第78話 陽気な少年
アンジュはその後もレイフォナーから求愛を受けるという日々を送りつつ、毎日バラックの研究室に通っては、光魔法でユアーミラの心に話しかけていた。
ユアーミラと会話らしい会話をしたのは初めて会ったときだけで、しかもそのときは敵意を向けられ牽制されたのだ。互いの距離を縮めることは容易ではないが、その日の天気のこと、最近食べた美味しかった料理のこと、王都で流行っているものなど、日常の些細な話題を投げかけて打ち解けようと試みた。話しかけても一切の反応がないため、完全なる独り言になっているのだが。
ユアーミラのもとに通って四日目。湯船に長く浸かりすぎて気を失いそうになった話しをしたところ、ユアーミラが「ふっ」と鼻で笑ったのだ。その日聞こえたのはそれだけだったが、舌打ちでもいいから反応がほしいと思っていたため嬉しくてたまらなかった。
王城に戻り、執務室でそのことをレイフォナーに伝えると褒めてくれた。
「その調子で続けてみて」
「はい!」
報告を終えたため、そろそろ退室しなければいけない。レイフォナーと離れるのは名残惜しいが仕事の邪魔をしてはいけないと思い、ソファから立ち上がると呼び止められた。紹介したい人物がいるという。
ほどなくして部屋の外が騒がしくなった。何を言っているのかまでは聞き取れないが、ドアの前で警備をしている廊下の衛兵二人が、張りのある声の持ち主と言い合いをしているような雰囲気が感じ取れる。
レイフォナーはドアに目を向けた。
「ふふ、相変わらず元気だな」
と言うと、部屋のドアが勢いよく開いた。
「みんな久しぶり!ダンデリゼルが来たよー!」
そう言って陽気全開で部屋に入ってきたのは、顔も髪型も見慣れた人物にそっくりな少年だった。とはいえ冷静沈着なその人物と比べると性格は正反対で、あどけない笑顔はまだ幼く、身長はこれから伸びるであろうと予想できた。
「レイフォナー殿下、申し訳ございません!ノックもせずにドアを開けようとなさるのをお止めしたのですが、突破されてしまいました!」
部屋に入ってきた衛兵二人は頭を下げて謝罪した。彼らは事前に、ダンデリゼルという名の少年が来たら部屋に通すよう言われていたが、先程の言い合いはノックをするしないで揉めていたようだ。
レイフォナーは苦笑いをしている。
「いや、いいよ。警備に戻ってくれ」
「はっ!」
と返事をして、衛兵たちは退室した。
部屋が静かになると、アンジュは後方から冷気を感じた。振り返ると、眉間にシワを寄せ、冷ややかな目のサンラマゼルが明らかに苛立っていることが窺える。だがいつも通りの美しい姿勢で歩き出した姿には、心の乱れは一切表れていない。
サンラマゼルはダンデリゼルの前で足を止めた。アンジュが瞬きをすると、ダンデリゼルは崩れるようにしてうずくまった。
「いってぇぇ・・・」
腹を抱えているダンデリゼルに、サンラマゼルは容赦ない言葉を浴びせる。
「お前は礼儀を知らんのか?ノックをしろ。それにあの能天気な挨拶はなんだ?レイフォナー殿下の御前だぞ。もう一度お祖父様のもとに送り込んでやろうか?」
「や、やだぁ」
アンジュは何が起きたのかわからず動揺していると、レイフォナーが隣に座った。そして拳にした右手を後ろに引き、勢いよく突き出すというジェスチャーを見せてくれた。
瞬きという刹那の瞬間に、サンラマゼルがダンデリゼルの腹に拳を打ち込んだのだと理解した。瞬きをする前と後では、サンラマゼルの体勢に寸分の違いもない。体術に優れていることは知っていたが、なんという速さと正確さなのだろう。品行方正なサンラマゼルの裏の実力に鳥肌が立ち、体が固まってしまった。それに普段物静かな人ほど、怒ると怖いのだ。顔面蒼白なダンデリゼルもそう思っているのか、それともお祖父様とやらに恐れおののいているのか、両方なのか。
「そのくらいにしてやれ」
レイフォナーは、ダンデリゼルに説教をしているサンラマゼルを止めた。
「失礼しました」
レイフォナーに頬をつつかれ、アンジュは固まっていた体の拘束が解けた。
「アンジュ、紹介しようと思っていたのはこの者だ。サンラマゼルの弟のダンデリゼル。君の体術の稽古の先生だよ」
「先生!?」
もしかして兄弟では、と思っていたためそのことに驚きはないが、まさか自分より若そうな少年が先生だったとは。おそらくレイフォナーが手配したと思われるが、つまりは相当な実力者に違いない。だが今はそれよりも、うずくまっているダンデリゼルが心配だ。
アンジュはダンデリゼルに駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「アンジュさん、このくらい平気ですよ」
