反射しないように
「千草ちゃん元気そう?」
母が、ソファーでゴロゴロとスマホをいじる静佳に心配そうに尋ねた。
「うん覚悟はしてたみたいだし、ちゃんと学校来てるよ」
「そう、ならいいのだけど。またいつでもうちに呼んでいいからね」
「分かってる」
千草のおばあちゃんがこの前亡くなった。特に何か病気があったわけではない。眠るように朝起きたら天国に行ってしまったらしい。泣き腫らした真っ赤な目元で千草が教えてくれた。
「おばあちゃんも何か自分の死期を悟ってたみたいだし」
そうは言っても悲しみは変わらないだろう。静佳は千草を抱きしめた。背中をさすり、どうか彼女を守ってくれと祈った。
この体がこれ以上細くなりませんように、この子がこれからたくさんの幸せを享受できますように。あの後神社にも行ったのは千草には秘密だ。
彼女の両親は早くに車の事故で亡くなり、それから千草はずっとおばあちゃんに育てられた。小学校の時に引っ越してきてからブルーハイツの五階で、おばあちゃんと二人暮らしを続けてきたそうだ。
静佳が千草と会ったのはその小学校の時で、あれよあれよと高校二年生まで関係が続いている。彼女は甘えたなところもあったが、どこか妙に達観しているところもあって付き合いやすいタイプだった。
うちの両親はそんな彼女を私以上に気にかけ、中学校の頃から私はしょっちゅう千草の家に泊まりに行った。もうほぼほぼ実家である。なんなら合鍵だって持っているのだ。親友というより家族の方がしっくり来る。
葬式やら諸々の手続きが済むまで、ほとんど毎日彼女の家に泊まったが、落ち着いた今は大体週三ペースでお邪魔している。
「ただいま」
「ただいま〜」
二人の声が玄関に響く。手にはファストフード店のビニール。新商品が出たとのことで、今日は自炊なしになった。
静佳は中身を取り出し、千草と入れ替わるように洗面所へ向かう。手洗いは大事だ。インフルが流行る時期になってきたし。
「お、当たりかも」
先に一口齧っていた千草が嬉しそうに目を細めた。
「まじ?」
「これはいい海老使ってますねぇ」
海老カツが大好物の彼女だが、結構お気に召したようだ。
「確かに、ぷりぷりだわ」
海老カツバーガーを噛むたびに、衣のサクサクとした音と、海老のプリプリとした食感が口いっぱいに広がる。
千草がポテトに手をつけるより前にバーガーを食べ終えたのを見る限り、よほど美味しかったのだろう。静佳は少しホッとした。食欲はちゃんとあるみたい。これ以上痩せられると、そろそろ風に飛ばされそうだ。
静佳は食べ終わったゴミを片付けながら、閉め切られたドアについて考えていた。リビングの奥には二つの部屋がある。片方が千草の部屋、静佳が泊まる時はいつもここで寝ている。もう一方がおばあちゃんの部屋だ。
以前は基本的にどっちのドアも開きっぱなしだった。確固たるプライベートゾーンが欲しい静佳には考えられないが、別に閉めなくてもお互いの生活音は気にならないし、何よりトイレへ行く時にいちいち開けるのが面倒だそうだ。大雑把な彼女らしい。
それなのにおばあちゃんの部屋だけが、あれから閉まったままである。千草は「部屋の片付けをしている」と話していたが、それにしてはもう一週間もドアが閉まったままだ。千草の性格からして、そんなに几帳面なわけがない。
静佳はさりげなく尋ねた。
「そういえばさ、おばあちゃんの部屋まだ片付け終わらないの?」
お風呂の準備から戻ってきた千草は、一瞬、静佳の顔から視線を逸らした。その表情は、どこかこわばっているように見えた。
「うーん、あれね…」
話そうかどうか悩むように、千草は意味のない言葉を繰り返した。
