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ユーヴェルージュの薔薇の君

作者: 石動なつめ

 薔薇が咲き誇る美しい街、ユーヴェルージュ。

 そこに一人の男が歩いていた。歳には二十五。背の高い、そこそこがっしりした体格の男だ

 彼の名前はエミル・ヒンメル。元軍人だ。


 彼は十六で軍に入り、それから九年、軍人として生きて来た。

 二十を越えた頃に、エミルもいつまでこの仕事をしているのかと考えた事もあったが、特に何の答えも浮かばなかった。

 恐らく自分が死ぬか、役に立たなくなるまでは続けているだろうと考えていた。


 だが、その時はあっけなくやって来た。


 エミルが二十四になった秋の事だ。

 その時エミルは戦場に出ていて、敵の銃弾から味方を庇い、右腕に大怪我を負った。

 幸い、腕を失くすことはなかった。だが完治した後も、指先と腕に痺れが残ってしまっていた。

 これでは武器はもう握れない。事実上の役立たずだ。

 書類仕事もあまり得意ではなかったエミルは、上官の勧めもあって、軍を退役し一般人となった。


 しかし、急に戦いとは無縁の生活になってしまったものだから、何をして良いか分からないというのが正直なところだった。

 趣味もなく、特に好きな事もなく。

 そうなって初めて友人がエミルに言った「お前も何か趣味を持てよ」という言葉の意図を理解する。

 なるほど、こういう時に役に立つのか。

 そうは思ったが、ではいざ何かをと手を伸ばそうとしても、これと言って思いつかない。

 エミルにはあるのは使い道のない貯金と、軍人だった頃の記憶と経験だけだった。


 そんなある日、エミルは父方の叔母から、とある話を持ち掛けられた。


「エミル。あなた、結婚する気はない?」


 白い薔薇の美しい庭園に呼ばれ、お茶を飲んでいると、叔母はエミルにそんな事を言い出した。


「結婚ですか」

「ええ。あなた、もう二十五でしょう? そろそろ身を固めても良いと思うのよ」


 そういうものだろうか、よく分からない。

 しかし人生の先輩である叔母の言葉だ、そういうものなのだろう。

 エミルは首を傾げつつも「そうですか」と答えていると、叔母は頬に手を当てて小さくため息を吐いた。


「……あなた、兄さんと同じ顔をするんだから、もう」

「父と?」

「ええ、そうよ。あの人も、そういう事に興味がなかったの」

「はあ……」


 そういえば、父とよく似ていると言われる事が多かったとエミルは思い出す。

 外見の話だとずっと思っていたが、どうやら中身もそうであるらしい。

 彼の両親はずっと昔に亡くなっているので、その言葉が一つの繋がりを作ってくれたような気がして、エミルは少し嬉しく思った。

 そんな事を思っていると、

 

