第二章 歪まされた刻
ACT.1 満たされぬもの
目覚めた時、見覚えのある少年が横に眠っていた。その少年の名が、高山仁であることを女は知っていた。
あの『未来』から、『過去』に戻ってくる最中に見た記憶。女は、自分に関わるものをその中で知ることができた。
「気がついたのか?」
「……眠ったフリをしてたの?」
互いに質問しあって、二人とも答えなかった。その感覚だけで伝わってくるものが、言葉にするよりも確かなものであることを知っていた。
「すごい人ね?」
「……勘違いしていないか?あんたはまだ、わかっていないんだ。俺はオリジナルじゃない。近いかもしれないが、違うんだ」
意識のある時に初めて逢ったはずの二人は、互いを知っているかのように言葉を交わす。その内容も、二人にしか通じないもの。
「……そう。それじゃぁオリジナルは此処にはいないのね?」
「たぶんね。それに、奴は此処にいても、別の場所にいても、自分が何処にいるかなんて、自分でもわかっちゃいないさ」
仁の表情は感情が欠如しているようにみえた。まるで人形が話しているように、その瞳にも乱れが何一つとして存在しない。
「……それより、あたしが本当は誰なのか知っている?あたしが平松麗那になる前の、本当のあたしのこと」
「あんたが、誰なのかなんて知るわけないだろ?俺は倒れてたあんたを拾っただけだ。あんたは自分が誰なのかを証明する肩書きになるものを何一つ持っていなかった。つまり、今のあんたが、今は本物。それでいいんじゃないのか?」
疲れたように麗那は一度ため息をついた。瞼を閉じて記憶を探ってみる。いくつもの自分が頭の中に浮かんでは消えた。そんな麗那に、仁は冷蔵庫から缶の野菜ジュースをだして手渡した。
「変ね。全てを知ってしまったはずなのに、全部忘れてる。どうしてかな……」
「『律』の力だろ?」
無邪気に何気なく口にする仁の言葉を、麗那は理解できなかった。怪訝そうに見る。
「律?」
「戒めさ。法律とか、規則とかそうゆう奴。つまり束縛する力。人間は、過去の人間の決めた様々な律に拘束されているだろ?生まれたときはすでに、望みもしないのに束縛されている。それが当たり前のように育てられるから、いつのまにか流されて、それを受け入れてる」
否定できない事実。それでも人はその束縛を知りながらも、逃れる術をしらない。いつの間にかその状態に順応してしまっているのだ。仁は楽しそうに話す。表情は真剣だが、口調はどこか嬉しそうだった。
「それで、それとあたしの記憶がどう関わるわけ?」
「人が決めた束縛。それとは別に、この世界そのもの。つまり人が存在する以前からもともとこの世界そのものに存在していた『律』があるとしたら?」
麗那は頷いて興味深そうに仁をみた。人間という動物は、自然の一部でありながら、全ての存在の中で自分たちが一番価値の在る存在なのだと思い込んでいる。他の動物は下等だと蔑んで、己惚れている。
「……人が考えてもわからないこと。何故存在しているのか、存在し続けるのか?」
仁は少し興奮気味に言葉を続けた。死ぬのがわかっていても生き続けようとする。まるで死ぬということを逸らかすように。
人を生かしているのは、人間自身の力なのだろうか?自然がなければ、結局、人は生き続けられない。世界が人を生かしている。その理由は人にはわかるはずが無い。世界は人に全てを教える気はないからだ。何故存在するのか?その本質まで人間に教えてしまえば、人は別の世界を新たに作り出せる。人の欲望のままの世界を。
人の社会に『律』が存在するように、この世界そのものにも『律』が存在する。その力が、人が人の知ってはいけないことを知ってしまったときに、忘れたことにして、知らなかったことにしてしまう。そう考えれば、矛盾だらけのこの世界の全てのことを説明できる。
「……なんとなくわかるけど、それって神を世界に置き換えているって言わない?」