「あぁ〜聞きたい?」
「何やばい話なの」
静佳の知る限り、おばあちゃんは優しくて穏やかで、変な趣味とかも無かったし、そこまで口籠るような何かがあるように思えなかった。宗教に傾倒したことも無いはずだ。
「やばいっていうか何ていうか」
「言い辛いならいいよ別に」
「でもこれからも泊まってくれるんでしょ?多分知っておいた方がいい思うから」
そう言ってドアノブに手をかけた。静佳は荒れ果てた部屋を想像して、少し緊張したが、中はきちんと片付けられていた。記憶の中の部屋とほとんど変わっていない。
ただ一つを除いて。
「あれなんだけど」
「仏壇じゃないの?」
小さなキャビネットの上に、黒々と輝く四角い箱があった。ただ扉は閉じられ、その前に優しく微笑むおばあちゃんの写真とコップが二つ供えられている。
「多分。開けたことないから」
千草の言葉に、静佳は違和感を覚えた。仏壇は、故人を供養するための場所だ。普通は扉を開け、いつでも故人と向き合えるようにするものだろう。しかし、千草は開けたことがないという。
「ああいうのってずっと開けておくものじゃないの?」
「いや普通はそうだと思うんだけど、おばあちゃんが絶対開けるなって」
千草も困ったように言葉を詰まらせる。
「それにあのコップの中身何?」
静佳は並んだ二つのコップを指差した。
「あれもおばあちゃんの言う通りにしてるの。墨を供えてくれって。水は私が勝手に用意したけど」
静佳はぞっとした。普通じゃないはずだ。水ならまだしも、墨を供えるなんて。仏壇と同じ色をした液体と水の対比が、何とも言えず気味が悪い。カラー写真だけが一際鮮やかで、異様だった。
彼女のおばあちゃんは別に書道家でも無かったのに何で。
「毎朝墨汁入れてるの」
「まぁたまに手間をかけた方がいいかと思って墨をすることもあるけど」
「おばあちゃんに理由は聞かなかったの」
「うん。自分でも何でか分かんない、そういう雰囲気じゃ無かったのかも」
素直に言いつけを守っているみたいだが、本人もその理由を知らないらしい。細かいことを気にしないのが彼女の美徳だけれど。
「ああでも何かもし扉が開いたら、墨かけろって…」
言ってて自分でも、おかしいと分かっているのだろう。苦笑いを浮かべた。
「中に何が入ってるの」
「分かんない」
千草の様子を見る限り、素直な彼女は今後もおばあちゃんの言葉に背くことはしないだろう。静佳もまたあれに触る勇気はなかった。
「手だけ合わせてもいい?」
「うんおばあちゃん喜ぶと思う」
静佳は、千草の言葉に小さく頷き、写真の前で静かに手を合わせた。その間も後ろの仏壇が不気味で、指先が震えるようだった。
おばあちゃんの写真だけが安心感を与えてくれる。
「おばあちゃん、静佳のこと大好きなの。だから静佳が来るって言うと、いつも喜んでたんだ」
千草は、仏壇の前の墨の入ったコップをじっと見つめ、そう言った。その瞳には、悲しみとそして、どこか言いようのない感情が混ざり合っているように見えた。
「だからさ、静佳」
千草と静佳の視線が交錯する。
「…もしも夜中にこの部屋から何か音が聞こえても、絶対に開けないで。何かあったらその墨ぶち撒けていいから」
千草の瞳の奥には、恐怖の影が宿っていた。
「音?」
「そう。おばあちゃんが言ってたんだ。もしも扉が開いてもそれはおばあちゃんじゃないからって」
千草の言葉に、静佳は戦慄した。この箱に、一体何が封じられているというのか。そして、なぜ、墨を供える必要があるのか。千草の言葉と、この部屋の異様な雰囲気が、静佳の心に不穏な影を落とし始めた。
静佳が部屋から出ると、千草はドアを閉めた。その視線に気付いたのだろう、千草が疑問に答えるように言った。