「でもね、義姉さんと出会って、兄さんは変わったわ。表情も豊かになって、愛情をはっきりと言葉にするようになったのよ」


 なんて叔母が言った。

 愛情。

 エミルにはよく分からない感情だ。


「……恋が人を変えるというのは、話の題材としてはよくありますが」

「私は現実の話をしているのよ、エミル」

「はあ……」


 エミルが曖昧に返したせいか、どうやら叔母は呆れられてしまったらしい。


「あなたの事を頼むと、亡くなる前に兄さんと義姉さんから頼まれているの」

「ですが私はもう大人です」

「あなたはほとんどを軍人として過ごしていたでしょう? 何か遊びとか、していた?」

「チェスを少々」

「……ええ、分かっていたけれど、健全よね、本当に」


 自慢ではないが、エミルは遊びらしい遊びはほとんどした事がなかった。

 賭け事や、夜の街に繰り出すなんてとんでもない。

 任務中でなければ、決まった時間に起きて、仕事をして、そして寝ての毎日だった。

 同僚からは「付き合いが悪い」とも言われたが、それがエミルである。そう理解した同僚たちは「真面目な奴だ」と笑っていた。


「とにかく、一度会ってみて。あなた、きっと合うはずよ」


 そう断言する叔母の言葉で、エミルは見合いをすることとなった。



◇ ◇ ◇



 見合い相手の名前はアリーゼ・ゲベートと言った。

 歳は二十一。エミルより四つ年下だ。

 鮮やかな赤毛に、葉と同じ緑の瞳をした美しい女性だった。

 最初に見た時、薔薇のような人だなとエミルは思った。


「アリーゼ・ゲベートです。初めまして」

「エミル・ヒンメルです。初めまして」


 鸚鵡返しのようにエミルは挨拶する。

 こういう時にどう言えば正解なのだろうかと、言ってから思った。

 女性からよく告白される友人の真似でもすれば良かったかもしれない。

 何とも面白みのない挨拶となってしまったが、アリーゼは特に気にした風ではなかった。


「最初に、あなたに言っておきたい事があるの」

「何でしょう?」

「私は、私を分かろうとしない人と、結婚したいと思ったの。だから、あなたの叔母様から話を聞いて、あなたが最適だと思ったのよ」

「最適ですか」

「色恋沙汰に鈍い人。そして、私のこの言葉に従ってくれる人」


 すっぱりとそう言われ、エミルは目を瞬いた。

 確かに、戦場でのピリピリとした感情のやり取りならば得意だが、ごく普通の会話で感情の機微を測るのは苦手だ。

 なるほど、とエミルは頷く。


「それは私が元軍人だからですか?」

「そうよ。あなたは命令に忠実だったと聞いたわ。それに真面目。なら、そう命じられれば、あなたはそうするでしょう?」

「そうですね。よほどの命令でなければ、特に問題はありません」


 命を断てだとか、人に迷惑をかけろだとか、そういう命令ならエミルは断固拒否するが、その程度ならば問題ない。

 なのでエミルが頷くと、アリーゼは少し驚いた様子で「そう……」と呟いた。


「…………ねぇ」

「はい」

「あのね、嫌なら断ってくれて良いのよ。私、こういう性格だし、最低な言い方をしているのは分かっているから」


 それからアリーゼはそう言った。

 少しだけ申し訳なさそうな、そんな印象をエミルは受ける。

 彼女は自分の申し出が身勝手であると理解していて、その上でエミルにそう言ったようだ。

 ふむ、とエミルは一呼吸おいて、その言葉に応える。


「いえ、あなたが私で問題なければ構いません。実は私も叔母から、とにかく身を固めろと言われていて」

「叔母様から?」

「はい。長い間軍属でありましたので、そういう方面には疎く。必要性もよく分からず。ですので、努力はしますが、過度な期待をされない相手の方が有難いです」

「そう。……そうね、私は問題ないわ。そう言って貰えた方が有難いもの」


 そこで初めてアリーゼは、ほんの少し緊張がほぐれたような表情になった。

 どうやらお互いの利は一致したようだ。

 結婚とはこういう事で結ぶものかエミルは分からないが、お互いが納得しているなら良いだろう。


「では、結婚しましょうか、エミル」

「ええ。結婚しましょうか、アリーゼ」


 色気もロマンスの欠片もない話し合いで、エミルはアリーゼと結婚し、エミル・ゲベートとなった。



◇ ◇ ◇



 結婚して、ひと月。

 思っていた以上にゆったりと、充実した毎日をエミルは過ごしていた。

 婿入りする形でゲベート家にやって来たエミルだったが、使用人達はみんな彼に親切だった。


 仕事も無理のない範囲で貰う事が出来た。

 苦手な書類仕事も少しずつこなしていく内に、思っていたより楽しい事に気づく。

 ああ、これが普通の日常なのかと、休憩時間にアリーゼと、向かい合ってお茶をしながらエミルは思った。

 

