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静かなる悪役令嬢

賄賂の効かない堅物騎士団長は、極道令嬢の店で菓子を買う

掲載日:2026/07/24

『婚約破棄された静かなる悪役令嬢~世話をしていた王国中の貴族が"借り"を返しに来ました~』

https://ncode.syosetu.com/n5695mm/


ルッジェーロ視点スピンオフです。


「あれは、私が捕まえるべき女だ」

【第一幕】


 監察騎士団長、ルッジェーロ・デッラ・スカラ。それが私の名と、職である。


 生まれはデッラ・スカラ侯爵家。次男である。家督と領地は出来のいい兄が継ぎ、私は剣と法を選んだ。……身軽な次男坊に、王家は存外つらい仕事を回してくるものだ。


 監察騎士団の任務は三つ。貴族の犯罪の捜査。役人の不正の摘発。そして、法の前の平等の維持。……三つ目は建前だよ、と着任の日に前任の団長は笑った。


 その前任者を収賄で挙げたのが、私の初仕事となった。


 以来、王宮では私をこう呼ぶそうだ。曰く、王国でただひとり賄賂の通じない男。曰く、笑わない団長。曰く――付け届けの墓場。


 最後のはあんまりだと思うが、否定はできない。私の執務室には、他の部署にはない帳面が一冊ある。題して「返却台帳」。突き返した金品の品目と差出人を、日付つきで記録したものだ。今朝の時点で通算三百十二件。金貨、宝石、別荘の権利書、隠居した司教の推薦状、"姪"が延べ三人、なぜか山羊が一頭。


 "姪"について補足する。貴族の付け届けには古い作法があって、後ろ暗い贈り物ほど、無難な続柄を名乗らせて寄越すものなのだ。件の三人は、いずれも差出人と血の繋がりのない、たいへんな美女だった。


 山羊の返却には、丸二日を要した。


 美女の返却は、それより早い。護衛と馬車をつけて即日で丁重にお帰りいただき、台帳の品目欄に人は書けないので、備考欄に『色仕掛け、三件。いずれも成果なし』とだけ記した。


 さて。本題に入る。


 私の机には二年前から、片づかない書類の山が、ふたつ載っている。


 ひとつは、北部一帯を領するオルシーニ公爵家。噂は真っ黒だ。消えた密告者が三人。前言を翻した証人が九人。「不慮の火事」で燃えた帳簿が二冊。被害者は、いる。確実にいる。だが誰も口を開かない――開けない、と言うべきか。あの家の周りでは、証拠という証拠が、雪のように溶けて消える。


 その山には、付属の綴りがある。南部のバリオーニ男爵家。〈夢の粉〉の元売りであり、私はこれをオルシーニの金脈と睨んで内偵している。だが、男爵ごときの尻尾すら、二年経っても掴めない。掴めない理由は明白だ――証人が消えるのは、いつも決まって、北の傘の下でだからである。


 男爵に苦戦しているのではない。男爵を透かして、公爵と撃ち合っているのだ。


 もうひとつの山は、南方交易のマラスピーナ公爵家。表の顔は貿易商と、王都一の行列ができる菓子店。裏の顔は――賭場。港の関税。無認可の金融。容疑の品書きだけなら、十分に真っ黒だ。


 ところが、こちらは奇妙なのだ。


 被害者が、いない。


 賭場で財布を空にしたはずの男爵は「あれほどイカサマと無縁な店は他にない」と笑い、金を借りた寡婦は「利子を取られた覚えがない」と首を振り、港の荷主たちは口を揃えて「あの家のおかげで食えている」と言う。摘発に踏み込むには告発が要る。その告発人が、王都のどこを掘っても出てこない。


 被害者なき犯罪、という言葉を、私は認めない。法は法だ。……認めないが、二年掘って告発人がゼロという事実の前では、令状の一枚も取れないのが現実である。


 同じ「黒」でも、色が違う。


 オルシーニの黒は、覗き込むと足元が消える闇の色。マラスピーナの黒は――たとえるなら、焦がした砂糖の色だ。香ばしくて、甘くて、それでも黒は黒。


 この比喩を副官に話したら、「団長、それは要するにお腹が空いていらっしゃるのでは」と返された。減俸にしようかと思った。


 マラスピーナの調書には、もうひとつ、分類に困る観察記録が綴じてある。


 当主代理を務める公爵令嬢――つまり、この国の王太子殿下の婚約者が、週に何度も件の菓子店の厨房に立っている、という報告だ。変装もせず、堂々と、粉まみれで。


 張り込みに出した部下は、監視対象の店の匂いに耐えかね、カンノーロなる菓子を買って戻ってきた。しかも経費で申請してきた。却下した。翌週、別の部下が同じことをした。却下した。その翌週、副官までもが買ってきた。


