#7 シニフィエとシニフィアン
普段の仕事と言えば、リア様のお食事の配膳とお茶汲み、そして掃除くらいである。リア様は植物の生まれ変わりかと思うくらいには一日中日向ぼっこしているので、そもそもそこまで部屋が汚れない。リア様は何か趣味で集めたりもしなければ、本を読むわけでもない。そのせいかイスカ様の家臣達に勤勉でないとまで言われてしまう。実際何故かリンゴォ氏はリア様でなく、私に勉強させるので、あながち間違っているとも言い難い。だからリア様と本という物の繋がりが思いつかなかったのだ。
「なんでしょう。これ?」
それは掃除中に見つけ出したものでした。
手帳サイズの本の中身を開いて見るとほぼ真っ黒く塗りつぶしたと勘違いするくらいにびっしりと書かれた文字の羅列がありました。
中身の文字を読んでみますが、「精霊界、物質界、代替的、力の奔流、進化、誕生」と難しい言葉が書いてあり、何が書いてあるのか見当もつきませんでした。
「あの。リア様」
わからないなら本人に聞けばいいのです。
「この本なんですか?」
「#?」
リア様に渡してみるとなんだか複雑な表情をした。喜んでいいのか、悲しむべきなのか、そんな表情だ。
「これ何の本なんです?」
正直言って内容は難解なものである。リア様が読むというよりは、リンゴォ氏が読むようなそんな難しそうなものでした。
「#$#」
「あげるってそんなこと言われましても」
リア様に難しい本はいらないのかもしれませんが、私にはもっといりません。
それでもあげようとするので、仕方なく貰っておきました。パラパラと流し読みしながら本を開いても何も頭に入ってきません。
「どうしたら?」
こういう時はリンゴォ氏に頼るのが一番です。リンゴォ氏にいろいろ教えてもらっています。リンゴォ氏ほど物事を知っている人はいません。
「そうだ。せめて著者が書いてないかな?」
リンゴォ氏が言っていました。わからないことがあれば、ずっと観察し続けることが大事だと。ずっと観察していれば、わからないなりに閃くことがあるのだと。著者を知ったところで私が知っているとも限りませんか。調べるアプローチとしてはよさそうです。
「え?」
私はその日からリンゴォ氏に会える日を待ちました。会おうと思えばいつでも会えますが、私の本業はメイドです。仕事をほっぽりだして会う訳にはいきません。
「リンゴォ氏、この本を見てくれませんか? リア様の部屋にあったのですが」
リンゴォ氏が受け取るとその本を注意深く見つめました。
「一体何の本だ? これは正直私にとっても難解な本だな。精霊魔術の専門書と言えば良いのか。私でも内容が3割理解できたら良いほうだな」
「リンゴォ氏で3割ですか!?」
「君は私ぐらいしか比べる人がいないからそう思うかもしれないが、私以上に頭が良いものなどいくらでもいる。私はその中で言語に特化しているだけだ」
「歴史だって、数学だってできるじゃないですか?」
「こんなものはできるという内に入らないよ。学者というものは自分の背より高い藪の中を彷徨うことを意味するんだ。僕が学んだ歴史や数学というのは、誰かが舗装した道を歩んでいるに過ぎない。それは素晴らしいことだけど、そこで終わりではない。いいかい、マリー君。学問というのは、関係ない分野に見えても大きな繋がりがある。例え学びたい学問が自分とは関係ないと思っても、だからと言って切り捨ててしまうことは愚者への第一歩だ」
私はメイドなので学者になる訳ではありませんが、その道に憧れない訳ではありません。
「もし、君が誰も踏み入れたいことがない分野を学んでみたいと思ったのなら、一つのことに集中するべきではない」
一つのことに集中するべきではない? そんなことはないとは思うけど。
「発見は誰かが舗装した道の上からはできない。概して舗装された道からの発見は誰かほかの人が既に発見しているものさ」
「は、はあ」
わかったようなわからないような。
「話が逸れたね。それでその本は一体?」
「あっ、そうなんです。その本の著者を見てもらえますか?」
