第87話 じゃれ合い
アンジュはベンチに座り、考え事に耽っていた。クランツのこと、光剣のこと、エトセトラ。目の前で繰り広げられているレイフォナーとダンデリゼルの手合わせを、見ているようで見ていない。
休憩がてらアンジュの稽古を見にきたレイフォナーは、体術に多少心得があった。アンジュの稽古姿に感化されたのか、ダンデリゼルに稽古を申し出たのだ。
クランツについて考えていると自分の周りには兄弟が多いと気付いた。
イルとハル。サンラマゼルとダンデリゼル。ショールにも兄がいたはずだ。
そして、レイフォナーとクランツ。この兄弟は特殊だ。弟は二百年前のクランツに精神も肉体も乗っ取られていた。レイフォナーの悲しみは計り知れない。もし乗っ取られなければ、今でも仲の良い兄弟だったに違いない。そう思ったとき名案が閃いた。
クランツ殿下からクランツを追い出せば、もとのクランツ殿下に戻るのではーーー?
自分の光魔法には、闇魔法で操られた人から闇の魔力を追い出す力がある。それはイルとユアーミラで実証済みだ。操りと乗っ取りは違うだろうが、クランツを追い出すことも可能ではないかという希望が灯った。
だがそこまで考えたアンジュは、首を左右に振った。
非現実的な話だからだ。そもそもクランツは普段は身を隠していて接触する機会があまりない。この前のように会えたとしても隙がなく、そう簡単に成功するとは思えない。
「アンジュ?」
そう声をかけられハッとした。顔を上げると、目の前にレイフォナーが立っていた。顔や首の汗を拭い、息が上がっている姿はなんとも言えない色気が漂っている。どうやらダンデリゼルとの手合わせが終わったようだ。考え事に没頭し、普段なかなかお目にかかれないレイフォナーの体術をほとんど見逃してしまった。
アンジュの隣に座ったレイフォナーは、キュリバトから水が注がれたコップを受け取り一気に飲み干した。ふう、と息を吐き、水分補給をしているダンデリゼルに視線を移した。
「昔は泣き虫でひ弱だったのに・・・強くなったな」
「そっ、そりゃあ、じいちゃんに鍛えられたからね!僕に勝てないのなら、ナオ兄にもサン兄にも到底勝てないよ!」
珍しくオドオドしているダンデリゼルは、兄たちを引き合いに出した。
「はははっ!ビスト三兄弟・・・いや、ビスト一族を敵に回したら恐ろしいな」
「うちの一族は王家に忠誠を誓ってるし!ま、まあ、レイくんの誠実な人柄は老若男女問わず惹きつけるし、頭脳明晰だし、魔法、剣術、体術どれもできるし、その上、絶世の美男だし。僕はレイくんがすごく努力してきたことを知ってるし、その・・・」
レイフォナーの美点を一気に吐き出したダンデリゼルは口ごもってしまった。
「こ、これからもずっと味方だし・・・」
「ありがとう。だがそんなに褒めても何も出ないぞ」
「ご褒美がほしくて言ったんじゃないから!僕はただ、その・・・」
「レイフォナーが大好きなんだろ?」
「イル!な、何言ってんの!?違うし!」
「お前がモジモジしてるから代弁してやったの」
真っ赤になっているダンデリゼルは、アンジュの隣に座っているイルの手首を引っ張ってベンチから立たせた。数歩前に出ると不思議そうにしているイルに足払いを仕掛け、地面に倒れたところに寝技をかけた。
「いでででっ!てめぇ、何すんだよ!あだだだだっ!」
「お仕置き!」
「はあ!?なん、でだよ!くっそ!」
苦笑いをしているレイフォナーは立ち上がり、ダンデリゼルの横で膝をついた。
「私もお前が大好きだよ」
「・・・っ!」
いつもは余裕たっぷりで女性を口説いているにもかかわらず、今のダンデリゼルの顔は驚喜に満ちて声を詰まらせている。
「だが、アンジュに手を出したら許さないからな?」
「そこは安心して!アンジュちゃんはいい子だと思うけど、好みじゃないから!」
「なんだと?アンジュの愛らしさがわからんとは、お前の目は節穴か?」
「え?ぐえぇ!!」
レイフォナーに胸ぐらを掴まれ、首に回された腕で絞め技を食らったダンデリゼルは、イルを拘束していた腕を放した。