サンラマゼルはそう言ったが、顔を上げたダンデリゼルは額に汗が浮かべ、口を歪めていた。大丈夫ですか?との問いに答えない代わりに、なぜかじーっと見つめてくる。限りなく黒に近い深紫の瞳は、視線を逸らせないほど美しい。するとダンデリゼルが両手を伸ばしてきて手を握られた。苦痛の表情はすっかり和らいでいる。
「優しい・・・純粋そうな女の子だぁ」
「はじめまして、ダンデリゼル先生。アンジュと申します」
「もしかして君が生徒なの?嬉しいな〜こんな可愛い子だなんて!すっごくやる気出た!」
そのやり取りを見ていたレイフォナーは、見つめ合う二人の間に割って入った。アンジュの手を握っているダンデリゼルの手を払い除け、胸ぐらを掴んで立ち上がらせた。うっすら笑顔を浮かべているように見えるが目は一切笑っていない。研ぎ澄まされたナイフのような視線は、ダンデリゼルの息の根を止めてしまいそうなほど鋭かった。
「ダンデリゼルよ。アンジュはいずれ、私の妃となる女性だからな?くれぐれも邪な気持ちは抱くな。傷一つ付けるな。わかったか?“はい”以外の返事は認めん」
「はい・・・」
レイフォナーへの恐怖で口をすぼめていたダンデリゼルは、小さく返事をした。
ダンデリゼルは文武両道ビスト家三兄弟の末っ子で、現在十五歳という若さだ。ビスト家は先祖が体術に精通していたこともあり、代々その精神が受け継がれている。父親は国王の側近の一人であり、長男は父親に代わり領地運営、次男のサンラマゼルは王城でレイフォナーに仕え、三男のダンデリゼルは王都の学園に通っている。
アンジュの体術の稽古に、師として名が挙がっていたのはサンラマゼルだ。しかし、彼が補佐するレイフォナーも稽古が始まる。今以上に業務を補佐する必要があるのでは?という周囲の声もあり、代わりにダンデリゼルを呼んだのだ。
ダンデリゼルから手を放したレイフォナーは、アンジュの手を引いてソファに戻った。ダンデリゼルは「ふぅ」と息を吐き、襟元を直して腹をさすりながらショールとチェザライに近寄った。
「ねえねえ。殿下ってあんなキャラだっけ?」
「お前、相変わらず敬語使えねえんだな。兄貴にまた殴られるぞ」
「ショールも殿下にタメ口じゃん」
「俺はレイとタメだし、幼馴染みだからいいんだよ」
「えーなんかズルい!僕だって幼馴染みなのに!」
似た者同士だなと思ったチェザライは、ヒートアップしそうな二人に口を挟んだ。
「レイくんはね、アンジュちゃんのことになるとキャラが変わっちゃうんだよ」
「へえ・・・」
ダンデリゼルが静かになったのも束の間、キュリバトを見るなり上機嫌で挨拶をしに行った。初対面にもかかわらず、自分より背が高いことが気になるのか身長を聞いたり、趣味や休日の過ごし方など質問攻めで、食事にも誘っている。
目も合わさず事務的に答えるキュリバトを見ていたアンジュは、二人の温度差が切なくなった。もしダンデリゼルがキュリバトに一目惚れしたのなら・・・と思ったが、それはいらぬ心配だった。
「ダンデリゼルはね、女たらしなんだ」
手を繋いだままのレイフォナーがそう言ったからだ。
「・・・なるほど」
キュリバトを特別気に入ったわけではなく、幼少期から女の子が大好きで口説く癖があるそうだ。礼儀に欠け、少年らしからぬ嗜好をもつ弟に、サンラマゼルが厳しく接するのも納得できる。それは一方的にそりが合わないと思っているからではなく、いつか痛い目を見ないよう正そうとする兄の愛情だ。
手を離したレイフォナーは、アンジュの頬を両手で包んだ。
「あいつに口説かれても無視すんだよ。いいね?」
「は、はい」
「腕は確かなんだけど・・・あんな性格だから本当は呼びたくなかったんだよな」
とブツブツ言って、アンジュを抱きしめた。
このまま甘ったるい空気を垂れ流すと、また部屋の空気を入れ換える事態になりかねない。ただでさえ、サンラマゼルは虫の居所が悪いのだ。レイフォナーを押し離そうとしたが、びくともしない。ならば話を逸らそうと頭を巡らせたが、稽古の関連事項ばかり思い浮かんでしまう。
「あ、あの、剣術の先生はマイル様ですか?」
マイルはショールの父親で、一度だけ顔を合わせたことがある。
「別の者だよ。そっちは心配いらない」
と答えてくれたが、離してくれそうにもないため諦めることにした。
ショールはマイルに稽古をつけてもらうことが決まっている。騎士団長になれるくらいショールの剣の腕は相当なものであるが、アンジュは初歩から教えてもらわねばならない。実力に差がありすぎるため、一緒に稽古はできないと判断されたのだ。
いよいよ週明けから、対クランツに向けて稽古が始まる。アンジュの一日は、午前中にバラックの研究室でユアーミラと心の対話。その後はキュリバトと共に、バラックの指導のもと魔法での戦闘訓練。午後は剣術と武術の稽古を日替わりで行うことが決まっている。




