第3話 交差点の向こう3
買い物をしてから、理恵と二人で教会に帰る。
街の外れにある教会は、住宅を改装したとても小さなものであるのだが、それでも今日も大勢の人が来ていた。礼拝堂に入れずに外で祈っている人もいる。
理恵の姿を見ると、次々と押し寄せてそれこそ神のように崇める。
「ああ、救世主様……」
「我々の女神……」
「どうか世界を、私たちをお救いください」
中には、外国人も混じっていて、理恵の手を取って拝んでいる。
「理恵、雪君」
礼拝堂の中から声がした。
人だまりを掻き分けながら前に進むと、牧師の正装をした礼さんが立っていた。眼鏡をかけた温厚な笑顔でいつも僕らを出迎えてくれるこの人を、僕は本当に父親のように思っている。
「おかえりなさい」
「ただいま」
理恵が大きなスーパーの袋を掲げて見せる。
「お父さん、今日はちょっぴり辛めだよ」
途端に、温厚な笑顔が引きつる。
「え、ああ、いやっ、今日はそんなに手間かけなくても普通で……」
「早速、作ってくるねー」
ぱたぱたと駆け足で礼拝堂の奥の扉の向こうに消えた理恵を見送ってから、礼さんと僕は顔を見合わせた。
「我らに、神のご加護があらんことを……」
夕方は参拝しにきた人たちの誘導、後片付け、献金の整理の手伝いなどでてんてこまいだった。日が沈んでようやく誰もいなくなると、礼さんと二人で礼拝堂の奥の僕らの居住区へ移動する。
小さなキッチンのテーブルには、すでに夕飯が用意されていた。
「こ、これは……」
全て真っ赤に染め上げられている食材たちと胃袋をひりつぶすスパイシーな香りに僕も礼さんも絶句する。
「ちょっとだけ、味濃いかもしれないけれど」
てへへと理恵は照れ笑いする。
僕はすでに半泣きになりながら、椅子に座る。
理恵、君は清楚で美しくてかわいくて、そりゃあもう完璧なのに……、料理、料理だけは……!
「い、いただきますっ」
僕と礼さんは意を決して箸を動かし、そしてそれから小一時間、悲鳴が食卓に響き渡った。
「み、水を……、水をくれ!!」
「ぐはぁ、なんだこの辛さ、いや辛さというか痛さは!」
「おかわりありますよー」
「もう、勘弁してください!」
「こ、殺されるところだった……」
舌を出してひぃひぃ言いながら、僕と礼さんは食卓の椅子でぐったりしていた。
理恵はお風呂に入っている。
「や、やっぱり料理は僕が……」
半ば懇願するように提案してみるが、
「い、いや、理恵もやる気を出しているようですし、だんだんうまくなってくると……。それに、」
礼さんはずれた眼鏡をかけ直してから、まっすぐに僕を見つめる。
「雪君には、いつもいつも十分すぎるほど手伝ってもらっています。だから、料理までやってもらうのは心苦しいんですよ」
僕は首を横に振る。お願いだ、そんな他人行儀なことを言わないでください。どうか、どうか、僕もあなたたち、家族の中に……。
そこまで言いかけて、僕は口をつぐんで、それから薄っぺらい言葉だけが出てきた。
「僕を引き取ってくれた礼さんと理恵のお手伝いができるなら、どれだけ大変でも本望ですよ」
「ありがとう。本当に助かってますよ」
ふと、礼さんの表情が曇る。
「あなたのご両親、早く戻ってくるといいのですがね……」
「戻りやしませんよ」
僕は苦笑した。頭の中に、幼い頃に聞きなれた言葉がこだまする。
「あんたなんて、産まなきゃよかった」
「お前さえ、いなければ」
未だにあのくだらない人たちのくだらない言葉が僕の心の中で傷として残っていることにうんざりして、空気を絞りだすようにため息をついて、言った。
「戻ってこないほうが、良い」
それから、今度は僕が表情を曇らせる番だった。
「すいません、ちょっと出てきます」
「明菜さんとデート?」
ちょっぴりからかうように笑う礼さんに、僕は首を横に振る。
「散歩ですよ、ただの」
「気をつけてくださいよ」
「メフレグなら大丈夫……」
「いや、テレビで言っていたんですけど、メフレグの人たち以外にも、最近はメフレグ主義者を狩る人たちっていうのが存在するみたいで……。理恵もそういう呼び方されていたりしますけど何でしたっけ、ほら」
「パナリオン」
「そうそう、ともかく物騒な世の中ですから」
「大丈夫ですよ」
僕は笑った。
「僕は大丈夫」
礼拝堂の外に出ると、さきほど街で出会った灰色のローブの男が立っていた。
