誰かの工房
蓋を開ける。
音はしない。
五つの歯車を指先で回した。三つ目だけ、わずかに引っかかる。昨日はなかった抵抗だ。湿気か。乾いた布で軸受けを拭い、もう一度回す。滑らかに戻った。
閉じて、棚に戻す。
時計を見た。八時を過ぎている。
トウヤが来ない。
あいつが遅刻したことは、今まで一度もなかった。寝坊するような性格ではない。体調を崩したか、何かあったか。
作業台の上の修理途中の品——昨日途中まで磨いた真鍮の蝶番を手に取って、続きにかかった。待っていても仕方がない。
半刻ほど経って、工房の戸が開いた。
「すみません、遅くなりました」
息が切れている。走ってきたらしい。
だが手に、何か抱えている。古い木箱だ。両手で胸の前に持っている。角が擦り減って、木目が白く毛羽立っている。蓋を紐で縛ってある。
「リーネさん、一つお願いがあるんですけど」
トウヤの声が固い。いつもの軽さがない。目がまっすぐこちらを見ている。緊張した顔だ。
「座れ。息を整えてからでいい」
トウヤが作業台の前の椅子に座った。膝の上に木箱を置いて、しばらく何も言わなかった。
私は蝶番の研磨を続けた。急かす理由がない。
やがてトウヤが紐を解いた。蓋を開ける。
「……これを、直してもらいたいんです」
木箱の中身が見えた。
修理道具だった。
小型のレンチ。ピンセット。ルーペ。三つとも古い。レンチは全体に赤錆が浮いていて、ピンセットの先端が内側に曲がっている。ルーペはレンズの縁が欠けて、覗いても像がぼやけるだろう。
安い道具だ。市場に行けば、三つまとめて銅貨数枚で買える程度のもの。
だが、手入れの跡があった。
レンチの持ち手に、布で拭き込んだ光沢が残っている。ピンセットの腹に、錆止めの油を塗った形跡。ルーペの柄には、握り癖に合わせて薄く削った痕。
使い手が大切にしてきた道具だ。それだけはわかる。
「これは?」
トウヤが間を置いた。視線が木箱の中に落ちている。
「……昔、港の裏通りに修理屋のじいさんがいたんです」
声が少し低くなった。普段の口調に敬語が混ざる。
「ギルドとは関係ない、ただの直し屋です。壊れた鍋とか、折れた杖とか、そういうのを直してる人だった。俺がガキの頃、壊れたものを持っていくと直してくれた。直し方を少しだけ教えてくれた」
私はレンチを手に取った。持ち手の錆の下に、使い込んだ指の形が残っている。大きな手だ。トウヤの手ではない。
「じいさんが死んだ時、これだけもらった」
トウヤの声が静かになった。
「でも俺には直せなくて。ずっと持ってた」
木箱の内側に、布が敷いてある。道具が動かないように、きちんと詰めてある。トウヤがこの箱を開けたのは、今日が初めてではないだろう。何度も開けて、何度も閉じたはずだ。直せないまま。
何も言わなかった。
聞く必要はない。道具が全部語っている。
作業台にレンチを置いた。ピンセットとルーペも並べた。工具棚から研磨布と錆落としの溶剤を取り出す。
レンチから始めた。
溶剤を染ませた布で、表面の赤錆をこすっていく。力を入れすぎると地金まで削れる。弱すぎると錆が残る。一番表面の酸化層だけを、薄皮を剥ぐように取る。
錆が落ちると、下から鈍い銀色が現れた。安い合金だが、芯はまだ生きている。可動部に注油した。六角の顎を開閉する。動きは固いが、噛み合わせは正確だ。使える。
持ち手に手をかけた。ここにも錆がある。だが——手を止めた。
持ち手の錆の下に、窪みがある。指の形に沿って金属がわずかに凹んでいる。何年も何年も、同じ握り方で使い続けた跡だ。
この窪みを削れば、持ち手は均一にきれいになる。だが、手の形が消える。
錆だけを落とした。窪みには触らなかった。
次にピンセット。
先端が内側に五度ほど曲がっている。金属疲労だ。繰り返し挟む動作で、少しずつ内側に寄った。
万力に挟んで、慎重に矯正する。一度に戻そうとすると折れる。少し戻して、確認して、また少し。指先に金属の抵抗が伝わる。弾性の限界を超えない位置を探りながら、元の角度に近づけていく。
五回に分けて矯正した。先端を合わせる。隙間がない。ピンセットの本来の精度が戻った。
最後にルーペ。
レンズの縁が欠けている。このレンズは交換するしかない。
部品棚に向かった。廃棄品のストックを漁る。先月分解した測量器具の中に、小型のレンズが残っていたはずだ。——あった。径を確認する。ルーペの枠に合わせる。はまる。同規格だ。
古いレンズを枠から外し、新しいレンズをはめた。固定リングを締める。覗いてみた。像が澄んでいる。
三つの道具を並べた。
レンチ、ピンセット、ルーペ。どれも使える状態に戻っている。
トウヤが立ち上がった。作業台に歩み寄って、まずレンチを手に取った。
握った。
指が持ち手の窪みに触れて、止まった。
「持ち手、そのままだ」
「使い込んだ形が残ってるほうがいい。手が覚えてる」
トウヤがレンチを握ったまま、しばらく黙っていた。窪みの上に、トウヤの指が重なっている。じいさんの手の跡の上に、弟子だった子供の手が。
ピンセットを取り上げて、先端を合わせた。ルーペを覗いた。一つずつ確かめている。
「……ありがとうございます」
「金は要らない。安い道具だ」
「安いとか高いとかじゃなくて」
知っている。だから金は要らないと言った。
トウヤが道具を木箱に戻しながら、口を開いた。
「リーネさんの工房に来たのは、じいさんみたいな人がいるって聞いたからです」
「私はじいさんじゃない」
「知ってます」
トウヤが木箱の蓋を閉じた。
「でも、壊れたものを捨てない人だって聞いた」
返す言葉が出なかった。
棚を見た。検品器。焼損した計測器具。処分記録のページ。壊れたまま直せないもの、壊された証拠、辻褄の合わない記録。この工房は、捨てられたものと捨てられかけたものでできている。
私もそうだ。ギルドに捨てられて、ここにいる。
トウヤもそうだ。じいさんの道具を捨てられなくて、ここに来た。
「……午後の修理、始めるぞ」
「はい」
トウヤがいつもの声で返事をした。
木箱を鞄にしまって、作業台の前に座った。
午後の陽が窓から差して、作業台の上の工具を照らしている。トウヤの鞄の中に、直ったばかりの道具が入っている。持ち手の窪みに、二人分の手の跡が重なっている。
誰かの工房で始まったものが、別の誰かの工房に届いた。それだけのことだ。
蝶番の研磨の続きにかかった。今日も、持ち込まれたものを直す。