「そうかもね。けど、過去の人間がそうだったように神なんてのはそもそも、人の力ではどうにもできないことをどうにかしてもらうために生まれた超越的な存在だろ?それが、世界そのものなら、例えば人間みたいに考えたりできる人の形をした存在が神だっていうよりは、納得できるはずだ。
それに自然に神が宿る。という過去の人間たちの表現は的確だと思うけど?今じゃ、科学だのなんだので、誰も信じはしないけど」
そう言いながら、仁も神の存在は信じていないと続けた。麗那は困ったように考え込む。
「神って言う表現は人の考えた言葉。俺が説明しようとしていることも全てそう。人間の言葉で、人間にしか通じないもの。
あんたは何か勘違いしていないか?あんたの知ったこと。それは言葉でこと細かく説明できる『事』なのか?あんたが知ったことが、感覚で理解したことなら、それを人間の考えた『言葉』なんかで表現しきれるわけが無いだろ?人は言葉を万能だと思いこんているだけで、実際は違うだろ?人間にしか通じない、人間の道具でしかない」
言われてみて麗那ははっとする。忘れたと感じたのは、仁に説明しようとしたときだけ。自分では伝えたいことがどんなことなのか、全て覚えている。だが、それを言葉で表現する方法を知らない。
「……くす。でも、あなたになら伝わる気がする。言葉じゃない何かで……」
麗那はゆっくりと仁を引き寄せた。自分と同じ体格の仁を、包み込むように抱きしめる。
「なぁ、あんたがこんなことしても満たされないんだよ。あいつは、絶対に……。それはあんたもわかっていることだろ?」
沈黙したままの麗那からは、ただ心臓の音だけが聞こえてきた……。
ACT.2 異なる意識
麗那が目覚めたその日、真深は真面目に学校で働いていた。仁は風邪で休みということで、真深から担任に連絡がいっている。
麗那を一人だけで残しておくわけにもいかず、かといってまた保健室に連れてくるというのも問題だったために、仁が残ることになった。真深はあんまり仁をサボらせたくはなかったが、自分が休むよりはいいかと考えて結局は仁を残した。
「あ、気がついたのね?」
部屋のドアを開けたとき起きている麗那を見かけて真深は声をかける。初めて見る真深に麗那は軽く頭を下げた。
「あっ!ねぇ、襲われなかった?」
唐突に声を上げて質問する真深に、麗那は呆然とすると面白そうに笑った。
「な、なに、その笑いって!」
「そんな心配しなくても、仁はあなた以外の女に自分から触れられないわよ?」
少し安堵しながら、それでも複雑そうに仁を見る。仁はつまらなさそうに視線を背けた。
「あのね、あいつは女に対して滅茶苦茶不器用なの。自分から近づけもしないんだから。あなたみたいに、あいつのこと襲う女なんて珍しいわよ?」
真深は仁が麗那にそこまで話したということに動揺していた。まるで麗那は自分と仁の関係の全てを理解しているような口調なのだ。その自分の戸惑っている心を見透かしたように、麗那は不敵に微笑む。
「センセー、歪みって知ってる。今在る形が突然、次の瞬間に何の前触れもなく壊れてしまった時、それを俺たちは『歪む』って言ってるんだけどね」
「たとえば今みたいに、私が今まで確かだと思っていたものを疑いはじめたりとか……」
哀しそうに仁を見て真深は言う。仁はこくりと頷いて、優しく真深の瞳を見つめた。
「えっと、そうゆことなんだけど、その疑いは持たなくていいよ。センセーが俺のこと信じられなくなったなら、仕方ないけど……」
少し震えた口調で仁は言う。その言葉を口にしながら仁は胸のあたりが締めつけられる感覚を感じた。苦しいと一言で言ってしまえばその通りだが、自分の身体に穴が開いてしまったように、何かが無くなっていく気がしていた。
「ねっ、誤解してるでしょ?あたしはここに眠ってた。で、意識が戻ったの。あたしをここに連れてきてくれたのはあなたも同じでしょ?仁を疑うより、あたしが誰なのかを聞いた方があなたの中の疑問も解決されると思うけど?」