「ほぉ、気づいたのか」
「ああ、それだけ殺気出されれば、嫌でも気づくさ」
「……目的は分かってるな?」
「理恵か?」
「あの少女がいる限り、世界は救われん」
なんて矛盾した言葉だ。救世主がいるから世界は救われないなんて。
しかし、もしも。
もしも、この世界そのものが僕らを閉じ込める悪魔の用意した地獄だとしたら。全ての論理は破綻し、矛盾こそが真理となる。
「なぁ、あんたはどうしてそこまでメフレグを信じてるんだ?」
僕は男と対峙し、問いかける。
「どうして、この世界を破壊する? 神がそう望むからか?」
「何だ? 時間稼ぎか?」
「単なる興味さ。なぁ、なぜだ?」
「この世界を救いたいからだ」
世界を壊そうとする男が、世界を救おうとする。男の淀んだ瞳の中には、それでも確かに信じるに足る光が宿った。
「神が現れるまで、私は医者をやっていたのだがね……。人はどうして病という苦痛から逃れられないのか、ずっと疑問だった。転移するスピードが圧倒的に速く既存の治療法の効かない新種のがんが流行り始めてからもう五年以上が経つ。政府は混乱を避けるために公表を避けているが、統計データではどんな生き方をしても、今やほぼ百パーセントの確率でそのがんになり、苦しむ。この世は理不尽だと思っていたよ。やりきれない。しかし、その理由が、二年前にようやく分かった」
僕もよく覚えている。あの日のことを。全ての始まりであり、終わり。
「2030年、神がこの世界に顕現した。彼は言った。この世界は間違って生み出されたと。だから、この世界で生きるには苦痛を伴い、人はその苦痛から逃れることができない。そんな世界に生きるなら、いっそ世界そのものを滅ぼし、病で生き地獄を味わう前に人々を苦痛から解放したほうが良いのではないか。そう思ったとき、再び神が私の前に現れた」
男の目が、眩い光を仰ぎ見るかのように細められる。
「間近で見たメフレグの神は、画面越しよりももっと美しい男性だった。彼は言った。私と契約し、力を得よと。そうして、お前が望むことをしなさいと。私は言った。神よ、あなたが望むままにと。そうして、私は力を得て、ソフィアになった」
男の両手が輝き、光が消えうせたとき、その手にはいくつもの小刀、いやメスが握られていた。
物理法則の超越。やはり、本物のソフィアか。
「このメスには人間を確実に死に至らしめる毒が塗られている。かすりでもしたら、そこでおしまいだ。心配しなくても、新種のがんで苦しむよりはるかに楽に死ねる」
元医者だと思えない能力に、業の深さを感じて僕は笑った。
「かつて人命救助に精を出していた職業とはあまりにかけ離れてるな」
「命なら助けたようとしたさ。でも、メスを入れる度にがんは転移しており、希望を凌駕する絶望が訪れるだけだった」
「あんたの契約内容は?」
「……ん?」
「あんたが契約した内容は何だ? ソフィアは力を行使するために神との契約を果たさなければいけないはずだ」
男の表情に、警戒の色が浮かぶ。
「……なぜ、それを知っている?」
僕に興味を抱いたようだ。まんまと引っかかってくれたので、内心でほくそ笑む。
「答えが知りたいなら、場所を変えて話そう。救世主が近くにいては話せない」
そうして男を近所の公園に連れていった。
「……答えてもらおうか、少年。お前は一体……」
夜の公園には案の定誰もいず、薄暗い街灯がおぞましい秘密を垣間見るかのように僕らを恐る恐る照らしていた。
「その前に教えてくれよ、あんたの契約を」
真剣に問うと、一瞬躊躇っていたものの、男は真っ直ぐに僕を見て言った。
「患者を見殺しにすることだ」
そう答えた男の目はわずかに淀み、それを振り払うように見開かれた。その目を、僕はとてもよく知っていた。
「……あんたも、悲しい人だな」
この男は、最近よくいる生活の不満のはけ口にメフレグにかぶれる輩とは違う。確固たる信念を持った本物のメフレグ主義者だ。
人一倍人を想い、だからこそ神が明かした世界の秘密に嘆き、世界を救おうとする。
「なぁ、お願いだ。この場は退いてくれないか?」
僕はあなたのような人は嫌いではない。
けれど、例え相手が神であっても、譲りたくないものがある。
「できぬ」
「退いてくれ」
語気を強めた。男は苦笑して、毒が塗られたメスを僕へと突きつける。