「手を合わせる時以外はあんまり入らない方がいいから。それに無理して合わせなくてもいいからね。こうやって泊まりに来てくれらだけで、私もおばあちゃんも十分救われてるから」
いつもありがとね、と照れ臭そうに笑って千草はお風呂へと消えていった。けれど静佳は呆然とした気持ちだった。スマホをいじりながら順番を待ったがその間あの仏壇が頭から離れることはなかった。
いつか自分が扉の先を見ることになるような気がしてならない。そんな予感がした。
静佳は、それ以来、あの部屋には一人では極力近づかないようにしていた。千草も、無理に部屋に入ろうとは言わなかった。毎朝千草が水と墨汁を入れ替える時に一緒に手を合わせるのが精一杯だった。
千草は何も感じていないのだろうか。それともただ恐怖を押し殺しているだけなのだろうか。静佳は仏壇を視界に入れないよう必死だというのに。
それから静佳の恐怖心は消えないものの穏やかな日々が続いた。千草の家に泊まりに行っても、夜中に物音を聞くといったことはなかったし、何より隣には必ず千草がいた。
おばあちゃんの意図は分からないけれど、千草が知らないだけで若葉家には代々そういった習慣があるのかもしれない、そう思おうとしていた。
千草も、祖母の死を乗り越え、少しずつ以前の明るさを取り戻しているように見えた。
しかし、その平穏は、ある日突然破られた。
その日は、千草が修学旅行の係でつかまり、静佳の方が先に千草の家に帰ることになった。合鍵を使って、静佳は慣れた手つきでドアを開けた。
「ただいま」
誰もいない部屋に、静かな声が響く。リビングはいつも通り、どこか散らかったままだがそれもまたいつもの風景だ。
静佳は、手洗いのため洗面所へと向かった。千草が可愛いといった肉球型の泡が出るハンドソープで手を洗いながら、静佳は、修学旅行のバスの座席がどうなるか千草が帰って来たら聞こうと考えていた。
出席番号順じゃありませんように。せっかくなら仲がいい人同士で固まりたい。それかせめて席移動が自由でありますように。
リビングに戻り、静佳はいつものようにソファに腰を下ろした。その瞬間水音がした。ビシャっと地面に打ち付けられたかのような。揺れでコップから水が溢れるような。そんな音だった。
静佳は嫌な気配がした。と同時にその正体が目に飛び込んできた。
仏壇…
何でこんなところに。
千草が今朝ここに置いたのだろうか。おばあちゃんの部屋にあったはずなのに。
千草がこの重い箱を、わざわざリビングに運び出した?
いやそうだとしてもこれはあり得ない。地べたにそのまま置くなど、そんな非常識なことをする子じゃない。わざわざドアの前に置いておく意味が無いのだ。一旦持ち出すにしてもテーブルがここにあるのだから。
静佳はそれから視線を離せなかった。スマホで千草にLINEで聞こうと思うのに、体が動かない。スマホはすぐそこにあるのに。
どれほどそうしていただろうか。何をすることもできずただ見つめる。だんだんと部屋も暗くなってきた。日が沈む。自分の心臓の音だけがこだまする。
電気、電気をつけなければ。真っ暗になる前に電気をつけよう。
動かない体を叱咤する。
しかし事態は悪くなる。ギ、ギ、とどこからそんな音が鳴るのかと疑問に思うほどの大きな音を立てながら、ぴったりと閉じられていたはずの扉がズルズルと緩んでいくのが分かった。
静佳は息を呑んだ。
「おばあちゃんが絶対開けるなって」気まずそうに話してくれた千草の声がフラッシュバックする。
開けるなって、勝手に開く場合はどうすればいいの!?自分で開けなければ大丈夫なの?