 今日のお茶はミルクティーだ。優しい甘い香りがエミルは好きだ。

 美味しいな、なんて呑気に思っているエミルの向かいで、アリーゼは少し難しい顔をしている。

 何かあったのだろうか、そう思ってエミルが「どうしましたか?」と聞くと、アリーゼは両手に握っていた封筒を、顔の辺りまで持ち上げた。


「実はね、夜会の招待状が届いたのよ」


 夜会というと、着飾って、夜に集まって、ダンスをしたり食事をしたりするあれだろうか。

 エミルは頭の中でぼんやりと想像する。どう考えても自分には縁のない場所ではあるが、アリーゼにとっては違うのだろう。


「そうですか。アリーゼは行きたいのですか?」

「私、夜会とかこういう場はあまり好きではないから、行きたくないけれど……断れない相手なのよ」

「断れない相手ですか。それは……仕方ありませんね」

「そうなの、仕方ないから行くしかないんだけど……あなた、夜会に出た事はある?」

「ありません」


 エミルは首を横に振った。

 そうよね、とアリーゼも頷く。


「ちなみにダンスの経験は?」

「必要なかったので、ありません」

「じゃあ、少し練習しましょう。誰かと踊る必要はないけれど、一曲は踊らないといけなくなりそうだから」


 そんなアリーゼの言葉で、お茶を終えてから、ダンスの練習をする事になった。


 ダンス。これは困った。

 実のところエミルは音感があまりない。音痴だ、とも言われた事がある。

 銃撃の音を察知して回避するのは得意なのに、ことダンスとなると話は別だ。

 アリーゼの足を踏みそうで怖い。

 恐る恐るダンスの練習をするエミルに、アリーゼはゆっくりと、そして根気強く付き合ってくれた。


「……ダンスとは不思議なものですね。どうして皆、好むのでしょうか」

「誰かとお酒を飲むのと似た感覚なんじゃない?」

「つまり、酔っていると?」

「言われてみれば、確かにそうね。みんな酔っているように見えるわ」


 エミルの言葉に、アリーゼが小さく笑った。

 その笑顔にエミルは目を瞬く。そう言えば、彼女がこうして笑っているのは初めて見た気がする。

 何となく、もっと見ていたいなと思いながら、エミルは話を続けた。


「アリーゼはダンスが上手ですね」

「ええ。私、お父様に習ったのよ。お兄様やお姉様はあなたみたいに下手だったけど」

「どうりで、足を踏むのを避けるのが上手いと思いました」

「踏んだら泣くわよ」

「泣かせたくないので努力します」

「そうしてちょうだい。私のお兄様なんて、何度も私の足を踏んだのよ。あれは痛かったわ」


 くすくすと、思い出すように笑いながらアリーゼはそう話してくれた。

 家族の話をする時の、彼女の表情は先ほどよりずっと柔らかだ。

 アリーゼが家族を愛している事が笑顔から伝わってくる。


「アリーゼは家族が大好きなのですね」

「ええ、大好きよ! あなたは?」

「好きだと思います」


 そう答えると、アリーゼは首を傾げた。

 そして不思議そうに聞き返す。


「曖昧ね」

「子供の頃に両親を亡くしているので。でも、ええ。でも……そうですね。曖昧ですが、覚えている記憶は、どれも好きです」

「…………そう。ごめんなさい、変な事を聞いたわ」

「いえ」


 アリーゼは申し訳なさそうな顔になって、それから少し目を伏せる。 


「私もね……四年前に家族を亡くしたの」

「そう、でしたか」

「ええ。事故でね。車で移動していた時急に子供が飛び出してきて。それを避けようとして、父がハンドルを切って建物に衝突して……私だけ、無事だったわ。家族がね、私を命がけで守ってくれたの」


