第85話 死の瀬戸際
「アンジュ・・・こちらに、来てくれ」
沈痛な面持ちで途切れそうなほど弱々しい声のレイフォナーに呼ばれ、ベッドの傍まで行くと身がすくんでしまうほどの光景が目に飛び込んできた。
「え?」
ベッドに横たわっていたのは、誰だかわからないほど全身に包帯が巻かれた人物だった。包帯は至るところに血が滲み、顔は口元しか見えておらず、胸のあたりまで覆っている上掛けは呼吸をしているとは思えないほど動いていない。
「お、王妃殿下・・・ですよね?一体何が・・・」
侍医に促され、一歩前に出たのは頭や首に包帯を巻いた王妃の侍女だ。
「実は・・・」
と震える声で説明を始めた。
国王の代名として数か国へ長期外遊に赴いていた王妃は、全ての予定をこなして今日が帰国日だった。メアソーグ国内に入り、しばらくして城に向かうため乗っていた馬車が崖に転落してしまった。馬車の窓が割れて破片が顔に突き刺さり、岩山にぶつかったことで目や鼻は潰れ、原形を留めていないという。さらに骨折も複数箇所あり、意識不明の重体だ。
「いつ呼吸が止まってもおかしくない状態です」
そう付け加えた侍医の言葉に、この場の空気はより一層深刻さを増した。
「アンジュ、頼む!光魔法で王妃を助けてくれ!」
国王はアンジュに跪き、頭を下げた。
「光魔法は人々の生活を豊かにするために使われるものであり、個人的な理由で利用していいものではない。道義に反すると承知している!だが・・・頼む!!」
国を導く者である前に王妃を愛する一人の男として、信念と葛藤した上での懇願だ。
王家がアンジュを手中に収めているのは、レイフォナーが惚れているだけでなく、かつて国家に害を及ぼしたクランツに対抗するためだ。
アンジュが光の魔力を有していることは、世間にはまだ公表されていない。時期を見計らっているため、今はまだ箝口令が敷かれている。もしそれが公表されたら、人々はアンジュのもとに押し寄せる可能性がある。全ての願いを叶えることは不可能で、個人的用件に光魔法を使うことは不平等であり好ましくない。
今ここで王妃を治療すれば、王家が優先的に光魔法の恩恵を得ていると思われてもおかしくない。だがーーー。
アンジュは膝をついて、震えている国王の手を取った。
「陛下。私は、道端に倒れている村人だろうと事故に遭った貴人であろうと、目の前に苦しんでいる人がいたら迷わず助けます」
それは、アンジュの信念だ。すべての人を救うことは無理でも、せめて目に映る人には手を差し伸べたい。身分など関係なく。
「・・・ああ、ありがとう」
「治療を始めますね」
アンジュはベッドに上がり、王妃の手をそっと握って目を閉じた。
(王妃殿下、アンジュです。聞こえますか?)
光の魔力を通じて王妃の心に呼びかけてみたが返事はない。王妃には好かれていないと自覚している。そんな相手と話しをしたくないのか、返事ができないほど死の瀬戸際なのか。一刻を争う状況のため、とにかく怪我を治療することにした。
アンジュの手のひらから広がった光は、王妃の体を包み込んだ。
「黄金の光・・・なんと美しい・・・!」
国王や侍医たちは眩しさで目を細めつつ、初めて見る光魔法を見逃すまいと見入っている。
集中しているアンジュの額には汗が滲んでいた。目を閉じている先に見える王妃の体には赤黒い斑点が浮き上がっている。それは外傷、内臓損傷、骨折などの治療箇所を表しており、約二十にも及ぶ。全てを同時進行で治すことができないと思ったアンジュは、まずは頭、次に顔、首へと上から順番に取りかかった。
二十分ほどかけて全てを治しきると光が消え、アンジュは倒れ込んでしまった。周りから寄せられる期待とプレッシャーに加え、一度に大量の魔力を使ったことで体に力が入らないのだ。
「アンジュ!」
レイフォナーはベッドに上がり、アンジュの体を抱き起こした。
「だ、大丈夫です。少し・・・疲れただけです。それより、王妃殿下は・・・」
レイフォナーはアンジュを抱き上げてベッドを降り、侍医に視線を送った。頷いた侍医は診察を始め、あまりの回復ぶりに驚きを隠せていない。そして助手と一緒に顔の包帯を外し始めた。
「な、なんという奇跡だ・・・!」
露わになった王妃の顔は潰れる前の美しい顔に戻っていた。
「呼吸は正常に戻っています。おそらく顔以外の怪我も完治していると思われます!」
侍医は国王に報告した。
「あぁ・・・よかった!」
国王が王妃の手を握ると、指がピクッと動いた。
「う・・・ん」
目を開けた王妃は状況が理解できていないのか、空中をぼんやりと見つめている。
「王妃!私がわかるか!?」
目に涙が浮かんでいる国王を見た王妃は、穏やかな笑みを浮かべた。
「陛下・・・そのようなお顔を見るのは・・・久しぶりですわ」
少し掠れながらも王妃が言葉を発し、歓声と安堵のため息が部屋に響いた。安心したアンジュはレイフォナーの腕の中で気を失って、そのまま眠ってしまった。