リンゴォ氏に著者が書かれているページを開かせる。
「著者 リア・クローバー」
リンゴォ氏が読み上げたそれは俄かに信じがたいものである。
「流石にそんなことはないと思いたい」
リア様にそんな本が書けるとは思わないですし。
「仮に、仮にだが、リア君が本当に書いたとして、いくつか疑問が残る」
「いくつかですか?」
できないの一言で済むと思うんですけど。
「君は知っているかわからないが、リア君は文字が書けない。というよりは文字が認識できない」
「えーっと、それは文盲とはまた違うのですか?」
文盲自体は珍しいものではない。例えばディジーなんかは文章が読めない。でも、困ることはない。必要なら代筆屋に書いてもらえばいいし、私だって最近はいろいろ教えてもらったので読めるし、書けるようになった。案外喋ればなんとかなる。———リア様は喋ることすらできないが。
「喋れないリア君と最初のアプローチをしてみたときに、手話や筆談などは当然最初に試した。言ってはなんだが、リア君はこれでも高等教育を受けている。それこそ普通の言葉が喋れた5歳頃ですら、本を読んでいたというのだからね。文字が読めるというのは証明されている。だが、現在はどうやら読めなくなっているのだ。文字も読めないし、文字を書くこともできない。文字を教えてみたが、私が教えたとおりに真似ることすら難しい」
音は理解できても、文字がシニフェエとして認識ができない?
「そこで一つ仮説を立てたことがある」
「仮説ですか?」
「そもそもリア君は私たちが喋っていることは理解していないのではないかと」
「いやいやそんなことはないですよ。自慢じゃないですけど、リア様と喋れています」
「それじゃあ、実験してみよう。マリー君、今からリア君の話を別言語でする。君は言葉が分からないから全く理解できないはずだろう」
リンゴォ氏は何をさせたいのだろうか。そんなこと分かるはずがない。
「リア———(ディスペラント語で罵倒するスラング)」
私はリンゴォ氏が喋った言葉が何一つわからなかった。
「さて、僕は何を言ったかな?」
それなのに意味はわかったのである。
「リア様に文句、というか、悪口を言いましたよね」
「正解だ。次はどうかな。———(ディスペラント語でしかしを意味する言葉)リア(ディスペラント語で褒めるを意味する言葉)」
「ええと今度は褒めましたよね」
「正解だ。最後はどうかな? (ディスペラント語で今日の天気を話す言葉)」
「ええと、わかりません」
最後だけは全くわからなかった。
「最後は天気について話したんだ。でも、わからないことはおかしいことではない。そもそも言葉がわからないのだから」
「そうですね。むしろリア様についての言及はわかりました」
「シニフィエとシニフィアンは覚えているかね?」
「はい。シニフィエが物の意味で、シニフィアンは音や文字ですよね」
「この場合だとどう解釈できる?」
「えーっと、シニフィアンは私が知らない物でしたよね」
「知らない言語で話していたのだからそうと言えるかもしれない」
「でもシニフィエは「リア様」という私達が共有しているものでした。逆に「天気」という話題は私達は共有しているものではありません」
「つまりシニフィエを共有していたから理解できたと? シニフィエとシニフィアンが対になっているという話をしたと思うが、それはどう思う?」
その理論で言えば、今回の場合、シニフィアンは存在していない? いや。
「シニフィアンは「知らない言語」でも良いということですか」
私はシニフィアンは自分が知っている言語でしか存在し得ないと思っていた。そうか、シニフィアンとシニフィエがくっついている訳では無いのだ。
「あるいはこう言えるかもしれない。ジェスチャーや表情が言葉を伝える記号になっていたと。あるいはこう言えるかもしれない。シニフィエとシニフィアンという概念が間違っていたのかもしれないと」
「議論の前提すら疑うのですか?」
「そう言った取り組みもあるというだけだ。定義というものは物差しに過ぎない。我々の身長を測るのに手紙を測る物差しは使わないだろう」