二人の様子を見て、困ったように麗那は真深にそう説明した。まだ状況がわからないままの真深だったが、とりあえず頷いて話を聞くことを選択する。
仁の存在を求めている、その事実は真深の中にある。寂しいから、仁の身体を奪った。その時は誰でもよかったのだ、誰でも。しかし、仁の存在に惹かれたのは真深の方だった。
恋愛感情なのかもしれない。ただ、それよりも重いもの、自分の存在を存続させるための支えや、活力になる存在。それをいつのまにか仁の中に求めていた。
「まず、結論から言うと、あたしと仁は同じなの。同じ存在。意識とかは異なるんだけど、とにかく同じ存在だったの」
真深はますます不安そうな、怪訝そうな表情をする。麗那はうまく言葉に説明できない自分が悔しかった。
「センセー、さっきの歪みで人の意識の中にいる、自分が望んでいた願望が具現化。つまり現実に形となって存在したらって考えてみて。自分で本当はなりたかった自分の姿。自分の思い描く好きな人の姿。その考えていた形が現実になったら、俺たちみたいになるんだ。もともと俺たちは一人の人間の意識の中にだけ存在してたんだ」
「だから、あたしは仁でもあるの。あなたのことも知っている。あたしが邪魔なら姿を消すわ。けど、疑わないで、仁もあなたと同じ。ずっと独りだった。でも、仁は独りのままではない救われる形だから……。それを満たしてくれるのがあなたなのだけれど……」
不可解な説明だった。普通の人間なら納得できるわけはない。が、真深はわかっていた。そう真深にはわかっていた。
「……私もなのね?」
その真深の問いに二人はただ頷いていた。
「ねぇ、オリジナルはまだ独りなの?」
「たぶん。だからこうなってしまったんだろ。求めても叶わないから、届かないから、だから歪んで壊れていく」
「くす。あたしはその為の存在。あなたたちよりも、あたしはオリジナルの近くにいるの。だからわかる、これが最後の賭けだって」
「……独りじゃ強くなれるわけない……」
ACT.3 律の干渉
仁と同じ中学校の屋上に、その男はいた。平然とただ遠くの空を見つめている。
「こんなところにいたんだ?」
「なっ!」
扉の開く音に気づいて振り返った時、そこに立っていた女性はそう言った。御槻優香。全てを意味する名を持つ女性。その姿を見て、男は驚愕する。
「葵は良く授業抜け出してここに来てたっけ。小学生のくせに、そうゆうことしてたのって珍しいんじゃない?」
「……そう。昔からだったんだな」
不思議と落ち着いた声で、葵は答えた。何故か、二人きりになると酷く冷静になる。欲望も、伝えたい言葉も、全部真っ白になって、冷静になって、わからなくなる。
「何から逃げてるの?」
「……嫌われたくなかった。避けられたくなかった。ただ、話しとか普通にできれば、ただ、同じ時間過ごせればそれで良かった。それだけのはずなのに……」
感情的になって、大声で怒鳴りたい気分を葵は感じていた。けれど、感情的になることを何かが狂わせていた。恐かったのかもしれない、感情のままにやってきて、独りだと気づいて、他人と関わるのが恐くなったのかもしれない。嫌われることが……。
「……」
「……伝わらないだろ?全部伝えた。言葉で表現できること、全部伝えた。もうわかんないから、なんにも伝わらない……。やっぱり、やめとけばよかった。好きになることも、そのこと口にするのも。やめとけば、まだ、普通に会話できたかもしれない……」
肉体的には胸のあたりが圧迫されるような、そんな感じだった。苦しくて、恐くて、切なくて、寂しくて、悔しくて。それが、誰のせいでもなく、自分という存在にただ、優香が受け入れたいと思うだけの魅力が無いだけ。それだけなのだ。重なる部分もなく、同情されるにも心配されるにも値しない。それだけ……。
自分が悪い。そう思う以外にはそれ以上どうにもならない。無理に近づこうとして、不快感与えるなら、何もしない方がいい。それでも、一度好きになった感情は消すことはできなくなっていた。