 ……一本だけ、味の検分をした。捜査である。


 美味かった。腹立たしいほどに。


 報告書の余白に、私はこう書き足すに留めた。『当該令嬢、犯罪組織の後継者としては、行動様式に不明な点が多い』――と。


 その報告書を書いた翌週である。辞令が下りた。


 建国記念の夜会、警備責任者。


 王家と、マラスピーナと、そしてオルシーニ。私の書類の山の主たちが、一夜、同じ広間に揃う。


 ――何も起こらなければいいが、と書きかけて、やめた。


 私の勘は、あいにく当たる。


【第二幕】


 建国記念の夜会、というものを警備側から説明すると、こうなる。


 出入口が十一。バルコニーが六。招待客が三百。持ち込まれる儀礼用短剣が推定二十。そして私の机の書類の山の主が、同じ広間に、三家。


 配置を終え、私は柱の陰に立った。警備責任者の定位置は、いちばん眺めの良い、いちばん目立たない場所と決まっている。


 最初の違和感は、開宴から半刻後に来た。


 王太子殿下の腕に、男爵令嬢が寄り添っている。ルクレツィア・バリオーニ。――バリオーニ。南部の、あのバリオーニだ。オルシーニの金脈と睨んで内偵中の家の娘が、なぜ王家の中枢の隣にいる。私の調書のどこにも、この配置を説明できる頁がない。


 警戒を一段上げた、その矢先だった。


「エレオノーラ・マラスピーナ! 貴様との婚約を破棄する!」


 楽団が止まった。三百人が凍った。私は――職業柄、まず数を数えた。声量、過剰。宣言の場、不適切。そして殿下が続けて読み上げた罪状の数々に、私は柱の陰で眉をひそめることになる。


 いじめ。器物損壊。階段からの、殺人未遂。


 ……どこの証拠だ、それは。


 貴族令嬢への容疑なら、本来うちの管轄だ。監察騎士団は、その種の告発を一件も受理していない。正規の捜査を経ていない「証拠」を、王族が公衆の面前で振りかざしている。手続きの匂いがしない証拠ほど、臭うものはない。


 当のマラスピーナ公爵令嬢は、と見れば。


 騒がない。泣かない。震えもしない。偽物と思しき手紙を一瞥して、何やら採点までしている様子だった。あの距離で透かしと封蝋に言及できる眼は、被害者のそれではない。鑑定人のそれだ。


 ……帰庁したら調書に一行、追記しておこう。『当該令嬢、修羅場における心拍の乱れ、観測されず』――頭の中の帳面に、そう書き留めた。


 決定打は、その後に来た。


 慰謝の名目で、マラスピーナ家の港湾利権を王家へ返上させる。管理は、しかるべき代理人に――殿下はそう仰った。


 港。南部の〈夢の粉〉を王都へ流すなら、絶対に要る玄関口。二年間、北の傘に阻まれ続けてきた構図の尻尾が、王太子殿下の口から、するりと出てきた。


 殿下ご自身は、おそらく意味をご存じない。台本を書いた者が、別にいる。バリオーニの後ろの、さらに後ろに。


 私は柱の陰で、静かに確信だけを積んだ。証拠は、ない。今夜もまた、ないのだ。あの家の周りではいつもそうであるように。


 やがて、エレオノーラ・マラスピーナ公爵令嬢が、一礼した。


「――承知いたしました」


 見事な引き際だった、と思う。抗弁も、涙も、取引もなく、ただ深く、美しく。戦場で言えば、完璧な後退戦。あれは負けた者の背中ではない。


 そして貴族たちが、動き始めた。


 老侯爵がひとり、扉へ。続いて伯爵が三名。子爵、男爵、伯爵夫人――私は数えた。数えるのが、仕事だからだ。


 二十四名。三百人の広間から、二十四名が、申し合わせたように静かに消えた。残った者たちも拍手ひとつしない。あの沈黙は畏怖ではない。値踏みだ。


 この国の貴族社会の重心が、今夜、目の前で音もなく傾いだ。王家の側に、ではなく。


 ――と、そこで。退室の人波の向こうから、当の令嬢が、こちらを見た。


 目が合った。


 私は、わずかに顎を引いた。


 深い考えがあったわけではない。見事な仕事を見たときに出る、癖のようなものだ。剣技の大会で完璧な一本が決まれば、敵方の席からも拍手が出る。あの後退戦は――それに値した。