「ですが定義を疑ったら曖昧になるのではないですか?」
「我々は言語という不定形で、未だに全貌も見えない曖昧さを学んでいる。学問として曖昧さを否定するのはいいことだが、曖昧さを許容しないとそもそも理解に辿りつけない。きっと言語には絶対性は存在しない。そして絶対性が存在しないということはそんなに悪いものじゃない」
リンゴォ氏はやっぱり私には考えもつかないような考えを持っている。
「また、話が逸れたね。それでリア君の話だ」
「そ、そうでした」
「リア君は僕らの言葉を全て理解している訳では無いと疑っている。でもだからと言って、全く理解ができないわけじゃない」
それはリア様の言語を理解しようとする私も同じだ。
「確かに反応がおかしいと思われる時がありました。言われると納得することばかりです」
リア様が怖がられる理由はきっと何かが決定的にずれてしまうからなのだろう。
「まあ、私がその本を書けないと思っている理由の一つだ」
「じゃあ、名前は別の人が書いたんですか? 何の為に?」
「いや、彼は5歳の時までは普通だった。ということは考えられる最も高い可能性は一つだろう」
少し考えたが思いつかない。
「えーっと。なんですか?」
「いや、普通に考えて落書きだ」
つまりまるで自分が書いたみたいに、この難しい本に名前を付け足したってことか。
「あっ、思いつきませんでした」
「彼が5歳でそれを書いたとかでなければそうだろう」
5歳でこれを書く。リンゴォ氏が理解できないものを書くなんて俄には信じがたい。
「スッキリしました」
「うん? そうか」
「これどうしましょう。私には無用の長物ですよね」
「そうは言わず読んで見れば良いんじゃないか?」
「え?」
「さっきも言っただろ。この世の物事は全て繋がっている。学問に無駄はないと」
そうだ。さっき言われたばかりだ。
「それでもいらないというなら私が預かろう。最初の一歩としてはその本は難しすぎるしね」
「いえ、やっぱり私これ読んでみます」
「そうか?」
「はい」
「リア君は精霊魔術を使えないだろうし、僕も暇になれば読むだろうし良いんじゃないか?」
「リア様って魔術に関しては天才的なんですよね。どうして精霊魔術が使えないんですか?」
「本人に聞いたわけではないが、使えないんじゃないか? 精霊魔術は他の魔術よりも必要な要素が多い。魔術陣のみで事足りる現代魔術と違って、口語による魔術句が必要となるはずだ」
「魔術についてよくわからないんですが、呪文が唱えられないから駄目ってことですか」
「概ねそうだ」
「まあ、精霊魔術なんて現代で有用視されてないし良いんじゃないか?」
「一見関係無いように見えることもって言ってませんでした」
「それは学問の話だろ。魔術は武器だよ。武器にはこだわりよりも合理性があるべきだ」
「なるほど?」
「まあ、僕がそんなこと言うよりリア君の方がそこら辺詳しいがね」
「リア様ってどれだけ強いんですか」
「う~ん。まあ、簡単に言えば最強だ」
「最強ですか」
最強という単位よりもよくわからないものはない。リンゴォ氏は学問以外の質問は結構適当に答えるのだ。
昔、お父さんとお母さんが生きていた頃の私は今じゃ想像もできないくらいわんぱくだったという。
興味があるものは突っこんでいくし、興味がないものは見向きもしない。
お母さんに怒られようが、お父さんに叱られようが気にしもしない。
そんな私が注意深くなったエピソードがある。
「なにこれ?」
それは家にあった壺をたまたま見ていたときだった。
壺なんて子供が見ても面白い要素はない。しかし、それを見たとき、壺の中が光ったような気がしたのだ。見間違いかもしれないと壺の中を見ると確かに鮮やかな緑色の光があった。
私はこの不思議な光を手に取りたいと思った。
壺の中に無遠慮に手を突っ込む。しかし、何もそこにはない。
「なくなっちゃった?」
そんなわけはない。壺に穴でも開いてなければ出ていくはずがないのだ。
