静寂の音
静寂の世界においては、質量のある音の存在は許されない。
美しいものであれば良いという訳でもない(醜い音なら、なおさらだ)。
静寂という無の空間が好きだ。物質の存在を否定している訳ではない。ただそれから放たれるものが無音でさえあればいいのだ。
空間の視覚的な色は何でもいい。無音、静寂・・・音の色を表すならば透明。それがあればいい。
ところであなたは、無色それのみをいかにして見るかを知っているだろうか。結論から言えばそのような方法はなく、人間は実際に「それだけを」見たことなどないのに無色という「色」を定義した。「無音」も同様である。
無論、「目を潰せば色を見なくなるから無色を得られる」などというのは論外だ。
僕は色には興味がないが、無音について「耳を削ぐ」という手段の存在を認識してはいるものの、それをしようとは思わない。
そもそも、静寂だって、音なのである。
耳がなければそれを聴くことができないではないか。
屁理屈だと人は言うが、静寂を知るために耳を削ぐなどという安直かつ非合理的な手段に出るような者に、静寂に魅入られる資格はないと思っている。
僕は、人生における「愛」のすべてを静寂に向けている。
だが、実のところ未だにその音を聞いたことはないのだ。この場合、体感と言った方がいいのかもしれない。
それはきっと僕が耳を削がないからだ。
というのはちょっとした冗談で、方法はきっとある、定義されている以上きっとあるのだ。
矛盾であることくらいわかっている。
僕は今、風も、生物も、何もない場所に来た。静寂を求めてここまで着て、
僕は気がついてしまった。
世界の音はあまりにも汚い。汚い。汚い。汚い。汚い。汚い。汚い。はてしなく汚い。
わかったのはそんなことではない。
ここは僕さえいなければ静寂の世界だ。僕の追い求めた美しい、ただただ美しい箱庭。
それを、「僕が汚している」。
僕が、人だったのを憎んだ。
呼吸音が煩わしい。
口を噤んでも止まらない。
心臓が跳ねる音が煩わしい。
血液の流れる音が煩わしい。
まばたきの音が煩わしい。
いくら静寂の美を知ることができる精神を持っていても、生物として存在する限り手が届かない。
僕の自我が生物の中にあるかぎり。
だけど、自我は、精神は生物の中にしか存在できない。
少なくとも僕は、そう思っている。
頭を抱えて悲鳴を上げた。
泣き叫び、汚い音をまき散らしながら汚い音のする家に帰った。
その晩の夢は、自分が静寂を知ろうとして、奇跡を信じて窓から身を投げた、そんな夢だ。
(夢の最後に聴いたのは、ぐちゃりというひどく汚い音)