 令嬢は一瞬、扇を止め、それから何事もなかったように視線を外した。


 覚えられたか。まあ、いい。こちらはとうに、覚えている。


 帰庁後、私は上申書を一枚書いた。バリオーニ男爵家およびその背後関係の内偵強化について。


 返ってきた決裁には、一行。『証拠もなく貴族家を云々するは、監察の職分に非ず』。


 ……ごもっとも。証拠。証拠か。


 二年間、喉から手が出るほど欲しかったそれが、この数日後、向こうから歩いてやって来ることになる。


 差出人のない、小包に入って。


【第三幕】


 その小包は、朝の便で届いた。


 差出人、なし。宛名は「監察騎士団 御中」。規定により検分係が開封し、火薬と毒物の検査を経て、私の机に載ったのは昼前である。


 中身は、二部に分かれていた。


 一部目は、バリオーニ男爵家の裏帳簿の写し。〈夢の粉〉の仕入れ値、卸し先、帝国へ売った"荷"の頭数。ただし全編、符牒だらけだ。「菫」が何の隠語か、「北向きの荷」がどこへ行くのか、素人目には花屋の仕入れ帳と区別がつかない。


 そして二部目――別紙が、同封されていた。


 符牒の対訳表である。「菫」=〈夢の粉〉一包。「北向きの荷」=帝国行き。品目、数量の単位、決済の隠語まで、写しに現れる全符牒が漏れなく引ける一覧。しかも欄外には、対応する写しの頁数まで振ってある。


 私は写しよりも先に、対訳表のほうを長く眺めた。


 符牒とは、内輪の人間にしか読めぬよう、年月をかけて熟成させる暗号だ。それを外からこの精度で破るには、うちの分析班なら――優秀なのを三人付けて、半年。この別紙を書いた何者かは、それを、写しを作る片手間にやってのけている。


 筆跡は几帳面。罫は定規で引いたよう。数字の癖は、商家の帳場のそれ。……この王国のどこかに、恐ろしく頭の切れる帳簿の達人がいる。敵に回したくない類の。


 むろん、鵜呑みにはしない。紙の産地、インクの年代、押収済み資料との突合――三日かけて検証させた結論を言う。


 本物である。腹立たしいほどに、本物である。


 善意の市民、とやら。その善意の出所に、心当たりがひとつだけある。だが匿名の資料提供は合法だ。内容が真正である以上、これを使わない理由は、法のどこにも書かれていない。


 私は利用されている。分かっている。分かった上で、利用する側に回る。正義の進む方角が同じ間は、それでいい。


 解読済みの帳簿が捜査を走らせる間にも、王都は勝手に動いていた。


 両替商組合が、バリオーニの手形を扱わなくなった。港では、あの家の船だけ荷が下りなくなった。例の「階段から突き落とされた」とかいう告発は審理のやり直しが決まり、証人の令嬢たちは揃って証言を思い出し直した。


 私が令状の壁に阻まれ続けた場所を、令状の要らない何かが、静かに通り抜けていく。法にできないことをする者を、法の側から眺める十日間だった。


 極めつけは、南部の隠し倉庫だった。三箇所、同時に、倉庫番本人からの密告。取調室で理由を問うと、三人が三人とも同じことを言った。「恩義のある御方に、顔向けできない仕事だと気づきましたので」。


 誰への恩義かは――供述調書に載せる必要のない情報と、判断した。


 番頭の一件にも触れておく。バリオーニ家の金庫番が早朝、半狂乱で出頭してきた。曰く、目覚めたら寝室の枕元に仔馬がいた、と。臨場した部下の報告によれば、現場には栗毛の仔馬一頭と、食い荒らされた羽根枕、そして飼い葉代の請求書。


「団長、馬は押収しますか」


「脅迫の被害届は」


「本人が『届けは出さない、それより全部話すから保護してくれ』と」


 被害届のない事件は、立件できない。仔馬は健康そのものだった。番頭は、それはもうよく歌った。


 なお、内偵中だった残党の幹部宅には、新聞紙に包まれた生魚が届いたらしい。古い筋の脅し文句だと当然把握していたが、当の幹部は高級な手土産と勘違いし、礼状を出していた。……あの組織が壊滅した理由の何割かは、単に人材だと思う。


 逮捕状が下りたのは、それから間もなくである。


 罪状は、脱税。


 拍子抜けした顔をする部下に、私は説明した。麻薬も人身売買も、証人が生きて法廷に立たねば裁けない。そしてあの家の証人は、生きて法廷に立てた例しがない。だが帳簿は違う。数字は脅せない。数字は買収できない。十五年分の申告漏れは、それだけで男爵を牢の底まで運ぶ重さがある。