 突然の出来事で、家族を身を挺して守る。

 咄嗟にそんな事が出来るのは、本当にアリーゼの事を大事にしていたからだろう。

 守りたいと、助けたいと。考えるより早く体が動く。それはエミルにも覚えがある事だった。


「家族が守ってくれた命だから、私、この国で最高齢になるまで生きようって思っているのよ」


 アリーゼは明るく笑って言った。

 きっと悲しいだろう。けれどそれ以上に、自分を守ってくれた家族の事を誇らしく思っている表情だ。

 その感情が眩しくて、エミルは目を細める。


「では私も頑張らなければなりませんね」

「あなたも?」

「ええ。私がアリーゼを看取ります」

「あら、私より長生きするつもり? 負けないわよ!」

「では健康に気をつけなければ。野菜もたくさん食べましょう」

「うっ! ……やられたわ!」

「ふふ」


 思わずエミルが小さく笑うと、アリーゼが「あ」と目を丸くした。


「何でしょう?」

「あなたが笑ったところ、初めて見たわ」

「そうでしたか?」

「ええ。結構、好きよ。その顔」

「それはどうも。私も好きですよ。あなたが家族の事を話す時の笑顔」


 正直にエミルがそう言うと、アリーゼは目をぱちぱちと瞬いた後。

 心の底から嬉しそうに笑った。



◇ ◇ ◇



 夜会は、それから五日後の事だった。

 エミルはタキシードを、アリーゼは青薔薇をイメージしたドレスを身に纏い、夜会が開かれる屋敷へとやって来た。

 アリーゼの屋敷より大きな屋敷だ。窓からは、光が眩く零れている。

 エミルはそれをポカンとした顔で見ていた。


「これが夜会ですか。……戦場とは大違いですね」

「ええ、キラキラしているでしょう?」

「はい。これだけ輝いていれば、良い的になりそうです」


 危険ですね、とエミルが言うと、アリーゼは「そうだけど、そうじゃないわ」と肩をすくめた。

 それから彼女はエミルの頭から足の先をじっと見て、


「……どちらかと言うと、あなたの方が的になりそうだけど」


 と言った。

 そうだろうかとエミルは首を傾げる。

 自分の格好は夜の闇に紛れるような黒色のタキシードだ。

 確かに光の中では目立つだろうが、他の参加者達も似た装いなので、的になるほどではないだろう。


「特にそうは思いませんが……」

「だってあなた、格好良いもの」


 格好良いなんて初めて言われた。エミルは目を瞬く。


「そうでしょうか?」

「そうよ。あなた良い人だし、顔も良いし、背は高いし、どう考えても注目の的よ。ダンスを申し込まれた時の事を考えておいた方が良いわよ」

「私はアリーゼの夫なので、他の方とはダンスをしません。不誠実ですから」


 とんでもない、とエミルが首を横に振ると、今度はアリーゼが目を瞬いた。


「あなたって、知っているけど本当に真面目なのね」

「よく言われます。頭が固いと」

「いいえ。……褒めてるの」

「そうですか。ありがとうございます、アリーゼ」


 そう言って微笑むと、アリーゼは少し頬を赤くした。

 エミルはそのままアリーゼをエスコートしながら受付をすませ、中へと入る。

 会場は外で見るよりもずっと煌びやかで眩かった。

 豪華だな、なんてシンプルな感想をエミルが抱いていると、


「あら、アリーゼさん! 久しぶりね!」


