渇いた弦
蓋を開ける。
音はしない。
閉じて、棚に戻す。
「おはようございます。リーネさん、昨日の十点の話、気になって眠れなかったんですけど」
「寝ろ」
「八割が正常って、おかしいですよね。基準が変わったって——」
「おかしいかどうかは、もう少し見ないとわからない。一回の数字で判断するな」
トウヤは納得していない顔をしていたが、それ以上は聞かなかった。
昼前に、楽師が来た。
痩せた男で、日に焼けた肌に疲れた目をしている。背中に弦楽器を背負っていた。革の覆いを外すと、木の胴に蟲糸の弦が張られた、細身の楽器が現れた。
「胴にひびが入った。他の職人に見せたら、胴の交換が要ると言われた。でも、この胴じゃないと嫌なんだ。この音が好きなんだ」
楽器を受け取った。
胴は深い赤茶色の木材でできている。長く使い込まれた艶がある。松脂と汗の匂いがかすかにする。側面に細いひびが一本、上から下に走っていた。
ひびに指を当てた。
木の繊維を指でなぞる。ひびの方向は木目に沿っている。衝撃で割れたなら、木目と無関係な方向にひびが入る。これは繊維の方向に沿って開いている。
「……乾いてる」
「え?」
「このひびは衝撃じゃありません。木が乾きすぎて縮んでいる。乾燥収縮です」
楽師が首をかしげた。
「乾燥? デルガは海風で湿っぽいだろう」
「最近、内陸のほうに行きましたか」
「ああ……先月、山向こうの町で演奏の仕事があって、半月ほど。あっちは空気が乾いてた」
「それです。半月も乾燥した環境にいたから、木材の水分が抜けて収縮した。ひびはその時にできたんでしょう」
「じゃあ、胴を替えなきゃ駄目か」
「交換はしません。水を飲ませます」
工房の隅にある棚から、大きな布を取り出した。水で湿らせて、楽器を覆うように掛ける。その上からさらに油紙で包んで、湿気が逃げないようにした。
「三日、預からせてください。湿度を管理して、木材に水分を戻します。ひびが閉じるはずです」
「閉じるのか? あんなに開いてるのに」
「木は生きていた素材です。水を吸えば膨らむ。繊維が元に戻ろうとする力がまだ残っていれば、ひびは自然に閉じます」
楽師は半信半疑の顔をして帰った。
三日間、朝と夜に布を確認して、湿り気を保った。トウヤが水を替える係をやりたがったので、任せた。
四日目の朝。
蓋を開ける。音はしない。閉じて、棚に戻す。
油紙と布を外した。
胴のひびに指を当てた。
閉じていた。
完全にではない。髪の毛一本分ほどの線が残っている。だが、あの開いたひびが、木材自身の力で閉じている。
弦を指で弾いた。
音が響いた。胴が振動して、工房の空気を震わせる。深くて暖かい音だった。
昼前に楽師が来た。
楽器を手渡すと、楽師はひびがあった場所を指でなぞった。
「……嘘だろう。閉じてる」
「死んでなかった。渇いてただけです」
楽師が弦を弾いた。一音。二音。三音。
音が工房に満ちた。
「生き返った」
「最初から死んでません」
楽師は銅貨を八枚置いて、それから椅子に座り直した。
「お礼に一曲弾いていいか」
断る理由はなかった。
楽師が弾き始めた。港の歌だった。デルガの船乗りなら誰でも知っている旋律。蟲糸の弦が震えて、木の胴が歌う。
トウヤが目を丸くして聴いていた。
「いい音ですね」
私は棚の箱を見ていた。
音の出る楽器と、音の出ない箱。
あの楽器は渇いていただけだった。水を飲ませたら、音が戻った。
あの箱は、何に渇いているのだろう。
何を飲ませたら、音が戻るのだろう。
楽師が曲を終えて、楽器を背負って帰っていった。
工房が静かになった。
「リーネさん」
「何だ」
「あの箱も、渇いてるだけだったりしませんか」
「……わからない」
トウヤは、時々こういうことを言う。
私が考えないようにしていることを、まっすぐ口にする。