 大罪で裁けないなら、確実な小罪で足を掬う。美しくはないが、確実だ。


 捕縛の指揮は、私が執った。朝食のテーブルで、ジャンパオロ・バリオーニは卵料理を持ったまま固まっていた。


 手錠をかけながら、私は勘定していた。取ったのは、駒だ。盤の主は今ごろ、北の屋敷で優雅に紅茶でも飲んでいるだろう。――だが駒を失った盤は、必ずどこかが軋む。


 ――さて。ここからが、本題だ。


 届いた写しには、欠けがある。仕入れと売上は完璧に揃っているのに、利益がどこへ流れたか――金の流れの"上"だけが、頁ごと、ごっそりない。対訳表のほうにも、その領域の符牒だけが載っていない。


 写し損じではない。あれだけ几帳面な仕事で、そこだけ抜け落ちる道理がない。意図的に、抜いてある。


 理由も、察しはつく。男爵と公爵とでは、落とすために要る証拠の重さが、まるで違うのだ。この数枚を今の王都で出したところで、あの家なら握り潰して終わる。送り主はそれが分かっていて、機が熟すまで札を伏せた。……そういうことだろう。


 つまり、まだ足りない。誰の手札を合わせても、まだ。


 ならば、匿名の善意を待つだけか? ――冗談ではない。


 私は写しの"荷"の欄を思い出す。人間が、頭数で記帳されていた。年端もいかない子どもまで、数字ひとつで。国民に毒を撒き、人を物として売り捌く。ああいう輩を裁くために、この職と、私の剣はある。


 善意の市民が次の札を切るその日までに、令状が即日で通るだけの証拠を、こちらはこちらで積み上げる。頼るのではない。競うのだ。――北の首に先に手が届くのは、どちらか。


 バリオーニの件は、ひとまず片づいた。残ったのは、匿名の資料提供者への、礼だ。これは貸しでも、借りでもない。ただの礼である。


 ……あの家の語彙が移り始めている。良くない徴候として、記録しておく。


 行き先は、決まっている。


 王都一の行列ができる、菓子店だ。



【第四幕】


 数日後の、非番の午後である。


 私は単身、王都一の行列の横に立っていた。匿名の提供者に礼は言えないから、心当たりの店先で言う。それだけの話だ。


 行列の脇から店内を検分し――私は、足を止めた。


 厨房の奥。粉まみれの子どもたちが、揃いの前掛けで、菓子の皮を巻いている。


 見覚えが、あった。人相書きでではない。あの帳簿の、"荷"の欄でだ。頭数として記帳されていた数字が、いま、粉だらけの顔で笑いながら、不格好な菓子を巻いている。身の振り先が決まるまで店で預かり、給金まで出ているという。


 ……この職に就いてよかったと思える瞬間は、年に幾度もない。今日が、その一度だった。


「――相変わらず、繁盛していますね」


 気づけば、そう声をかけていた。


 振り向いた店の女主人――エレオノーラ・マラスピーナ公爵令嬢は、粉のついた指先を布巾で拭いながら、悪びれもせず微笑んだ。


「あら、団長様。摘発ですの? それとも、カンノーロ?」


「礼を言いに来ました。……『善意の市民』に、心当たりがあるもので」


「まあ、どなたかしら。ぜひご一緒に、お礼を申し上げたいわ」


 白々しい。実に白々しい。だが、その白々しさに一分の隙もない。


「――では、その方に伝言を。届いた写しには、金の流れの"上"が、ごっそり欠けていました」


「あら。写し損じかしら」


「……いずれ続きが届くことを、期待しています」


 ――そして、こちらの証拠が先に揃うことを、もっと期待している。それは言わなかった。手の内は明かさない主義だ。


 私は一歩近づき、行列に聞こえないよう、声を落とした。ここからは、礼ではない。職務である。


「エレオノーラ・マラスピーナ公爵令嬢。賭場。港の関税。無認可の金融。――あなたの家の"商い"を、私は忘れてはいません。いつか必ず罪状を揃えて、あなたを捕まえます」


