼の部屋へと足を向けた。