 と、エミル達を見て一人の女性が駆け寄って来た。

 緑色のドレスを来た、巻き毛の女性だ。彼女を見て一瞬、アリーゼの表情が強張る。

 おや、と思っていると、


「……ごきげんよう、アデリナさん」


 とアリーゼは挨拶を返した。


「お知り合いですか?」

「ええ。アデリナ・アヴェリスさん。私の学生時代の同級生。この夜会の主催者よ」

「初めまして! あなたがアリーゼの旦那様?」

「はい。初めまして、エミル・ゲベートと言います」

「アデリナ・アヴェリスです、よろしくね。……うふふ、もうっアリーゼさんったら! 素敵な旦那様じゃない!」

「ええ、とても良い人よ」


 何となくぎこちない様子でアリーゼはそう言う。

 どうしたのだろうか。

 会場に入る前は、アリーゼの表情はもっと柔らかかったはずなのに。

 今はどちらかと言うと緊張しているようにエミルには見えた。 


「……良かったわ。あなたが幸せそうで。私、ずっと心配していたの。だって、あなた……」

「大丈夫よ。私、いつだって幸せだったもの」

「あなたはいつも、そうやって私達を気遣ってくれたわね。家族の事で辛いのに……」

「気遣ってなんて」

「いいのよ、アリーゼさん。分かっているから。……エミルさん、アリーゼさんをよろしくお願いします! じゃ、また後でね!」


 アデリナはそう言ってエミルに頭を下げると、他の人の方へ挨拶に向かっていく。

 彼女は笑顔で挨拶をして、時折アリーゼの方を見て、何か言って涙ぐんでいる様子だった。

 何だか変な感じだなと思いながら、エミルがアリーゼを見ると、彼女は酷く辛そうな顔をしていた。


「アリーゼ」

「……何?」

「お腹が空きませんか?」

「え?」

「ドレスを着るために、食べていなかったでしょう? 食事を持ってきますから、少し離れて食べてしまいませんか?」

「エミル……」

「実は私もお腹が空いています。もう食事はとっても良いのですよね?」

「……ふふ。ええ、そうね。大丈夫よ。私もお腹が空いたわ。お願いしても良い?」

「もちろんです。では、少しお待ちくださいね」

「ええ。……ありがとう、エミル」


 アリーゼが少し笑ってくれて、エミルはほっとした気持ちになる。

 早く料理を取って戻ろう。

 皿を持ち、料理が並んでいるテーブルに向かい、彼女の好きそうなものを選んでいると、


「なあ! あんた、アリーゼの旦那さんだろ!」


 と、今度はエミルが声をかけられた。

 振り返ると、黒髪の青年が立っている。歳はアリーゼと同じくらいだろうか。


「はい、あなたは?」

「俺はエドウィン。あいつの同級生なんだ」

「そうでしたか、初めまして」


 どうやら同級生らしい。

 周りを見れば似た年齢の者達ばかりがいるあたり、同級会を兼ねた夜会なのだろうか。

 そんな事を考えていると、エドウィンはエミルを見上げて、


「初めまして。……なぁ、アリーゼの事、ほんと頼むな。あいつ、かわいそうな奴なんだよ」


 と言った。

 その言葉にエミルは怪訝そうな顔になり「かわいそう?」と聞き返す。


「家族全員、事故で失くしちまって。あいつ、一人ぼっちになっちまったんだ。……だけど、いつだって気丈に自分は大丈夫だって笑ってた。家族が守ってくれたからって。そう言うあいつがかわいそうで、見ていて辛くて、たまらなかった」


