第2話 交差点の向こう2
理恵とともに帰り道を歩くと、いたるところにペンキで書かれた落書きを見つける。
『自己破壊せよ!』
基本的にメフレグ勢力は少ないはずの街だが、学校に近いせいかまだこういった行いが街中でもされているようだ。
僕はひどく疲れてため息をついてから、手に取るアイスをがりっとかじる。この国の季節は秋で止まってしまったのでいつも肌寒いのだが、それでもやっぱりアイスはおいしい。
「おなか減ったね」
アイスを食べて少しだけ元気になった理恵が、前を見ながら言う。
「うん、そうだなぁ」
「今日は少し寒いから、ちょっぴり辛口のものを作るね」
僕はつばを飲み込む。決して味覚を刺激されたからではない。
「そ、そうかぁ。いやぁ、全然寒くなんてないけど。むしろ……」
「あっ、今日は安売りなんだって」
目の前のスーパーの見出しを見て走っていく。僕は今食べているアイスの余韻が口から消え去ることを覚悟した。
力なく理恵の後についていこうとすると、きゃっという理恵の声が聞こえた。
理恵の前に、ぞろぞろと男たちが現れた。数にして七人。見たことのない連中だ。全員、灰色のローブに身を包んでいる。
「お前か、救世主なんて呼ばれている少女は」
「あなたたちは……?」
「メフレグの伝道者ってとこかな」
男たちの中心にいた人物が前に出てくる。白髪交じりの短髪を手で押さえながら、淀んだ光を湛えた細い目で理恵を見据える。周りにいた通行人も、何事かと視線を投げてくる。
「この街は未だにメフレグが根付いていない。それどころか、反メフレグの聖地とまでされている」
男はかすれた声で、忌々しげに喋る。その感情は直接理恵にぶつけられている。
「その原因は、お前にあるのだよ。反メフレグの救世主」
指さされた理恵は、動じることなく真っ向から男たちと対峙している。
僕は注意深く男の挙動を観察しながら、力を使うかどうか迷っていた。
理恵には見られたくない。どうにかして、他の場所に誘導するか。
「単刀直入に言おう。今すぐ、メフレグに改宗するんだ。無意味な救世などやめろ」
男は周囲の通行人に聞かせるかのように、大声で話し始めた。
「お前たちも見たはずだ。二年前、確かに神は地上に来たりて、こうおっしゃった。この世界は間違って生み出された、だから世界は憎しみと悲しみに満ちていると。神はこの間違った世界を滅ぼし、我々の魂を解放なさろうとした。大いなる剣が太陽を突き刺し太陽はその活動を止めて、世界は救われるはずだった」
男は頭上の太陽と剣を仰いだが、次の瞬間には声を荒げて前に向き直った。
「しかし! 愚かな各国の指導者たちはこの腐った世界を守るために神に刃を向けた。あろうことか、核まで使用して神を殺そうとした。神は彼らの愚かさに呆れ果て、姿を消された。しかし、真実は覆せない。この世界は間違って生み出され、この世界が存在する限り、我々人間はその不完全さに苦しめられ続ける」
そうして男はその言葉を口にする。
「自己破壊せよ! この世界を、己を壊し、苦しみから解放されるのだ! 政府はメフレグ主義を取った街のライフラインおよびインフラをストップするなどと対抗しているが、恐れることはない。政府など、我々の崇高なる力の前に何の意味もなさない。そう、ソフィアがいる限り」
男は両手を広げる。
「私も、ソフィアの一人だ」
周囲が一気にざわつく。みんな、動揺を隠せないでいる。
ソフィアがこの街にやってきた。
僕も少しばかり警戒する。この男の言うこと、どこまで本当なのか。もしも、本物のソフィアだとすれば……。
「真実も、力も我々メフレグの手の中にある。それでもお前たちはなぜ、メフレグを信じない? なぜ、間違った世界の規律に縛られている」
「だって」
今までずっと黙っていた理恵が、言葉をこぼした。その声は少し震えていた。分かってる。男たちに恐怖しているわけでないってこと。ただ、君は本当にそう想い、そして願ってるんだろう。
「だって、私たちはこの世界に生まれたから」
僕は目を閉じてその言葉を噛みしめる。
「間違った世界に生まれたとしても、間違った命だとしても、自分たちの世界を愛して生きることは、間違っていない」
男は呆れ果てたように、首を振った。
「悪魔が生み出した世界を賛美するなど、悪魔の手先以外何者でもない」
男が右手を上げると、他の男たちが周囲の住宅の窓ガラスを割り始めた。わっと混乱に陥る周囲の人々を尻目に、男は笑う。
「うろたえるな。この世界のものを破壊することは、愛、神への忠誠の証、これこそメフレグなのだよ」
理恵は目を閉じ、澄んだ声で小さく呟いた。
「愛は隣人に対して害を与えません」※
そして、奇跡が起こる。
暴動を起こしていた男たちの動きがぴたりと止まり、懺悔を始めた。
「わ、私はなんてことを……」
「お許しください……、お許しください……!」
人格が変容してしまったかのような彼らの様子を見て、男は眉一つ動かさず理恵をじっとにらみつける。
「それが、お前の、パナリオンとしての力。救世主の福音、とやらか」
男の表情が、皮肉なものへと変わっていく。
「そうやって、道徳の奴隷を作っていくわけか」
理恵は何も言わない。
「また、来る」
そう言い残して、男は立ち去った。他の男たちは残され、自分が破壊したものを何とか修理しようとしていた。
たった一人の少女が男たちを改心させた奇跡を目の当たりにした人々が、押し寄せてくる。
「理恵ちゃん、すげえな!」
「さすが、この街の救世主だ!」
「メフレグなんて、とっととやっつけちゃってよ」
「何がソフィアよ。確かに米国は危ないらしいけど、欧州と豪州はパナリオンによって逆転したっていうし。私たちにはパナリオンが、理恵ちゃんがいるわ」
「理恵ちゃん……、私感動しちゃった。今日も私、教会でお祈りするわ。この世界が平和であること。また、一緒に祈ってね」
人々に囲まれて、理恵は困ったように笑っていた。
僕はその様子をぼんやりと見ながら、力を使わずにすんだことにほっとして、それからさっき理恵が言った言葉を反芻していた。
「間違った世界に生まれたとしても、間違った命だとしても、自分たちの世界を愛して生きることは、間違っていない」
理恵、君は正しい。だから。
僕は目を閉じる。
だから、悲しいね。
※理恵のセリフ→出所:聖書 新改訳 注解・索引・チェーン式引照付 1981年 いのちのことば社