「話したかったら、連絡してもいいよ?」
「……したいけど、何を話していいかわからない。それに……」
「それに?」
沈黙してそのまま葵は蹲った。嫌だった、一方通行が嫌だった。連絡しなかったら、それで終わり。自分が連絡しないとそれで終わる。一方通行なのが。それだけで証明できる。それで全てが証明されてる。
「わかってる。毎日毎日頭ん中ぐちゃぐちゃで、いつも考えてるのに、おまえの中にはそんなことなくて。きっと、それだけの存在なんだなって、なんとなくわかってて。気づいてるのに、これ以上近づけないの気づいてて、こっちから話せることなんてないから」
悔しかった。こんなことしか、こんな風にしか表現できない自分が悔しかった。
「……」
困ったように、ただ沈黙したまま優香は葵を見る。複雑な、それでいてどこか冷めてるそんな感じの視線で。
「……現実は難しい……どうしたら本当に笑ってもらえるん?本気で笑ったとこ、見たこと無い気がする」
「そんなことないよ」
少しだけ微笑んで、優香は答えた。葵には、無理に微笑んでいるようにみえてしまう。
「後、俺おまえのこと何も知らない。馬鹿だよな、好きなことも、何に興味あるのかも、なんにも知らないで。それなのに好きになってしまって。なんかわけわかんない。なんで好きなのかわかんない」
「……」
「けど、どんなこといわれても、何言われても、何されても、俺が嫌いになること絶対ないから。だから、精神的打撃滅茶苦茶強いんだけど……」
「…………」
「…………………………」
「……」
「……死ぬ方がやっぱりいいんだ……」
「勝手にすれば……」
優香がそう口にした瞬間だった。何かが何処かで弾けた。仁たちは何かの衝撃を感じて、表情を歪める。
「またね?」
「ああ」
麗那と仁は困ったように頷き合う。真深は二人の意識とは別なのか、直接、オリジナルのことを理解することができなかった。
「わかってるくせに、また『死ぬ』って言葉口にして、自分追いつめてるのわかってるくせに」
「それに、その言葉を向けた相手も傷つけてることもわかってるのにね?」
呆れている二人の会話を聞いて真深は少し目を細めた。寂しい表情をする。
「……仕方ないのよ。伝える言葉がもうないんだもの。独りじゃ話せること何も無いの。自分のこと、感情全部口にしたらそれで終わり。……一方的で、何も返ってこないんだもん。返ってくるものなかったら、避けられてるって、嫌われてるって、不安になるでしょ?『死ぬ』って言葉は相手を試してる、否定してくれるのか、それとも……」
真深の口からその言葉は出てこなかった。麗那も仁も聞かなくてもわかっている。葵が一番求めていること。
「……わかってる。はじめからこうすればよかったんだ。そう、ずっと昔からここに来てたのは、落ちたかったのかもしれない」
ゆっくりと前に進みながら、震える声で話す。怖さと同時に、悔しさが胸を締めつけた。いっそうのこと、この苦しさだけで心臓の鼓動が止まってしまえばと、葵は思う。
「きっと本当の、そう俺じゃないもう一人の俺も、いつかきっとこんな結末になると思う。勝手かもしれない、でも、しょうがないよな。これが俺で、それ以外の何者でもない。それを受け入れられないのはおまえだけじゃないわけだし。
俺自身もこのままの自分は嫌だし、他には誰もいないから……」
屋上の縁の上に葵は立った。葵には優香がどんな表情をしているのかわからなかった。何も聞こえてこない。自分の言葉に何の反応も無かった。まるでもうこの場にはいなくなってしまったように、静寂が葵を包み込む。
「……なんで、駄目だったんだろ……」
自分の体重で落下する。不快感を全身に感じた。その瞬間全てが一瞬で消える。中学の屋上でも落ちれば命を奪うには十分だった。地上との距離が、高層ビルよりも短い分、落下していく感覚を感じたその瞬間に葵は死んだ。一分にも満たないその刻の中で……。