いやそんなはずはない。だって、、、
ゆっくりとしかし着実に隙間はどんどん広がっていく。
墨よ、とりあえず墨を。しかし千草が用意したものは部屋の中。あの仏壇を越えなければならない。そんなのは無理。
視線を必死に彷徨わせると、キッチンにある墨汁が目に入る。
あった、あった、あった。
中学に使ったのが最後の、あの緑のキャップがついたボトルが。
静佳は、震える脚に力を込めた。腰を抜かしてる場合ではない。
キッチンまで、一歩、また一歩。仏壇から視線を逸らさぬように、しかし一刻も早く、墨汁を手に入れなければならない。
全て開くと何が起こるのか、中には何があるのか。どちらも分からないけれど良いことではないのは確かだ。
プラスチックのボトルを鷲掴みにし、キャップを回し、隙間に捩じ込んだ。躊躇なく手に力を込めれば勢いよく黒い液体が飛び出していく。
「あっ」
墨汁はちゃんとかかった。けれど静佳は中のものと目があった。見てしまった。
そこからの静佳の行動は早かった。扉を押さえその上に身を乗り上げた。あんなに重そうだった扉が拍子抜けするぐらい、簡単にぱたりと閉まった。
「はっはぁっ」
罰当たりで結構。もはやそんなことはどうでも良かった。静佳の呼吸は溺れたかのように荒く激しい。気持ちの悪い汗が背中をつたって、寒気を走らせる。
「ただいま〜」
「紐持ってきて!」
何も知らずに帰って来た千草の間延びした声をかき消すように、静佳は怒鳴った。
千草はビクッと体を揺らしたものの、黒い物体に静佳が足で体重をかけているのを見て、鞄を放り出す。
「紐、紐、紐」
譫言のように繰り返しながら、キッチンの引き出しを片っ端から開けていく。荒い足音が部屋に響いた。お目当てのものは無かったらしく、千草は静佳の横を抜け部屋に飛び込む。
「これでいい!?」
手当たり次第に探し、千草が持ってきたのはスーツケース用のベルトだった。目印になるようにとキャラクターがでかくプリントされたものだ。
静佳は足を下ろして手で強く扉を押さえ、横から千草はベルトできつく縛り上げていく。ぎゅっぎゅっとこれ以上伸びないのを確認して、静佳は体勢を戻した。
「お寺行くわよ」
まだ気を抜いてはいけないと、静佳はすぐさま立ち上がった。大きなレジ袋を一枚引っ張り出し、玄関へと急ぐ。千草は窓を全て閉め、コンロも確認し、静佳を追いかけた。
ガチャンと音がしたのを合図に、静佳は階段を駆け降りる。ここは五階、エレベーターを待つ時間が惜しかった。バタバタと非常階段の音が建物内に響き渡る。
お寺に向かう最中、二人は何も喋らなかった。
静佳と千草は、息を切らしながら寺の門をくぐった。門前には大きな楠木がそびえ立ち、その葉が風に揺れる音だけが、二人の荒い呼吸音に混ざり合う。
静佳は千草を振り向くと、震える声で言った。
「千草、私…全部話すから」
千草は頷いた。その瞳には、恐怖とそして静佳への絶対的な信頼が宿っていた。
二人が住職の元を訪れると、突然の来訪にもかかわらず住職は話を聞いてくれた。仏壇が勝手に開いたこと、そして、墨をかけるという奇妙な言いつけ。静佳がすべてを話し終えると、住職は深く頷き、「私が預かりましょう」とビニール袋を受け取った。
「あの、静佳は大丈夫なのでしょうか」
心配した千草が住職に尋ねた。
「見たところ何か悪い気配は感じないので安心してください」
二人はお礼をしてから、今度はゆっくりと帰路へ着いた。
沈黙を切り裂いたのは千草だった。
「見た?」
静佳はわざと住職に話さなかった。仏壇の中身を。何を見てしまったのかを。隣に並んだ千草の目を探るようにじっと見つめた。
「鏡」
「え?」
「鏡しか無かったわ」
仏壇の中には、位牌もおりんも線香だって無かった。千草の両親の遺影も無かった。本来あるべきものは何一つ無く、空っぽだったのだ。
ただ奥に鏡がぴたっと貼られていた。それは囲うように四辺が黒く塗りつぶされており、鏡に映った私はまるで、、、
それきり黙り込んだ静佳に声を掛けることができず、千草はそっと手を握った。もうこれ以上この話をするのはやめよう。
だって解決したのだから。もう同じことは起きないはず。しばらくはこの調子かもしれないけれど、今度は私が励ます番だ。
きっと大丈夫。解決したんだ。
千草は、そう信じようと握った手に力を込めた。