第90話 出発前日②
アンジュが手紙を読んでいる間、レイフォナーはイルへの用事を済ませることにした。
「フリアもダンデリゼルもこの短期間で驚くほどの上達ぶりだと、イジ・・・シゴキがいがあると嬉しそうだったよ」
「今、イジメがいがあるって言おうとしたろ?」
レイフォナーはその問いを笑顔で誤魔化した。
「稽古は苦ではないか?」
「全然。どっちもおもしろいし」
「そうか」
レイフォナーはサンラマゼルに視線を送り、「例の物を」と言った。執務机に立てかけられていたそれを、サンラマゼルはイルに渡した。
「・・・何?これ」
イルが両手で受け取ったのは、ズシリと重みがある剣だった。
「稽古を頑張ってるイルにご褒美。といってもまだ試作の段階だ。強度重視で作らせたのだが、能力解放時に折れたりしないか試してほしい」
「俺の・・・剣?」
「ああ。剣術が嫌いと言われたら渡さなかったのだが・・・試作を重ねてイルの相棒を完成させよう」
イルは黒い鞘から剣を抜いていろんな角度から眺めた。試作品ということもあり柄頭から剣先まで銀色のそれはシンプルな見た目だが、これから進化するであろう自分専用の剣に目を輝かせている。
「職人は相当なやる気を見せていたからな。気になった点は遠慮なく注文をつけるといい」
「うん・・・ありがと」
手紙を読み終えていたアンジュは、そのやりとりを見つめていた。すっかり普通に会話するようになった二人に笑みがこぼれている。その視線に気付いたイルは、照れを誤魔化すようにぶっきらぼうに言った。
「あの女、なんて書いてきた?」
「魔法の訓練を始めたそうだよ」
ユアーミラは火の魔力を有しているが魔法はほどんど使えない。子供の頃に訓練が嫌になり、放棄してしまった。だが帰国前アンジュたちに『己を律する』と宣言し、苦手なことから逃げてはいけないと考えたようだ。
「身体には特に変化なしで・・・」
それはアンジュが気になっていたことだ。
闇魔法から解放され、目覚めさせたイルは肉体が強化されていた。ユアーミラにも何か変化が起きていてもおかしくないが、目覚めたあとメアソーグ王城で数日過ごしているときにはこれといった変化は見られなかった。帰国してから気づいたことがあれば教えてほしいと伝えていたのだが、変わりなく過ごしているようだ。
「あと、今度遊びにおいでって」
「まじで仲良くなったんだな」
「うん。ユアーミラ皇女ってね、話をしてみると可愛らしい人なんだよ」
「ふうん、よかったな」
ショールとチェザライはニヤニヤしている。
「イル、寂しいんだろ?レイにアンジュちゃんを取られただけじゃなく、皇女まで懐いてさ」
「はあ?違うし!」
「あはは、素直じゃな〜い」
からかわれたイルは、立ち上がって二人に剣を向けた。
「早速、こいつを試してみるか。能力解放状態で」
「やばっ!」
二人は声を揃えて叫んだ。
執務室とは思えないほど賑やかだ。イルは逃げる二人を追いかけ、サンラマゼルとキュリバトはため息をついている。レイフォナーは喧騒などまったく気にもとめずクッキーを食べ、アンジュはユアーミラの手紙に再び目を落とした。
自分も稽古や勉強に励んでいると伝えたいし、バッジャキラの土産話もしたい。ユアーミラの火魔法を見せてほしいし、たくさん話しもしたいし、その他諸々。伝えたいことが次から次へと浮かんできて、頭の中がパンクしてしまいそうだ。
その日の夜。アンジュはバルコニーで星空を眺めながらレイフォナーを待っていた。
昼間は出発前日でもいつも通りに過ごしていたこともあり、心に余裕があった。だがキュリバトも侍女もいない静寂の中に一人でいると、ふつふつと心配事が湧き出てくる。
明日の今頃、光剣を無事に入手できているだろうか。レイフォナーの婚約者候補であるバッジャキラ王女はどのような女性なのだろうか。レイフォナーの相手として名が挙がったということは、容姿も器量も頭脳も相当秀でているに違いない。会ってみたいような、会いたくないような。想像の相手と自分を比べるなど無意味だとわかっているのに考えてしまい、大きなため息が出てしまった。
「まったく・・・私の子猫は本当に外が好きなのだな」
背後からの声にアンジュはビクッと背筋を伸ばし、振り返った。
「レイフォナー殿下!」
アンジュは寝衣姿のレイフォナーに駆け寄り、甘える猫のように抱きついた。
「アンジュが抱きついてくるなんて珍しい」
「明日のことを考えてたら・・・なんだか苦しくなって」
自分と同じ薔薇の香り、広い胸板、穏やかな心音は、癒やし効果抜群だ。
レイフォナーはアンジュを抱きしめ、よしよし、と宥めるように背中を撫でた。
「大丈夫だよ。と言ってあげたいところだが、実は・・・私も不安なんだ」
レイフォナーが弱音を吐くのは珍しい。バッジャキラとはそんなにも交渉しづらい相手なのだろうか。お返しに、レイフォナーの背中を撫でてみた。
「ふふ、くすぐったい」
「今日はもう寝ましょうか」
「・・・」
レイフォナーは無言でアンジュを抱き上げて室内に入った。
優しくベッドに寝かされたアンジュは、見下ろしてくるレイフォナーの表情を見て納得した。
いつもなら余裕があって迷いのない目をしているが、今はそれができないほど不安と緊張でいっぱいといった感じだ。自分では不安を吹き飛ばせるようなうまいことは言ってあげられないが、無性に慰めたくなってレイフォナーの頬を両手で撫でた。
「優しい手だ・・・」
「冷たくないですか?」
「うん、大丈夫。手まめができてるね」
そう言われて、思わず頬から両手を浮かせてしまった。すると左手首を掴まれ、稽古でできた手のひらのまめや腕の痣に、触れるか触れないかのくすぐったいキスを繰り返された。右手も同じようにされ、その行為がとてつもなく恥ずかしく感じた。
それだけでは満足しなかったレイフォナーはアンジュに視線を移した。
「ねえ、もっとアンジュを愛したい。愛させて」
これは、つまりそういうお誘いだろうか。レイフォナーの顔が近づいてきて目を閉じると、遠慮がちにそっと重ねられた唇は、次第に縋るように押しつけられた。
何度も「愛してる」と伝えてくるレイフォナーの声はどこか切なかった。いつもはその言葉で幸せに包まれ、快楽に理性が溶かされるのに今日はなぜだか満たされない。さらには先程夜空を眺めていたせいなのか、クランツに脅された日の夜を思い出してしまい、胸が締めつけられるように痛んだ。
不安を吐き出すように求め合ったはずだが、それは解消されないまま眠りについた。