 そう言いながら、エドウィンは、ぐ、と拳を握る。


「……ずっと、歯がゆかったんだ。何も出来ない事が。だから、今日はあんたと一緒で楽しそうな顔を見てほっとした」

「…………」

「アリーゼを、頼むな。本当に、頼むな!」


 何だ、この違和感は。エミルは奇妙な気持ちになった。

 先ほどのアデリナの言葉もそうだ。ボタンを掛け違えているように、何かが絶妙にずれている。

 確かに彼女達はエミルより長くアリーゼの事を見てきたのだろう。

 その上で、彼女達はアリーゼの事をずっと「かわいそう」だと心配している。


――――だけど、アリーゼは。


 そう言われた時、アリーゼがどんな表情をしていたか、彼女達には見えていないのだろうか。


「――――いい加減にして!」


 その時、アリーゼの声が聞こえた。

 ハッと彼女の方を向けば、アリーゼの周囲には大勢の人が集まっている。

 彼女が声を荒げるくらいの何かがあったのだ。エミルは料理を置いて、彼女のところへと走る。


「あ、アリーゼ、どうしたの?」

「私は大丈夫よ! ずっと大丈夫だって言っていたわ! 気遣ってなんかない! 本当に、大丈夫なのよ!」

「アリーゼ……」

「ごめんね、あなたがまだ辛いのに……」

「違うの! だから、本当に違うのよ……! どうして伝わらないの。どうして、ちゃんと聞いてくれないの!」


 泣きそうな顔になりながら、アリーゼは両手で耳を塞いでいた。


「アリーゼ!」

「エミル……」


 駆け寄ると、アリーゼはほっとした顔になった。それから縋りつくように、エミルの上着を掴んだ。

 アリーゼに、何という顔をさせた。

 ふつふつと込み上げてくる怒りの感情を呑み込んで、エミルはアリーゼに微笑む。 


「アリーゼ、帰りましょうか」

「エミル?」

「お腹が空きませんか?」

「……空いたわ」

「実は私、パンプディングが食べたいのです。私の母の得意料理でした。そして私の唯一の得意料理でもあります」

「…………食べたい」

「はい。……すみません、皆様。夫婦そろって、体調が優れませんので、失礼させて頂きます」


 エミルはそう言って一礼すると、アリーゼを支えながら屋敷を出る。

 後ろから「アリーゼ!」とアデリナ達が呼ぶ声が聞こえたが、エミルは無視した。

 騒がせたことを詫びて、休憩する振りでもして、それから静かに退場すれば良かったのだろう。

 だが、エミルはそうしなかった。辛そうなアリーゼを、これ以上あの場に置いておきたくなかったのだ。



◇ ◇ ◇



 足早に車に乗ると、エンジンをかけ、走らせる。

 ユーヴェルージュの宝石のような夜景が、窓の向こうに流れていく。

 聞こえてくるのは車が走る音と、ほんの少しの外の音だけだ。車内ではエミルもアリーゼも黙ったままである。

 しばらくして「……ごめんなさい」と、掠れるような声でアリーゼが言った。


「どうしてアリーゼが謝るのです?」

「私が行こうっていったのに、めちゃくちゃにしてしまって。アデリナさんにも、ちゃんとお詫びをしなくちゃ……」


 声に、力がない。こんなアリーゼの声をエミルは初めて聞いた。

 夜の闇の中に、今にも溶けてしまいそうな声を繋ぎとめたくて、エミルは言う。


「アリーゼ。どうぞ、吐き出してしまって下さい。言いたかった事を胸に秘めたままだと、とても息苦しくなりますから」

「…………エミル」

「あなたの言葉を聞く事は、分かろうとしないでという命令に反さないでしょう?」


 エミルがそう言うと、アリーゼは視線を彷徨わせた後、膝の上に乗せた手に目を落とした。

 ぎゅ、とその手に力がこめられる。

 それから彼女はぽつり、ぽつりと話してくれた。


「私ね。私…………分かって欲しくなんて、ないの」

「はい」

「皆ね、分かった顔をして、かわいそうだったねって言うのよ」

「はい」

「心配してくれる気持ちは、嬉しいわ。でも、知らないくせに。私がどう思っているかなんてちゃんと聞いてくれないくせに。私にね、かわいそうだったねって言うのよ」


 私は、とアリーゼは叫ぶような声を出す。

 するとポロポロと彼女の緑の瞳から、大粒の涙が零れた。


「私は、かわいそうなんかじゃないわ! 私は、私は――――幸せ、だったの……ッ」


 声に嗚咽が混じり出す。

 感情が、堰を切って彼女の口から流れていく。


「皆、大丈夫って、私に聞くの。だから大丈夫だって私は答えるの。本当に、本当に私はそう思ったのよ。でもね、その後にこう言うの。無理しないでいいんだよって。……私は無理なんてしていないわ。本当に、本当に大丈夫だったのよ」


 ぐす、と鼻をすすって、アリーゼは手の甲で強く目を拭く。

 けれど涙は後から後から落ち続ける。


「悲しかったわ。辛かったわ。苦しくて、苦しくて、涙が出て止まらなかったわ。でも! 私は大丈夫だった! だって、幸せだったから! 家族が大事にしてくれたから、命懸けで守ってくれたから!」


