第112話 国王の思惑
ふう、と息を吐いたアンジュは足を止めた。
「距離が全然縮まらない!」
バラックに持たされた懐中時計を見ると、歩き始めてから二十分ほど経っていた。だが前方の球体である闇空間との距離が一向に縮まらないのだ。
「どれだけ離れてるのよ・・・」
アンジュはその場に座り込み、休憩することにした。
出発前にバラックからピアスは使い物にならないと言われたが、歩き出してすぐにバラックの魔力が込められているピアスに話しかけてみた。互いの空間が違うためなのか、やはり応答がなかった。助言はもらえず、自分はいま完全に一人なのだ。自分で考えるしか先には進めない。
すると、お腹の子が動き始めた。まるで、一人じゃないよ、と勇気づけられた気がした。
「ふふ、そうね。一人じゃなく二人よね。あなたがいてくれて心強いわ」
アンジュは腹を優しく撫でた。
「よし!やってみよう!」
立ち上がったアンジュは、右の手のひらを上にして体の前に差し出した。手のひらに発生した風は、人が乗れるくらいの大きな鳥の姿へと変化した。
「できた!」
これまで小鳥程度の生き物しかつくることができず、魔力を標的に当てる訓練ばかりしていたため自信がなかった。レイフォナーたちがつくるそれよりも小ぶりではあるが、自分が乗るには充分な大きさだ。
もしクランツと遭遇して戦闘になったときのことを考えると、できるだけ魔力は温存しておきたかった。だがこの状況にそんなことは言ってられない。
アンジュは自分の分身とも言える鳥の顔を撫でた。
「あの黒い球体に行きたいの。連れて行ってくれる?」
アンジュのいまの実力では会話ができる生き物はつくれない。だがその鳥はアンジュの言葉を理解しているようで、コクンと頷いた。
「そうか・・・まだ戻ってこないか」
執務中の国王は、バラックから報告を受けていた。すでに夜が更けている時間だ。
アンジュがシュノワで転移して三十五時間が経った。バラックはアンジュとレイフォナーの魔力をなんとなく感じることができているものの、アンジュは闇空間にたどり着けたのか、二人は無事に合流できたのか、脱出に手間取っているのか、状況まではわからない。
「バラック、無理をするな。通常の業務をこなしつつ、二人だけでなくクランツの魔力もずっと探っているのだろう?身体がもたんぞ」
「陛下こそ、レイフォナー殿下の仕事を引き継がれて・・・ご無理なさらず」
「ふふん。私はお前よりまだまだ若いし、サンラマゼルがある程度処理してくれている。それに、頼りになる相棒がいるからな」
笑みを浮かべて頬杖をついた国王は、その人物に視線を移した。
「レイフォナーとアンジュの危難に、呑気に休んでなどいられませんわ」
そう言ったのは、ソファに座り書類に目を通していた王妃だ。
王妃の主な仕事は“社交”だ。日頃から友好国である妃たちと手紙をやりとりし、各国の貴賓を迎える際には心を込めてもてなす。ときには国王名代として国外に足を運ぶこともある。
国内では定期的に貴族の夫人たちと茶会を開き、不穏な動きがないか探っている。さらに王城の使用人たちすべての名前と顔が一致しており、揉め事、勤務態度なども把握しているのだ。そんな王妃は、緊急時には国王の執務を手伝っている。
王妃はバラックを見た。
「わたくしたちは執務を分担できます。ですが、バラックの業務は他の者には務まりません。充分に休息をとり、また報告に来なさい」
バラックはふうと息を吐いた。
「お気遣い、ありがたく存じます」
頭を下げ、懺悔するように続けた。
「アンジュの懐妊を報告せず、申し訳ございません」
「・・・お前はいつから知っていた?」
バラックは頭を上げた。
レイフォナーとアンジュがバッジャキラから帰国したあとだ。バラックは眠っていたアンジュが目を覚まし、魔力の検査をしたときのことを説明した。
「そうか、魔力持ちの子か」
王族の血を引いた子の存在をこれまで隠蔽していた。アンジュに頼まれたとはいえ、報告しなかったのはバラックの意思だ。
「わしはどんな罰でも受け入れます。ですがどうか、アンジュとキュリバトには寛大な処置を」
「・・・心に留めておこう」
部屋には、国王と王妃の二人だけになった。
「王妃」
そう声をかけられた王妃は、国王に視線を移した。
「まだ怒ってる?」
と言われ、再び視線を書類に落とした。
「当たり前です」
レイフォナーが転移させられて消息を絶ったこと、アンジュが救出に向かったことや子を宿していること。王妃がそれらを聞かされたのは、アンジュがシュノワを経ったあとだったのだ。
国王は立ち上がった。ソファに移動し、王妃の横に腰を下ろした。
「レイフォナーもアンジュも、私たちの孫も必ず無事に帰ってくる。笑顔で『おかえり』って迎えてあげよう」
気丈に振る舞っていたが、レイフォナーたちのことが心配でならない王妃は涙ぐんでいた。だが国王に抱きしめられ、少し安心したようだ。
「孫の部屋を用意しないと。男の子かしら、女の子かしら?」
「ふふ、どちらでも嬉しいなぁ」
と言った国王から笑顔が消えた。
アンジュは必ずレイフォナーと帰ってくる。だが、子ができたとわかっていながら身を引いたアンジュと、その事実を知らずに彼女を手離したレイフォナー。闇空間で再会するであろう二人は、現実空間に戻ってきたあとどう行動に出るのか。違ったままか、それともーーー。二人の意思がどうであろうと、孫の存在を知ったからには黙ってはいられない。
国王は王妃を抱きしめたまま、鋭い目つきで笑みを浮かべた。
「あの子たちが帰ってきたら、ご褒美をあげなきゃね」