 脅しではない。予告だ。そして――あの厨房の光景に、うっかり全部を許しそうになる自分への、楔でもある。


 彼女は、怯えなかった。それどころか、西日の中で、面白いものでも見つけたような顔をした。


 そして、焼きたてのカンノーロを一本、私の手に押しつけてきた。


 温かい。香ばしい。……まずい。これは、まずい。胃袋から陥落する。


 私は懐から財布を出し、銅貨をきっちり定価ぶん数えて、彼女の手のひらに載せた。


「……賄賂は、受け取らない主義です」


「あら。お硬いこと」


 それから彼女は、扇の陰で、ふ、と笑った。


「楽しみにしておりますわ、ルッジェーロ様。ふふ。それまでに全部、堅気にしてしまうかもしれなくってよ?」


 ――名で、呼ばれた。


 着任からこちら、身内を除いて私を名で呼んだ人間はいない。団長。閣下。デッラ・スカラ卿。それが普通だ。役職ではなく、名を呼ぶ。……つまり、そういうことだろう。


 監察騎士団長という役職ではなく、ルッジェーロという男を相手にしてやる――極道の流儀で言うところの、宣戦布告だ。


 いいだろう。受けて立つ。


「……逃げ切るおつもりですか」


「お父様の遺言ですもの」


 彼女は扇を開き、茜色の往来へ目を向けた。それから、扇の内で、何かを呟いた。


「――――になるのは、もう少しだけ、先になりそうですの」


 肝心の頭の一語だけが、行列のざわめきに紛れて、届かなかった。


 聞き返すのは、野暮というものだろう。私は一礼して、店を後にした。


 持ち帰ったカンノーロは、屋敷に戻り、自室で茶を淹れ、皿に載せて、検分した。


 やはり美味かった。……腹立たしいほどに。


 食べ終えて、手帳を開く。明日は朝から、オルシーニ関連の証言者の洗い直しだ。北の首は、まだ遠い。……だが、届かせる。


 それが私の仕事なのだから。





    * * *





 手帳を閉じ、茶の残りを飲む。良い夜と、言っていい。


 ――廊下から、聞き覚えのありすぎる足音が近づいてくるまでは。


 ノックは、なかった。扉が開いた。


「ルッジェーロ!」


 母上である。


「あなたの職場の方から、あなたが仔馬の処遇を決めてくれなくて困っていらっしゃる、と聞きました」


 ……嫌な予感しか、しない。


「当家の不始末は放っておけませんでしたので、その可哀想な仔馬ちゃんは、私の家で責任を持って育てることにいたしました。人懐っこくて、とても可愛い子なんですよ」


「……は?」


 窓辺に寄り、厩を見下ろす。見覚えしかない栗毛の仔馬が、干し草をもしゃもしゃと食んでいた。


「母上。あれは、団で管理している証拠品でして」


「団の厩は手狭だと聞いたのよ。可哀想に、あんな事件に使われて。しかも不起訴ということは、証拠品ではなくなったのでしょう? ですから、もう、うちの子にしました」


「うちの子って……手続きというものが」


「あなたはいつもそう! 書類、書類、手続き! 生き物ひとつ可愛がれないから、嫁のひとりも捕まえられないのよ!」


「論理の飛躍では。だいいち私の仕事は、悪人を捕まえることです」


「だったら悪い女でもいいから、捕まえてきなさい!」


「無茶苦茶だ……」


「いい? ルッジェーロ」


 母上は、厩から拝借してきたらしい馬用の櫛を、びしりとこちらへ向けた。


「陰のある女はね、イイ女と決まってるのよ」


 ……脳裏に、浮かんだ。


 粉まみれの子どもたちと、笑っていた女性が。


 確かに――あれは、いい女だ。


 だが母上、あいにくです。あれは私が、捕まえるべき女だ。


 必ず、捕まえてやる。


「……あらやだ。もしかして余計なお節介だったかしら」


 母上が、なぜか満足そうにニヤニヤしていた。


 そして私は遠くない未来、宣言どおり、あらゆる手段を用いて彼女を捕まえることになる。


(了)

【捜査報告・余白】


 本件の記録は、以上である。……最後まで検分いただき、感謝する。


 なお、賢明な読者諸君はすでにお気づきだろう。この記録には、欠けがある。


 あの店の女主人が、扇の内で何と呟いたのか。『善意の市民』が何を考え、何を仕込んでいたのか。――当該人物側の"供述"は、別途、以下に記録されている。


『婚約破棄された静かなる悪役令嬢~世話をしていた王国中の貴族が"借り"を返しに来ました~』

https://ncode.syosetu.com/n5695mm/


 彼女が何と言ったかは、彼女側の物語で、確かめてほしい。


 最後に。ブックマークと評価とご感想は――賄賂には当たらない。完全に合法である。むしろ、今後の捜査(続きの執筆)への、大変な支援となる。……どうか、よろしく頼む。

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