その隙に這い出してきたイルは、アンジュの横に戻ってきた。
「た、助かった!」
「お疲れさま」
「俺・・・帰るわ」
と言って出ていってしまった。
こういうとき、ショールとチェザライはレイフォナーを止めに入るだろうか。いや、傍観していそうな気がする。そんな彼らは現在、それぞれ別の場所で稽古中だ。
臨時の護衛二人に目を向けると、どうしていいのかわからないといった顔でレイフォナーを見たり、時計を気にしていた。キュリバトに至っては、我関せずといった顔で空を眺めている。
首だけでなく体全体に技をかけられているダンデリゼルはいつでも反撃に出れるはずだが、それをしないのはレイフォナーとのじゃれ合いを楽しんでいるのだろう。止めに入るのは気が引けるが、声をかけることにした。
「レイフォナー殿下、そろそろお時間なのでは?」
その声に、レイフォナーはダンデリゼルを絞めながらアンジュを見上げた。
「ここに長居してはお仕事が終わらないかもしれません。私、一日の終わりにレイフォナー殿下とたくさんお話をして、一緒に眠りにつきたいです」
「承知した」
アンジュのお願いに、レイフォナーはあっさりとダンデリゼルを解放して立ち上がった。
「夕食は一緒にとれないかもしれないが・・・できるだけ早く終わらせるから、私の部屋で待ってて」
「はい。お待ちしております」
レイフォナーはアンジュの頬にキスをした。
護衛たちはアンジュに小さく礼をし、レイフォナーと共に去っていった。
「あ〜苦しかった!」
と言いつつ、ケロッとしているダンデリゼルはアンジュの横にドカッと座った。
「レイフォナー殿下と仲良しですね」
「そう?アンジュちゃんもレイくんの扱いに長けてるように見えたけど?」
「あ、扱い!?」
「レイくんはね、知ってると思うけどすごくモテる。どんな美人に言い寄られても本気にならなかったのに、アンジュちゃんにはデレデレなのおもしろい」
誰もが憧れるレイフォナー。過去にどれだけの女性と関係を持ったのだろう。そんなことを考えると、嫉妬で頭がおかしくなりそうだ。
「平民で平凡な私なんかが・・・不釣り合いですよね」
ダンデリゼルはアンジュの額に人差し指を刺すように突いた。
「いたっ!」
「卑屈。僕はそんなつもりで言ったんじゃない」
「では、どういう意味なのです?」
それまで黙って聞いていたキュリバトはそう言い、アンジュの額に濡れたタオルを当て、ダンデリゼルに鋭い視線を送った。ダンデリゼルは空を見上げた。
「レイくんは昔から勉強も稽古もすごく頑張ってて、なんでも完璧にこなす姿は本当にかっこよくて、僕大好きなんだ。でもさ・・・素の自分を閉じ込めて、周囲が求める完璧な王子像にひたすら応えてるように見えた。それって苦しいよね。時々城を抜け出してたけど、息抜きだったんだろうな」
ダンデリゼルはアンジュに視線を移して、笑顔を浮かべた。
「そんなレイくんが、アンジュちゃんといるときはリラックスしてるっていうか・・・すごく楽しそうっていうか。心を許せる最愛の人を見つけたんだなーって思っただけ!」
キュリバトは穏やかな目に戻っていた。
「だそうですよ、アンジュさん」
涙目で真っ赤になっているアンジュは額に当てているタオルで顔を覆った。
「そんなふうに言われたら・・・嬉しすぎて、な、泣きそうです・・・」
「アンジュさんがダンデリゼル先生に泣かされた、とレイフォナー殿下に報告しましょう」
キュリバトは火魔法でカラスのような鳥を作った。
「ちょっ、キューちゃん!待って!絞め技では済まなくなるから!レイくんにマジで殺されるからやめて!!」
「稽古外でアンジュさんの額を突いて痛い思いをさせ、さらには泣かせるなど充分に報告事項です」
再びダンデリゼルに冷ややかな視線を浮かべたキュリバトも、アンジュに対してなかなかの過保護だ。ダンデリゼルの制止も虚しく、キュリバトの手のひらから飛び立った鳥はレイフォナーの執務室へと向かった。