来なくていい場所
蓋を開ける。
音はしない。
閉じて、棚に戻す。
工房の戸が開いて、見慣れた顔が入ってきた。干物屋の老人だ。
「よう、リーネさん。ちょっと見てもらいたくてな」
乾燥棚——元は保存箱だったあの箱を抱えている。
「通気穴の一つが詰まったみたいだ。乾きにムラが出てきた」
箱を受け取って裏返した。十二個の通気穴のうち、一つに白い結晶が詰まっている。空気中の塩分が固まったのだろう。港の工房ではよくあることだ。
細い針で結晶を突いて除去した。穴を通して息を吹き込む。通気を確認。
「はい。詰まりを取りました」
「早いな。もう終わりか」
「調子はどうですか」
「おかげさまで。今年一番の出来だよ。あの箱で干した魚は味が違うって、仲買の連中が言ってる」
老人が銅貨を二枚置いて帰った。小さな修理。五分もかからなかった。でもこういう日常が、工房を工房にしている。
昼過ぎに、トウヤが廃棄品の一つを修理した。小型の攪拌器で、回転軸の軸受けが摩耗していた。トウヤが別の廃棄品から同じ規格の軸受けを取り出して交換し、注油して復旧させた。赤札をほどく手つきが、もう慣れている。
工房の整理をしていた午後、戸が開いた。
女性が立っていた。三十代前半くらい。ギルドの事務職が着る服を着ている。髪をきっちり結んで、背筋がまっすぐだった。
顔を見た瞬間、体が固まった。
「久しぶり、リーネ」
「……何の用」
ルーナだった。ギルドの検品部門で一緒に働いていた女。私より二つ年上で、入職は同期。検品基準を書いている時、隣の席にいた。
「入ってもいい?」
黙って道を開けた。ルーナが工房に入り、中を見回した。作業台の上の修理品、壁の工具、トウヤが作った遺物の目録。
「こんなところでやってるのか」
「こんなところで十分だ」
ルーナの目が棚の一番奥で止まった。
「……それ、あの検品器じゃない。まだ持ってたの」
「直そうとしてる」
「直そうとして……もう一年でしょう」
「一年と四ヶ月だ」
沈黙が落ちた。トウヤが所在なさそうに椅子に座っている。
ルーナが息を吐いた。覚悟を決めたような顔だった。
「あんたが追い出された時、私は何も言わなかった。それを謝りに来た」
「……別に」
「別にじゃない。あの時、あんたが正しかったのは全員わかってた。基準が厳しすぎるって言ったのは上の連中で、現場は誰もそう思ってなかった。でも誰も声を上げなかった。私も」
「だから別にだ。今更言われても何も変わらない」
ルーナが唇を噛んだ。
「……あれが壊れた日のこと、覚えてる?」
検品器のことだ。
「覚えてる。私が最後に検品した日だ」
「あの日、あんたが午後の検品をしている時に、突然あの箱が鳴らなくなった。あんたが蓋を開けて、中を見て——初めてあんたが顔色を変えるのを見た」
「それで」
「あの後、検品基準が変わった。上からの通達で。理由は聞かされてない。でも、あんたがいた頃よりずっと……雑になった」
「知ってる。赤札を見ればわかる」
「外装を開けなくなった。接点試験もしない。動くかどうかだけ見て、動かなければ廃棄。あんたの基準とは別物だ」
手元の工具を置いた。
知っていた。知っていたが、ギルドの内部の人間から直接聞くのは初めてだった。
「……なぜ今、それを言いに来た」
ルーナが少し迷って、口を開いた。
「最近、おかしいから。廃棄が急に増えて、理由を聞いても誰も答えない。上が何をしているのか、現場にはわからない。私は検品はしてない、事務方だから。でも書類を見ていれば数字はわかる。この三ヶ月で廃棄判定の件数が倍になってる」
「ダグも同じことを言ってた」
「ダグさんは……倉庫の人ね。あの人も気づいてるのか」
ルーナは立ち上がった。
「言いたかったのはそれだけ。謝りに来たのは本当。でも、気をつけて。あんたがここで赤札の遺物を直してるのは、上もそのうち知る。知ったら、面倒なことになるかもしれない」
ルーナが帰った後、工房が静かになった。
「リーネさん」
「何だ」
「あの人、悪い人じゃなさそうでした」
「悪い人じゃない。ただ、黙ってた」
トウヤは何か言いかけて、やめた。
夜。
一人になった工房で、棚の箱を取り出した。
いつもより長く、蓋を見つめた。
ルーナの言葉が頭に残っている。あの日。最後の検品の日。午後の検品の最中に、突然、検品器が鳴らなくなった。蓋を開けたら、中の歯車が焼けていた。
あの箱は、自然に壊れたのか。
それとも——壊されたのか。
蓋を開ける。
音はしない。
閉じた。
「……あの日、壊れたのか。壊されたのか」
棚に戻す手が、少し震えた。




