第8話 異端狩りと嵐の到来3
まだ、神が世界に現れるずっと前。僕が幼かった頃。
僕は人と喋ることができなかった。
僕が何か喋ると同い年の子供は泣き出し、大人たちは顔をしかめた。
僕はそれが悲しくて、喋ることをやめ、家に帰っては親にそのことを相談した。
「うるさいわね、消えてよ、もうっ」
「ぶっ殺されてぇのか、くそがき」
両親はいつもの口調でそう言って、僕にとってあまりに聞きなれた日常会話だったから、外に出ては同じような言葉を使った。その言葉の意味を、僕は一種の挨拶のように思っていた。そうしてまた喋れば喋るほど、僕の周りから人がいなくなっていった。
そんな中で、唯一彼女だけが、理恵だけが、僕の話し相手になってくれた。
「雪、だめだよ、そんな言葉使っちゃ」
小さい頃の理恵は髪をくくっていて、いつもその形を気にしていた。お母さんにやってもらったから崩したくないって。そのときも、ヘアバンドを一生懸命調整しながら僕の話を聞いていた。
「え、だって、お母さんもお父さんも、同じこと言って」
「だって、それは悪い言葉なんだよ?」
とうとう自分で直すことを諦めたのか、ヘアバンドから手を放して理恵は言った。
「悪い……言葉?」
「そう、悪い言葉、だよ」
そう言って、理恵は僕を自分の教会に連れていき、理恵の両親の礼さんと恭子さんに会わせてくれた。理恵は帰るなり恭子さんに抱きついて、いいこいいこしてもらっていた。
涙が出た、突然に。
右腹の殴られたあざが、ひどく痛んだのを覚えてる。
どうして、こんなに違うのか、違ってしまっているのか。
温かい触れ合いも、優しい言葉も、真逆のものを見て、知って、ようやく僕は自分の家の状況を理解した。
知りたくなんてなかった。
あのとき、僕は理恵のことを妬み、恨み、そして。
ふと、頭に柔らかな感触がして、前を見ると、理恵が自分がお母さんにしてもらったように僕の頭をなでていた。
「いいこ、いいこ」
理恵に、救われた。
「雪……、どうしたの?」
昔のことを思い出していた僕の顔を覗き込んでくる理恵の顔が近くて、思わずのけぞる。
「い、いや……」
「あっ、明菜さんのこと考えてたんでしょ?」
にやぁっと意地悪な笑顔を浮かべる。
「やだなぁ、もう、午前中からでれちゃって」
何となく、さりげなく、こともなく、理恵はその話題に触れてくる。僕の恋人のこと。
応援してるよって、その笑顔は言っている。けれど、今朝、僕が見たあの笑顔は、助けを求めているように見えるくらい、崩れてしまいそうだった。
いっそ、僕のことなんて、どうでもいいって言ってほしい。お前が誰と付き合おうが、どうでもいいって。
きっと僕にとっては辛い言葉だろうけど、それでいいんだ。そうやって、軽んじられながら、一切傷つけることなく君を守れたら。
息をするように君を裏切れたら。
昼休みになると、僕は隣のクラスの明菜に連れられて、屋上に行く。
教室を出るとき、いってらっしゃいっていう理恵の笑顔を、僕はまともに見れなかった。
屋上は肌寒い風が吹いているものの、日光が当たってとても気持ちよかった。
「はい、雪君、お弁当」
柵の近くで腰を下ろして街の景色を見ていると、にこにこ笑顔でお弁当を差し出してきた。無造作に口に入れると、
「おいしい……」
できすぎる自分の彼女が、僕は少し怖くなる。
「明菜……」
「何、雪君?」
「もし、別れようって言ったらどうする?」
「殺します」
その声がどこかで聞いたことがあるような冷たい声で、食べかけていたご飯がのどにつまる。
「殺すか」
「はい」
「まじで」
「冗談よ」
にこっと微笑んでくれた。いつもの明菜に戻ったので、ほっとしていると、
「一割くらい」
九割は本気ってこと?
その笑顔がよけいに怖くなり、僕は聞かなかったふりをして話題を変えた。
「そういえば、僕らが付き合ってから、もうすぐ一年になるね」
街の景色は、この一年で変わり果ててしまった。遠くに見えた高層ビル群のほとんどは倒壊していた。メフレグ主義者のテロが相次いだここ首都は、機能停止に陥り、首都移転を余儀なくされた。今は西側に移転したと聞く。
機動隊が出動しても、ここの暴動は収まらず、この街はただの無法地帯と化した。けれど、その勢力図を一人で書き換えた少女がいて、だから彼女は名実ともに救世主となった。
「ずっと聞きたかったんだけど、どうして私と付き合ってくれる気になったの?」
明菜が僕に問う。
一年半前、この高校に入学した当初から明菜は僕に付き合いを申し出ていた。理恵のことが好きだったから、もちろん何度も断った。けれど、あの日がやってきて、僕は神と契約しなければならなくなった。
理恵を、救世主を裏切る契約を。
そのきっかけとして、明菜は都合が良かった。タイミング的にも、度合い的にも。
自分のくずみたいな考えに再び吐き気を覚えて、箸を置いた。ほんと、ろくな死に方しないだろうな、僕は。
「なぁ」
だから、
「君はどうして僕と付き合いたいと思ったんだ?」
一番卑怯な方法で、この場を切り抜けよう。
「僕みたいなやつ、君みたいな良い子がどうして付き合いたいと思ったんだ?」
明菜は純真な子だから、きっとかわいらしい答えが返ってくるのだと思ってた。
「それは、雪君が、須々木さんのこと大好きだったからよ」
全く予想していなかった答えに、瞬きしてからもう一度聞き返す。
「え?」
「あなたが出会った当初から須々木さんしか見ていなかったから。だから、こっちに向かせたくなったのよ」
何て言っていいか分からずぽかんとしていたが、明菜がころころと笑い出して、ようやく我に返った。
「……それって、別に僕のことを好きだったとかじゃなくて」
「さぁ、そこはどうでしょう?」
はぐらかすように微笑む明菜に、苦笑する。
所有欲、いや、略奪欲ってこと?
やれやれと大きく首を振ってから、降参するように両手を上げる。
「君って怖い女の子だね」
でも、その方が気が楽だよ。
これで、一つ僕の罪悪感は消える。
ほっとした僕の様子を見て、明菜の表情が曇る。
「否定は……、しないんだね」
「……え?」
「……雪君は、馬鹿な男の子だね」
ぷいっとそっぽを向かれてから、僕は困ったように頭をかいて言った。
「うん、知ってるよ」