第5話 交差点の向こう5
礼さんがお風呂から上がってきたので、僕はお風呂に入ることにした。
理恵が寝室に入る前に、言った。
「私、明日は弥生の手伝いするために早く家出るから」
「分かった」
「朝ごはんは、今日の夕飯をアレンジして作っておくね」
突然胃が痛くなったのは、気のせいにしておこう。
お風呂から上がり、自分の部屋に行ってベッドの上に倒れこむ。ふと、通学鞄から振動音がしたので、スマホを取り出す。
明菜からだった。
「……もしもし」
「あ、雪君?」
スマホの向こう側から、明るい声が聞こえてくる。僕は気が重くなって、ついつい声を低くしてしまう。
「うん」
「あ、ごめん……。寝てた?」
「いや、違うよ。どうしたの?」
「いやぁ、なんか声が聞きたくて」
なぜ?と聞き返す寸前で、思いとどまる。ああ、そっか、僕ら、恋人同士だからか。
「僕も、」
くだらない嘘に塗りつぶされてゆく。そうして、僕はどんどん理恵から遠くなる。
「僕も、声が聞きたかった」
「ほんとにっ?」
嬉しそうな声が耳をくすぐる。僕はうつろな目で天井を仰いで、続ける。
「ほんとだよ」
「嬉しい。ありがとう」
「どういたしまして」
へどろのような汚い何かが胸の奥でうごめいている。吐き気がする。自分自身に。
「やっぱり、スマホ使えるっていいねぇ」
「え?」
「だって、メフレグ主義に乗っ取られた街じゃ、電波使えないんでしょ? 政府が怒って止めちゃうんだって。多くの街がそうなっちゃったらしいよ」
「……そっか」
「やっぱり、これも須々木さんのおかげだねぇ」
ここで理恵のことが出てくると思わなくて、言葉に詰まる。
「……」
「……どしたの?」
「いや、何でも。それより、明日、少し早く学校に行かないか?」
「え、いいけど。どうして」
「何となく、早起きしたい気分なんだよ」
翌朝、僕は理恵が出て行く音を聞いた直後にベッドから起き上がった。急いで学校の制服を着て、通学鞄を持って下に下りる。
「あれ、今日は雪君も早起きする日でしたか」
礼さんがまだ眠そうな顔でぼんやりと僕を見る。
「ちょっとね。約束があるんです」
「明菜さんとですか。いいですね、若さっていうのは」
「ははは」
力なく笑ってから、ついていたテレビを見ると、昨日の夜に僕が男を連れ出した公園が映されていた。
「殺人事件だそうですよ。首のない男の死体が発見されたって。この近くなんで、雪君も充分に気をつけてください」
「ああ、そうですね」
通学鞄を肩にかけ直して、呟く。
「本当に、物騒な世の中ですね」
そのまま出て行こうとすると、礼さんが僕を呼び止めた。
「雪君、朝ごはんは?」
見ると、昨日よりも真っ赤になった料理がずらっと並んでいる。
なんて余計なアレンジを……。
「今日は、おなか減ってないから……」
「雪君、私をお見捨てになるのですか?」
迷える子羊のような顔をする礼さんを尻目に、僕は走り出す。
「ごめん、礼さん!」
「せ、雪君!」
礼さんの悲鳴を背中に、僕は家を飛び出した。
走りながらいつもより近道して、明菜との待ち合わせ場所である学校前の交差点にたどり着く。
「おはよう、明菜」
息を切らしてきた僕を見て、明菜は全身から喜びをみなぎらせる。頬が赤くなって、恥ずかしそうにうつむいて、それから思いっきり微笑んだ。
少し短めの栗色の髪の毛が、明菜の感情を表現しているかのように揺れる。
「おはよう、雪君!」
きっと、僕が走ってきたのを別の理由だと思ったのだろう。それでいい。誤解を抱いた彼女の肩に、そっと手を置く。
「え」
明菜が驚く声を上げる前に、僕は彼女を抱き寄せた。そのまま小さな顔を胸にうずめさせる。
「せ、雪君……。どうしたの……?」
「ちょっとだけでいいんだ」
彼女を抱きしめたまま、僕は力なく言った。
「ちょっとだけ、このままでいてほしんだ」
彼女は緊張したのか震えていたけど、やがて力を抜いて僕へと体重を預けた。
「ごめん」
謝った。恥ずかしい思いをさせたとか、そんな生易しいものじゃない。
僕は嘘をついた。
「いいよ、雪君となら」
明菜は自分の鼻を僕の胸にこすって鈴のような声で笑った。
僕はそれを聞きながら、目の前で立ちすくむその姿を虚ろな目で見つめた。
「ごめん」
そして、僕はもう一度呟いた。
理恵が、交差点の向こうから僕らを見ていた。呆然として、それからとても悲しそうに微笑んだ。
理恵の心が砕ける音が聞こえた気がした。
僕も心臓を握りつぶされるような痛みを感じた。
できることなら、理恵、君を抱きしめたかった。君を、君だけをこの手で息が止まるくらい強く。
けれど。
昨日、僕は君を守るために力を使ってしまった。だから、神との契約を果たさなければいけない。
そして、僕が契約してしまった神は、君の敵で。それ以外に、あの日の僕には選択肢がなくて。
理恵の瞳にどんどん涙がたまっていく。僕はそれを、じっと見つめる。その涙をぬぐってやることも、僕には許されない。
道路で隔てられた短い距離が、無限のように感じる。この交差点は、僕らの宿命のようで。君は救世主で、僕はユダで。君は僕のために祈って、僕は君に救われて。
そして、何より僕は君が大好きで。君に笑ってほしくて、君に生きてほしくて。
だから、僕は。
空を仰ぐとそこには十字の剣を突きつけられた太陽が見えた。
君を裏切る。
それが、僕のメフレグ。