「私にもあまり時間がなくてな。もういい。お前の正体を聞くことはやめだ。私はお前を殺し、お前の死体で救世主をおびき出そう」
男は諦めたようにため息をついて、メスを持っている右手を振り上げる。
「喜べ、少年。お前はこの世界から解放されるのだ」
メスが僕へと届く瞬間、僕は呟く。
「舞い踊れ、ハルモゼール」
空から真っ直ぐに、光輝く一本の剣が落下してくる。それはそのまま、男が手に持つメスを全て叩き落し、僕と男の間に突き刺さった。
「なっ……」
男は一瞬絶句したが、すぐに攻撃的な目で僕を睨みつけた。
「能力者……? 貴様、パナリオンか」
僕はその問いには答えずにただ男を見据え、言った。
「この街から去れ」
「……分からぬ。貴様らパナリオンは、一体なぜ、間違ったこの世界を守護しようとする。特にあの救世主。なぜ、この世界を賛美する? この世界は悪魔によって作られた地獄だ。苦しめられると分かってなぜ、この世界で生きようとする? 理解できぬ……、全くもって度し難く罪深い」
「……僕もよく分からないよ」
苦笑した。僕は一体、何をやっているんだろう。契約に素直に従えば、何もかもから解放されるというのに。本当にこの世界は間違っていて、無理して生きる必要なんてないかもしれないのに。
それでも、僕は理恵の笑顔を見たいと願い、そのために明日を望む。男が言っていたようにいずれがんになる運命だとしても、それでもぎりぎりまで僕は理恵のそばにいたい。
「間違った世界に生まれたとしても、間違った命だとしても、自分たちの世界を愛して生きることは、間違っていない」
さっきの理恵の言葉をそのまま口にする。男が怪訝そうに眉をひそめる。
「分からないか? ああ、きっと分からないだろうなぁ」
男の表情を見て笑いながら、言った。
「これが、僕の救いの言葉、福音なんだよ」
今度は男が苦笑する番だった。
「だから、その悪夢から私が目を覚まさせてやろうというのだ!」
再び男の両手が輝き、メスが出現する。
「このメスは私が見殺した患者の数だけある。優に百本を超えるぞ」
一斉に投げつけられたメスを前に、僕は動かない。
光が煌いて、メスが全て弾き飛ばされた。
地面に刺さっていた剣、ハルモゼールをこちらに呼び寄せ、全て叩き落したのだ。ハルモゼール。この遠隔操作できる光の剣は、僕がとある契約を結んで手に入れた武器だ。
「まだだ!」
男は続けざまにメスを投げつけてくるがその度に光の剣が宙を舞ってその行く手を遮り、次から次へと切り払ってゆく。持ち主の手を離れて舞い踊るその様は、まさに剣舞と呼ぶに相応しい。やがて、全てのメスを出し尽くした男は、地面にひざをつき、呆然と僕を見上げた。
「悪魔の手先がこれほどの力を手に入れてしまったのか……。欧州も豪州もパナリオンに落とされたと聞く。おお、神よ、人々を悪魔の手から守りたまえ」
「一応、言っておくけれど」
剣を男の喉元に突きつけながら、苦笑した。
「僕が契約したのも、あんたと同じ神だよ」
「……何?」
「紳士の格好をした男。僕は彼からこの剣を授かった」
「……馬鹿な。じゃあ、お前もソフィアだというのか。メフレグの実現のために正しき破壊者となるべきソフィアが、なぜ反メフレグの救世主を守護する?」
そうだね、全くその通りだ。自分の立場がややこしくて呆れ果ててしまうよ。正直もう何もかも投げ出したいと思うときもあるけれど、それでも。
「全ては契約完遂のためだよ」
心にもない嘘をつく。だが、それが一番効果的だってことを僕は心得ていた。
「契約……、お前の神との契約は? それがお前を……」
「ユダ」
男の呼吸が止まった。目をこれ以上ないくらい見開き、まじまじと僕を見上げる。
「ユダになる。それが、僕の契約内容だ」
「……ゆ、ユダ……。バルベーロの四聖人の一人に選ばれたという……。そうだ、確かにその方の能力は剣舞だと……」
「そうだ、だから、我が契約に免じて、この場は退いてもらえないか」
「し、しかし……、救世主殺しは今やメフレグ勢力の悲願。さしでがましいようですが、私もあなた様の力になってあの少女を……」
「ねぇ……」
小さく頭を振る。
「僕は、去れと言っているんだ」
強い風が吹いて、公園の木々たちが枯葉をこすり合わせて、乾いた不気味な音を立てた。