 なのに、とアリーゼは叫ぶ。


「なのに……誰も私の言うことなんて、信じてくれないの。どうして、私の幸せを嘘だって皆思うの。私の幸せを、過去のものにしようとするの。私、私は……」


 ああ、そうかとエミルは思った。

 彼女は家族を愛していた。最後の最後まで自分を守ってくれた家族を。

 だから辛いとか、悲しいとか、そういう感情と同じくらい、彼女はそんな家族を誇りに思っていた。

 そしてきっとアリーゼだって、彼女の家族と同じ事をしただろう。


 幸せだ。幸せだったのだ。なのにどうして、とアリーゼは言う。

 その言葉に、彼女の涙に、エミルは理解する。彼女は。


「アリーゼ。あなたは――――あなたは、悔しかったのですね」


 アリーゼの薔薇の葉のような瞳が見開かれる。

 大きな瞳からぽたりとまた一粒、涙が落ちた。


「…………うん」


 アリーゼは頷いた。一度目は小さく、そして二度目は大きく。


「わた、私…………私ね、かわいそうじゃなくてね」


 ひっく、とアリーゼはしゃくりを上げる。


「あなたの家族は、すごい人達だったねって、言われたかったの……ッ」


 誇らしい。何より、誰より、誇らしい。

 大事で大好きなアリーゼの家族。

 だからこそアリーゼは、自分の家族を『かわいそう』のままにしたくなかった。


「……誰かを守るという事は、難しい事です。戦場では、守るよりも相手の命を奪う方がずっと簡単だった」


 だから、とエミルは続ける。


「元軍人のエミル・ゲベートが証言します。アリーゼ、あなたの家族は、とても優しく、愛情深く、そして――――すごい人達です」


 エミルがそう言うと、アリーゼは大きな声を上げて泣いた。



◇ ◇ ◇



 屋敷へ戻って早々に、エミルは約束通り、パンプディングを作った。

 パンがプディング――プリンになるものだから、料理とは不思議なものである。

 エミルは母がこれを作る度に、いつもお伽話の魔法みたいだなと思っていた。


「はい、できましたよ。アリーゼ」

「…………ありがとう」


 テーブルの上に二人分のアツアツのパンプディングとミルクティーを置き、エミルは向かい側に座る。


「いただきます」

「……いただきます」


 そして二人揃って、スプーンですくって口に入れる。

 舌の上でとろとろとしたパンプディングが崩れ、口の中に優しい甘さが広がった。

 アリーゼが「美味しい」と呟く。その声が嬉しくて、エミルは小さく笑った。


「……ねぇ、エミル。今日は、迷惑をかけてごめんなさい」

「迷惑ですか。私は別に、迷惑なんてかけられていませんよ」

「色々かけてしまったわ。……私ね、意地になっていたの。誰も私の事を分かってくれないって。だから、誰にも分かって欲しくないって。なのに……自分の言っている事を理解して欲しいって騒いで。すごく、矛盾していたわ」


 しょんぼりと肩を落としながら、アリーゼは言う。

 エミルは一度スプーンを置いてから、


「そうですね。ですが、アリーゼ。それならば、私もそうです」


 と言った。アリーゼは首を傾げる。


「何が?」

「あなたの命令に背きました。分かろうとするな、という」

「え?」

「車の中で」


――――アリーゼ。あなたは――――あなたは、悔しかったのですね。


 あの時、エミルはアリーゼにそう言った。

 その言葉は、エミルがアリーゼの事を『分かろう』として口にした言葉だ。

 だから彼女との約束に反すると、エミルは言う。するとアリーゼは目を瞬いた後、


「……気付かなかったわ」


 と呟いた。

 その時、泣いていたせいだろう。そこまで思考が回らなかったのだ。

 エミルは穏やかに目を細める。


「矛盾を持たない人なんていませんよ、アリーゼ。ですから、その。――――もし、また私があなたを分かろうとしてしまったら、その時は。ちょっとだけ、目を瞑って頂けると有難いです」

「目を」

「はい」

「……ふふ。そう、ね。ええ。いいわ。だってあなたは私の家族だものね。なら、エミル。私も……私も、また矛盾した時は。……私を助けてくれる?」


 アリーゼはエミルの目を見てそう聞いた。

 その問いへの答えは、エミルは一つしか持ち合わせていない。


「もちろんです、アリーゼ。私はあなたの家族ですから」


 はっきりとそう答えたエミルに、アリーゼは花が咲くような笑顔を返してくれたのだった。

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