もう一度中を見るが、何も光るものはない。奥に何かないか見るが、壺が暗すぎて見えない。
見えないならしょうがないと思う私ではなかった。
暗くて見えないならば、顔を壺に突っ込めば見るかもしれない。(その時の私は自分が見ている世界の通りになると思っていた。だから、明るい部屋にいるから見えているものもくらい壺の中でも見えると思ってしまったのだ。)
当然真っ暗で中は見えない。
見えないならこの壺には興味がない。
「あ、あれ?」
抜けない。
すーっと危機感が私の体の中をせり上がって来た。
「お、お母さん」
私は力一杯呼んだ。壺の中で反響して声がくぐもった。
「はーい。って何やってるの!?」
「壺の中見たらこうなっちゃった」
「何を見たらそんな馬鹿なことを思い至るの?」
母は壺を取るとそのまま引っ張った。
「痛い!」
「そんなこと言ってもこうしないと抜けないでしょ」
「痛い! 痛い!」
しかし、首が取れてしまうかもしれないくらい痛い。
「抜けなかったら一生そのままだからね」
「え?」
「お父さん呼んでくるから」
抜けなかったらこのまま。
前は見えないし、音は聞こえづらい。これじゃあ、ご飯も食べれない。そう思うと急に泣きそうになってきた。
「うう〜〜〜〜」
いや、泣き出した。
「どうしたマリー!」
泣き出す私に誘われる様にお父さんがやって来た。
「壺が抜けないの」
「わかった。今抜いてやるから」
「嫌だ。抜くの痛い!」
「と言ってもな」ああ、わかった。母さんハンマー持ってきて!」
「割るの?」
「しょうがないだろ。壺とマリーどっちが大事かなんて考えるまでもないよ」
「ハンマーって何? 怖い」
「我慢しろ」
「叩くの怖い」
「そんなこと言っても抜けないだろ」
呆れたようにお父さんは言った。
「何だか息吸うの辛くなってきた」
「うーん。まずいな酸欠を起こしているな」
「さんけつ?」
「人間ずっと同じ場所の空気を吸っていると調子が悪くなってしまうんだ」
怖がる私を無視してお父さんは私を机の上に置いた。
「安心しろ。マリーを叩いたりしないから。目を瞑っていろ」
そう言われて目を瞑ると頭に衝撃が来た。壺は思ったよりも硬いらしく何度も叩いてやっとヒビが入った。そこからノミとハンマーで何度も叩いてやっと壺が割れた。
久しぶりの光はとても安心できるものだった。それでも心が落ち着かず、お父さんに抱きついた。
「なんで壺の中に入った?」
お父さんは優しい声だったが、怒られているみたいで怖かった。
「⋯壺の中が光っていたの」
「壺が? そんなわけ———」
否定されるとは思っていた。
「でも、本当に見たの」
「ああ、いや、お父さんも小さい時見たことがある。それは精霊だ」
「せいれい?」
「うん。なんて言えばいいかな。ずっとそこにいるわけではないけど、いつの間にかそこにいたりするんだ。う~ん。お父さんも精霊魔術が使えたら良いけど、才能がなくてな。自然物の代弁者なんて言ったってわからないだろう」
「だいべん? うんちするの?」
「あはは、違うよ。まあ、生きていればまた会うこともあるさ」
「また会えるの?」
「マリーがいい子にしていればね」
「⋯そしたらいい子にする!」
「うん。じゃあ、まずすることは?」
そう言って割れた壺を指差した。
「⋯ごめんなさい」
「よし、壺は片付けておくから母さんのところに行ってきて」
「うん!」
それが私の中の唯一の精霊の思い出。
「ふふ」
「どうしたのマリー? いきなり笑って」
同室のディジーが私に問いかけてきた。
「何でもない」
そう言って私は本を開いた。
これがあれば精霊魔術を使えるかな?
使用人の宿舎で夜にこれを開くのを日課にしていた。
まだ、内容は1ミリもわからないけど、そのうちわかるようになったら、精霊に会ってみたい。私は本を開いて1ページ1ページと捲った。多分、1年後だって理解できているか怪しい。でも、読み進めていけばきっと———
「マリー何してるの? って寝てるし」
そんな私の思惑とは反対にただの睡眠導入剤にしかなっていなかった。




